第3話


 カトリンが院長をしている修道院にリヴィアが逃げ込んでから一ヶ月が経った。駆け込んで来たリヴィアに驚きはしたものの、カトリンは事情も聞かずに温かく受け入れてくれた。


 日の出と共に目を覚まし、日中は掃除や洗濯、畑仕事に精を出す。雨が降れば針仕事をする。リヴィアは令嬢の嗜みとして刺繍はよくしていたので、針仕事は苦ではない。日が沈めば休む。ここに夜会はないから、リヴィアの生活はとても規則正しい。


 リヴィアは今、来月開催されるチャリティーバザーに出すハンカチに刺繍を施しながら、自分が何故ここに来たのか理由を忘れてしまいそうなくらい平穏を感じている。


 あの後、翌日に予想通り王宮から使者が来た。使者と言ってもウィルフレッド本人が来たと言う。すでにリヴィアが修道院に入った事を知らされたウィルフレッドは「どこの修道院に入ったのか!」と詰め寄られたと手紙に書いてあった。


 膝蹴りの恨みなのか、とにかく執念のようなものをリヴィアは感じてしまった。しかし、それ以上詰め寄る事も厳しい処分がなかったのも、シャンペール公爵家への遠慮とリヴィアの母の実家の事を考えてに違いなかった。


 リヴィアの母、ソフィアはお隣の国の国王陛下の姪なのだ。そしてソフィアの父は臣籍降下したとは言え王弟殿下。シャンペール家が中立を貫くのはこの為だ。どこかの派閥に属してしまえば、国内のパワーバランスが崩れる。それをしない為に中立を保っている。


 そんな事情のあるシャンペール家はとても慎重にリヴィアの嫁ぎ先を探していた。可愛い一人娘を国外に嫁がせるのは論外。かと言って国内の貴族においそれと嫁がせられない。リヴィアを嫁にやる事はその婚家に他国の王家の後ろ盾を与える事になる。下手をしたら、その後ろ盾を悪用して内乱が起こるかもしれない。苦心していたところに打診してきたのが王家と言う訳だ。


 国王陛下としても、争いの火種になりそうなリヴィアの存在を野放しにはしておけなかった。幸い年が同じ息子がいる。その息子の嫁にと話がきた。シャンペール家としても国内の勢力図が一気に変わってしまう事態は避けたかった事と、何より王太子の婚約者ならば他の貴族の縁談は簡単に断れる。


 (でも、お父様の苦労もアリアドナ伯爵令嬢のせいで無駄になってしまいましたわね。)


 娘の幸せを願って、リヴィアが政治的駒として使われる事のないようにと考えた上での婚約だったが、すべてプリシラのせいで台無しにされてしまった。彼女が将来有望な令息達と次々としていたのは知っていたけれど、婚約者がいてもお構いなしなのには呆れてしまう。


 そろそろ婚約解消の連絡が来るかもしれない。そうしたら、リヴィアは母の実家のある隣国に行くつもりだ。


 この国に残って、王太子の婚約者の後釜に見事に座ったあのプリシラ・アリアドナに頭を下げるなんて冗談じゃない。リヴィアは他人の婚約者を略奪するような恥知らずに下げる頭はあいにくと持っていない。


 第一、そんな女性が王太子妃ゆくゆくは王妃になるなんてこの国終わったなとしか言えない。さっさと見切りをつけてしまおう。


 そんな事をつらつらと考えながら刺繍をしていると、俄に外が騒がしくなった。


 「何かしら?」


 同じように刺繍をしていたシスターが窓から外の様子を窺う。


 「お、おおおお嬢様ぁ~」


 そこへデイジーが転がるように駆け込んで来た。


 「デイジー、どうしたの?」


 「でっででででっ…」


 壊れた人形のようにでの音ばかり繰り返すデイジー。


 「デイジー?」


 「殿下がっ!殿下がいらっしゃいましたっ!」


 告げられた言葉にリヴィアが思わず椅子から立ち上がるのと、デイジーの後ろに人影が現れたのは同時だった。


 「久しいな、我が婚約者殿。」


 真後ろで殿下の声を聞いたデイジーは驚いて飛び上がり、わたわたとリヴィアのもとに走り寄る。


 「お久しぶりでございます、王太子殿下。」


 ちょうど椅子から立ち上がったリヴィアはそのまま優雅な礼を取る。肝を潰したのは同じ部屋で刺繍をしていたシスター達だ。彼女らは突然現れた『王太子殿下』と言う雲の上の存在に身動きすら取れない。


 「リヴィア以外、全員外して貰えるか。久しぶりに婚約者に会ったので、二人だけにして貰いたい。」


 お願いのように聞こえるが命令だ。この場で一番高貴な身分である彼の言葉に逆らえる者などいない。リヴィアは横のデイジーに目配せすると、デイジーが室内にいたシスター達に部屋から出るように促す。最後に部屋から出たデイジーがドアを少しだけ開けて退室する。


 しかし、ウィルフレッドがドアノブを掴んでパタンとドアをすべて閉めてしまった。流石にこれにはリヴィアも内心焦る。


 一応、まだ婚約者かもしれないけど婚約を解消しようとしている未婚の男女が密室にいるのはよくない。


 「先に言っておくが、私と君はまだ婚約者同士だ。」


 「ですが、この状況はよくありませんわ。」


 いくら婚約者同士でも余人が見たら眉を顰める状況である。


 「他人に聞かれたくないのでな。」


 ゆっくりとこちらを見るウィルフレッド。彼が女性に手を上げたりしないと信じてはいるが、膝蹴りの件もある為リヴィアは体を硬くする。


 「ところで、どうやって私がここにいると?」


 時間稼ぎにもならないだろうが、気になったので聞いてみる。父や兄が話たとは微塵も思わない。


 「王都の周辺とシャンペール公爵領の修道院を虱潰しに探させただけだ。」


 さらりと事もなげに言うが、一体どれだけの数があると思っているのか。もうそれだけで執念が透けて見える。げに恐ろしきは膝蹴りの恨み。彼からしたら沽券に関わる問題なのであろう。


 「それで、こんな所までいらしたご用はなんでしょう?」


 本来なら代理人を立てれば済む。それを敢えて本人がやって来るなんて、そうとう膝蹴りのお返しをしたいとしか思えない。


 「愛しい婚約者を迎えに来ただけだが?」


 「…ご冗談を。私達は婚約を解消するのでしょう。」


 『愛しい婚約者』なんて、今まで一度も言われた事がない。リヴィアもウィルフレッドの事を愛している訳ではないから、そう言われなくても気にしなかった。何故今、言うのか?本当に訳がわからない。


 「私は君との婚約を解消はしない。」


 「…アリアドナ伯爵令嬢はどうなさるおつもりですか?彼女を愛しておられるのでは?」


 国の為を思ってリヴィアと結婚するつもりなのだろう。そうするとプリシラを愛人として囲うと言う事だろうか。だが、リヴィアとしては自分の夫を他人と共有するつもりはないので、プリシラを愛しているのならやはり婚約は解消して貰いたい。


 「私は別にアリアドナ伯爵令嬢の事など愛してはいないが?」

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