第31話 人生の決断

 ふたりの朝は、一本の電話で起こされた。

 警察からで、もう一度状況を聞きたいと連絡があったのだ。

「警察署に来てくれってさ」

「送っていく。けど昨日も話したんじゃないのか?」

「そうなんだけど……どうしても少しだけ聞きたいんだってさ。けっこう切羽詰まった感じで」

「本当に事故だったんだよな?」

「どういうこと?」

 窓夏は怪訝な、不気味なものを見るかのような顔つきになる。

「事故って聞いたけど……」

「いや……俺の勝手な思い込みだ。家を出よう」

 職場での揉め事は、現に窓夏は経験している。

 本人はまったく悪くないのだが、高田という男に因縁をつけられ、週刊誌に写真を売られている。

 窓夏は恨まれる性格ではないが、かえってそれが相手に反逆心を持つ人間も少なからずいる。

 支えてやりたいが、松葉杖で歩こうとする彼の意思を尊重した。

 秋尋は斜め後ろから何かあってもいいように見守る。

「怪我が酷いのに申し訳ありませんねえ」

 人良さそうな警察官が出てきて、窓夏を痛々しそうに見つめた。

「骨には異常がないんですよ。松葉杖自体が大袈裟すぎるくらいで」

「用心するのに越したことはないですよ。ではあちらへどうぞ」

「あっくんは?」

「俺はロビーで待ってる」

「分かった」

 今さらだろうが帽子を深く被り直し、固い椅子に腰を下ろした。

 少しでは終わらないだろうと思っていたが、窓夏が解放されたのは一時間三十分も経ってからだ。

「足、大丈夫か?」

「うん、問題ないよ」

「どうした?」

「うん……おうちに帰りたい」

 人目も憚らず、松葉杖から体重は秋尋へ移動する。

 抱き留めると、少し震えていた。背後にいる警察官に気づかないふりをして背中と尻を何度か撫でる。

「帰りはお車ですか? 電車やタクシーなら送って行きましょうか?」

「車なので大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

 窓夏は早く出たがっているようで、口を閉ざしたまま出入り口から視線を外さない。

 車に乗ってエンジンをつけると、緊張の糸が解けた。

「何があったんだ?」

「あっくんの予想通りだったっぽい」

「事故じゃなく、事件?」

「象がいた檻の鍵をわざと開けてた人がいるって呼び出された。あくまで可能性の話で」

 しばらくは無言で走り出した。疲れ果てている窓夏に負担をかけたくなかったからだ。

 信号で止まると、窓夏は運転席の秋尋を見てくる。

 微笑むと、窓夏の目が笑った。

「さっきの可能性の話だけど、」

「うん」

「窓夏を直接狙った、窓夏以外の誰かを狙ったが失敗に終わった、誰でも良かった。いろんなパターンが考えられる」

「僕を狙ったとしたら……」

「あまり気に病まない方がいい。恨む人間はどんな理由でも恨む。素敵な鞄を持っていたから羨ましくて腹が立っただの、すれ違ったときにイライラしただの理由なんてそんなものだ」

「僕って人から恨まれやすいのかな」

「どうだろうな。俺からしたら恨む要素は皆無だが。幸せが満たされている人を見ると羨ましくて仕方ないって人もいる。一定の線を越えると傷つけたくなる輩も。事件であれば、まずは警察に任せるべきだ」

「そうだね」

 気に病むなと話しても、窓夏からすれば気にしないのは無理がある。

 途中で窓夏の好きなアイスクリームを買い、車の中で食べるといくらか表情は和らいだ。

「中学のときもさ、買い食いしたの覚えてる?」

「忘れたことなんてない。美味かったな、あれ」

「食べたくなってきたなあ」

「行ってみるか?」

「今から?」

「このアイス小さいし、もう一つくらい入るだろ」

 返事を待たずに、右に曲がるはずの道だが左へハンドルを切った。

 少しでも窓夏が喜ぶのならなんだってできた。今は特にそう思う。

 近くの駐車場で車を駐め、買いに行こうとすると窓夏も助手席を降りた。

「足、平気か?」

「リハビリだと思えば問題ないし。それにふたりで買いに行きたい。何味にしようかな。あっくんは?」

「バニラ」

「さっきもバニラだったじゃん」

「窓夏は?」

「抹茶」

「さっきも抹茶だっただろう?」

 窓夏の歩幅に合わせ歩き、過去の記憶を思い出していた。

 こっそり買い食いしたことも、ふたりで歩いた道もすべてが愛おしくて宝物だ。気持ちを告げたらどうなるかと思い悩み、結局彼を傷つけた。もうあんな思いはさせたくない、幸せしか贈りたくなかった。

「えっ」

「あれ……モデルのアキ?」

 学生の多い地域ではこうなることは分かっていたので、対応は考えていた。

 唇に人差し指を当て、帽子を深く被り直す仕草をする。これだけで、完全にプライベートだと伝わった。

 窓夏の腰に手を回すと、ひくんと可愛い反応を見せる。

「抹茶でいいのか?」

「う、うん……」

「抹茶と、バニラ一つ」

 あのときの店員ではなく、時代の流れを感じ、寂しい気持ちになる。

 それは自分たちもだ。関係は友人から恋人へ変化した。ふたりの関係を哀愁めいたものを感じる人もいるだろう。他人であっても、幸福と漂流感は切り離せない。

「そこに座ろう」

 学生に囲まれてデートは落ち着かないが、空気を呼んでくれる子たちのようだ。人の目は多数あるが、邪魔をしようとする者やカメラを向ける者はいない。

「美味いな」

「うんっ。懐かしい味。シンプルが一番だよね。さっき食べたのも美味しかったけど」

「また来よう」

「約束だよ」

 左手の小指を突き出してきたので、恥ずかしかったが秋尋は絡ませた。

 人が見ているとか、そういう感覚はなかった。あのときもしたかった将来の約束をし、誓い合うものがほしくてたまらなかった。

「帰ろうか。俺たちの家に」

 窓夏は松葉杖ではなく、秋尋に体重をかけて立ち上がった。


 ふたりの距離は近くて、誰よりも熱い視線を浴びていた──。




 数え切れないほどの恨みや妬みは、憎悪しか生み出さなかった。

 自分では気づかないうちに生まれた悪は、足の怪我となって表れる。

 三か月前に松葉杖を使用していたことが嘘のように傷は治り、それと同時に犯人が逮捕された。つくづく、話題を提供する動物園だ。提供しているのは自分だと、窓夏は骨が折れる思いで苦笑いをする。

 象の檻の鍵を開けたのは同僚で「怪我をするのは誰でもよかった」とお決まりの台詞でストレス発散の言葉を口にした。

 真実は神のみぞ知ると言いたいのは、彼女はアキのファンクラブのグッズを持っていたからだ。鞄に忍ばせていた手帳には会員番号が刻まれていて、当初からのファンたったと伺えた。

 窓夏はしばらく仕事を休んで、結局辞めることになった。選択肢がいろいろある中でこの決断を下したのは、秋尋と一緒にいるためだった。

 彼と別れる選択肢はまったくなくて、だからこそ身体と心を休ませるために結論を出した。

 覚悟を決めた窓夏の人生に寄り添うように、秋尋も小指を差し出した。

「結婚しようか」

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