第30話 異世界の恋人

──怪我をした。

 そうメールが送られてきてから頭が真っ白になり、人の声が遠くなった。

 前向きに考えられるならメールをするだけの元気があるととらえられるが、それはあくまで他人だった場合だ。身内で、しかも恋人となるとメールの相手は本人なのかとぶっとんだ方向までいってしまう。

 次に電話がかかってきて、ようやく本人だとほっとできた。

 ちょっとしたミスで打撲したらしく、骨には異常がないとのこと。

 それでも歩くのが困難であるため、動物園まで迎えに行くことになった。

 駐車場に車を駐めて降りた瞬間「あれアキじゃね?」という一瞬でばれる大声が耳に届いた。遅れて「彼氏の送り迎えかな?」とこれまた周囲に聞こえる声もセットで届いた。

 羞恥と心配が入り混じり、ファンサービスはできる状態でもなく足早に指定された裏口へ急いだ。

「怪我をした倉木窓夏を引き取りにきました。藤宮と申します」

「お待ちしていました。中へお入り下さい」

 けたたましい動物の鳴き声と独特の獣臭がする。

 毎日ここで仕事をするとなると、秋尋にはきつい。よほど好きでないと、続かない仕事だ。

 控え室を通り奥の部屋に行くと、他の従業員に囲まれている窓夏がいた。

「窓夏」

「あっくん」

 最初が肝心だと、秋尋は丁寧に頭を下げた。

 気づかれた上、そういう目で見られても、気にしない素振りを見せる。

 窓夏の右足は固定されていて、松葉杖まである。

「骨に異常はないんだよな?」

 近づいて太股に手を押くと、窓夏も重ねてきた。

「うん、大丈夫。けど歩くのに支障が出ちゃってて、松葉杖渡された」

「軽傷でも使えるようなら使っておけ。負担かければかけるほど、治りは遅くなるぞ。……どうしてこうなったんですか?」

 過保護なほど他人の心配を背負った窓夏は、怪我人であるのにもかかわらず平気そうな顔をして笑っている。回りの人間が苦しそうだ。であれば原因は窓夏の不注意ではないと断言して、他の従業員に聞いてみた。

「こちらの不手際なんです。今日、象の担当者がお休みになって急遽倉木さんに頼んだんです。昨日の段階で戸締まりをしっかりしていなくて、倉木さんを見たとたん、子象が檻を開けて後ろから抱きついてしまって……」

「象は僕と遊んでほしかったんだよ」

「窓夏、何の擁護にもなっていない。お前は怪我をしたんだからな」

「それはそうだけど……」

「働いているお前にしか分からないこともある。けど、怪我人の家族である俺にしか分からない感情もある」

「本当に申し訳ございません。警察にも連絡をし、すべてカメラも見せて状況の説明をしました」

「であれば、後は警察にお任せします。法できっちりと判断していただけたら、俺としてもいくらか心の荷が下ります」

 責めてもどうにもならない問題で、窓夏の怪我が良くなるわけでもない。今はこの場を収めて窓夏を負担のない家に連れて帰ることが一番だ。

「立てるか?」

「うん、大丈夫」

 慣れない松葉杖を使わせるよりお姫様抱っこで運びたかったが、窓夏は嫌がるだろう。

 彼のペースに合わせて駐車場まで戻ると、先ほどの女性たちがまだいた。離れてこちらに携帯端末を向けようとしている。

 気づかないふりをしてさり気なく窓夏を隠すが、怪我人がいると分かると彼女たちは端末を下げた。

「フェラーリでお出迎えなんて、僕って貴族だった?」

「かもな。かっこいい王子様、こちらへどうぞ」

 窓夏を助手席に乗せてから運転席へ行くと、女性たちはこちらを凝視するだけでもう端末を向けていなかった。

 怪我人を見て隠し撮りをする気はさすがに起こらなかったらしい。

「──っ…………」

「大丈夫か?」

「ちょっと響いただけ」

「手も痛めてるのか」

「転んだときに地面に手をついちゃって。でも骨も無事だし、軽く湿布してもらった」

「両方右なのは痛いな」

 窓夏は右利きだ。右手が利き腕だと、おそらく足も右利きだろう。

「足が治るまでお休みだから、家の仕事は僕がやるね」

「それだと休む意味がないだろ。リハビリしててくれ。ご飯は普通に食べられそうか?」

「食欲はある。肉が食べたい」

「かしこまった」

 ステーキにするかハンバーグにするかメニューを考えていると、隣ですき焼きの歌を披露される。夕飯は決定事項だった。

 スーパーでちょっと高めの牛肉を買い、家に戻った。

 いまだに歌い続けるすき焼きの歌を焼き魚に変更して歌ってみると、この世のものとは思えない顔になった。

「僕がお風呂入ってる間に焼き魚になるの?」

「ならない、冗談だ。つーか一人で風呂に入れるのか?」

「なんとか頑張る」

「頑張らせるために家に連れてきたわけじゃない。俺も一緒に入る」

「やらしーことしない?」

 秋尋は一瞬間を置いて、

「それとこれは別と言いたいが、今日は難しいだろうな」

「きゃー」

 お姫様抱っこのままバスルームへ行き、一枚一枚丁寧に脱がす。

 予想はしていたが、痛々しいほど痣が浮かんでいた。

 これだけ真っ白でシミ一つない身体なだけに、悪気のない子象へ恨みの一つも言いたくなる。

「動物に罪はないのは分かる。それでも気持ちをどこかに押しつけないと、平常心を保っていられない」

「あっくんの立場だと、そうなると思うよ。機材が身体にぶつかって怪我をしたってなったら、僕だって仕事関係者の人に物申したくなるだろうし」

「……ちょっと楽になった」

 毒のある発言を認めてもらえれば、正しくなくても浄化される気がした。

 曇った視界が開けていく。

 頭は打っていないようなので、いつもの力で洗った。タオルで泡立て、撫でるように身体を泡まみれにしていく。

「痛いところはないか?」

「それよりくすぐったい」

「ここ?」

「あっ……、うん……」

 股間に手を伸ばし、熱を帯びた肌に触れる。泡ではないものの体液も借りて、精袋を揉みながら手のひらで包み、先端まで滑らせていく。

「ひぅっ…………!」

 ぴしゃりとタイルに漏らしてまだ漏れ続ける性器に触れると、背中がびくりと反応する。拒絶ではなく、快楽によるものだ。

 精管に溜まるものも押し出してやると、奥で眠っていた快感も放出した。

「さあ、逆上せる。もう上がろう」

「あっくんは?」

 服のままでいる股間の膨らみを見て、窓夏は物欲しそうな顔をした。

「しゃぶっちゃだめ?」

「だめ。また今度な」

 むずむずするが、仕方ない。しゃぶったところを見ておもいっきり口の中に出したいが、万が一にでも無理をさせて仕事復帰も遅れたりしたら、ひとときの愛に酔いしれるべきではないと思う。

 秋尋は奮い立たせ、できるだけ彼の身体を見ないようにしながら窓夏の着替えを手伝った。


 食欲を発揮した窓夏が秋尋より肉を食べ、いつもより少し豪華な夕食を終えた。

 ほんのりと桃色に染まる首と頬に違和感を感じ、額に手を当ててみる。

「窓夏、熱を測ろう」

「いや……ないよ……?」

 目が泳ぐのを見て、嫌な予感がした。

 逃げようとする彼を引き寄せ、パジャマのボタンを外して体温計を差し入れる。

 くすぐったそうに身をよじる姿にむらっとしながらも、耐えた。

 見える乳首を吸いたい、舐めたい、頬擦りをしたい──。

「すけべ」

「その通りだ。今日は甘えさせてくれ」

 残念ながら、平常体温とは言い難い微熱だった。

 体温計を持って唸るのは、確信がないのにないと言い張った窓夏ではなく、秋尋だった。

 窓夏はいいこいいこと秋尋の頭を撫でる。

「今日は早く布団に入ろう」

「我慢できるの?」

「するしかない。窓夏の身体が一番大事だ」

「俺の身体にかける……?」

「ッ……なんでこう、こういうときにそういうお誘いするんだ……」

 こうなったら妄想でどうにかするしかなかった。

 窓夏を部屋に届けた後、トイレに行こうと立つと袖を掴まれる。

「ここでしたら? 見たいなあ」

「悪趣味だぞ」

 窓夏の手を布団の中に入れ、トイレで吐き出した。

 恋人がすぐそこにいるのに虚しくなるが、怪我が悪化されるよりは全然いい。

「いい子にしてたか?」

「してたよー。隣が寂しいなあ」

「今日は甘えん坊だな」

 隣に滑り込むと、早速足を絡ませてきた。

「これだけ世話をしてもらえるなんて、嬉しいし情けなくなるしもっと甘えたくなる」

「情けなくなる必要はないが、とことん甘えてくれ。お前からメールが来たとき、ヒヤヒヤしたんだぞ」

「あそこまで真っ青になってるとは思わなかった。どうにもならないときはあるけど、気をつけるね」

 もう一度額に手を当てると、やはり熱かった。

 ちゅ、と音を立ててキスを贈り、臀部の辺りを何度も叩いた。

 窓夏の大きな目はゆっくりと閉じていき、やがて一定の呼吸が聞こえてくる。

「おやすみ、窓夏」

 愛しい愛しい恋人は、今日も胸の中で安心しきった顔をしていた。

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