第29話 想い人
二頭追えば、必ず一頭は逃さなければならない。
祖父からの教えである得となるものを追えという無慈悲な刷り込みは、高校を卒業してからも頭から抜けることはなかった。
夢か恋愛か。残酷な選択肢を迫られたとき、秋尋は夢をとった。どちらも追うなんてできなかった。自分で決めた道なのに、いまだに悪夢が秋尋の意識を奪う。
夢見が最悪の中、現場へ向かった。
メイク担当者が秋尋の顔を見るなり、
「ちょっとちょっと、何なのよこの顔」
「すみません、寝不足で」
「隈がひどいわよ。おまけに肌も荒れてる。ちゃんとご飯食べてる?」
「あー……、昨日の夜と朝は何も。お茶を飲みました」
「栄養失調になるわ。間違ったダイエットだけはやめて」
「大丈夫です。ちょっと食欲なかっただけですから」
捨てきれない想いが食欲減退させたなど、口が裂けても言えなかった。
化粧で隈もごまかしてもらい、数時間の撮影を終えた。
「この前ね、素人の子が彼女と遊びにきたんだけど、なかなか可愛らしい子だったから撮らせてもらったんだよ。最初はぱっとしない子だと思ったんだけど、撮ってみたら豹変してね。ついこっちの業界誘ってみたら、興味ないってばっさり」
「皆がみんな芸能界に興味があるわけじゃありませんからね。そんなに良かったんですか?」
「写真見る?」
渡された飲み物を口にしながら、写真を受け取った。
「──っ…………」
前髪を鬱陶しそうにかき上げ、流し目でカメラ目線をする男だった。
「幼い男の子って感じだったんだけど、カメラ向けたら大人の男って感じで」
この子は危険だと心臓が警鐘を鳴らした。
無理に積み上げてきた夢が脆く崩れ落ち、とっさにテーブルへ手をついた。
「ちょっとちょっと、大丈夫?」
「平気、です」
なぜ、どうして、と疑問ばかりが頭を占めた。
いないはずの彼が、会えないはずの彼が現れた。
化粧をして髪型を変えたとしても、側で微笑んでくれた笑顔は隠しきれない。
見目麗しく、大人になった。けれど夢を追いつづける目には宿る強さは変わっていない。
「この写真……もらえませんか?」
禁断の一言は自然と出てしまったもので、言ってから後悔の念と希望か押し寄せた。
「いいけど……本当に大丈夫なの? 変な汗かいてない?」
「問題ないです」
結局、自分の夢とはその程度なものだ。二頭追っても片方は逃すだけなのに、奇跡に縋る姿はみっともない。
「もしかして知り合い?」
「ええ。ちょっと」
「モデルの結衣野みどりの妹さんの彼氏みたいだよ」
「付き合ってるって本人が言ってたんですか?」
「いや。でも雰囲気で分かるもんでしょ。大学生らしい爽やかなカップルだったよ」
それに関しては、秋尋は信じていなかった。
モデルの妹だけあって相手はさぞかし美人だろうが、それで心を動く男ではない。
秋尋が残した想いと傷は大きすぎた。だからこそ、彼が簡単に心が変わっていると思えなかった。
もらった写真を写真立てに収め、そっと首筋を撫でる。
カメラマンの情報によると、アニマルプリントのシャツを着ていると情報なのだから間違いなく倉木窓夏だ。
断ることもできたはずなのに、わざわざ残したのは自分へのメッセージだと思えてならない。
「まだ……想ってくれているのか?」
確かめる術は一つだけだ。想いを託された人間が勇気を出すこと。
そもそも祖父の教えは正しいと言えるのか。今になって疑問が沸いてきた。洗脳教育はふとした瞬間に疑惑と化し、波のない海に漂うような感覚になる。
「もし、お前がまだ変わらないなら……」
最低な別れ方をしておいて、洗脳が解けたとしても会いに行っていいのか疑惑が沸いてきた。
確実に彼を傷つけたうえ、彼の幸せを壊す可能性だってある。傷を抉る可能性だってある。
「ごめん……本当に」
結局うやむやにしたまま、季節ばかりが過ぎていく。
荒れ果てた心は写真を見て落ち着かせ、欲をぶつけては自己嫌悪に陥る。汚れた右手をティッシュで拭き取り、嘆息を漏らした。
「窓夏……」
久々に名前を呼ぶと、ひどく緊張した。同時にいまだ臭いの残る右手に頭を抱えたくなる。拭っただけの手を石鹸で洗い流しても、罪悪感は流れていかない。
付けっぱなしのテレビからは動物園で赤ちゃんが生まれたと喜びの声が上がる。
赤ん坊といえば、思い浮かぶのは跡継ぎ問題だ。幸いなことに、実子であっても家業を継ぐ道からは外れている。故に、子供を儲けなくていい。
恋人ができたとしても、紹介は母親だけで済むだろう。問題は分家に婿入りをしろと言われることだ。うまいこと切り抜けられればいいが、女は好きではないと理由づけて、向こうから断りの一報があればいい。
テレビから聞こえてくる声に、驚愕した。
「……まど、か?」
繋を着て、迎えてもあどけなさが残る成人が恥ずかしそうに立っていた。
生まれたばかりの子キリンの紹介だが、キリンは窓夏しか見ていない。アナウンサーがいくら呼びかけてもまったく反応せず、目が遊べと訴えていた。
「夢、叶えたんだな」
動物園で働きたいという夢を叶え、彼は眩しそうに笑顔を見せる。
秋尋は喉を鳴らした。
もしかしたら、自分へのメッセージではないのか。そう思わずにはいられない。
職場という爆弾級のプライベートを全国ニュースで暴露し、こんなに可愛らしい子にストーカーが寄ってきやしないかと不安と妬心が芽生える。
「可愛すぎるだろ……」
もはや可愛いしか言葉が出てこない。照れて頬を染める姿も、カメラを見続けられない視線も、写真立ての姿はどこへ行ったんだと言いたくなる。
SMSで検索すると、子キリンより飼育員が可愛いと書き込む人がちらほらいる。端末をへし折りたくなった。
別れてから二度の誘引は気持ちが揺らいだ。
端末ではなく、へし折るべきは祖父の教えなのではないか。目を瞑って天井を見上げると、浮かぶのは仕事より飼育員の笑顔だ。
秋尋は写真立てをそっとなぞり、遠慮がちに縁へ唇を落とした。
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