第5話 キスの予兆

 エンドロールが終わると、秋尋はテレビに切り替えた。

 恋愛ドラマは佳境に突入していて、三角関係の主人公は誰を選ぶのか。

「先週、年上のお兄さんとキスしてたのにな。女って分かんねえ」

「このドラマ観てるんだ」

「ああ。途中からだけど」

「キスシーンって、そわそわしない?」

 秋尋が横を向くと、顔が近くなった。

「純情」

「違うよ! 家族と観るとうわあってなるから、興味ないふりして急いでご飯かきこんでるだけ」

「経験なし?」

「…………ないよっ。そっちはあるの?」

「あるっちゃある。カウントしていいのか分からないけど」

 胸がきりきり軋む。

「多分これ、嫉妬だ。うん」

「何が?」

「胸がなんか、おかしい。先越されたから嫉妬してるんだよ、僕」

 秋尋は一瞬止まり、カップをテーブルに置いた。

「俺の場合、気持ちは関係なしにキスしたって感じだ」

「事故?」

「説明するのが難しい。事故っちゃ事故。胸が痛む?」

「うーん……さっきよりは痛まない。感情って勝手に先走ることがあるよね。意外と脳は冷静なままで、気持ちだけが先をいってる感じ」

「詩人みたいだな。でも分かる。俺もおんなじ感じ。なあ」

 秋尋の手が頬に触れた瞬間、電流のようなものが全身を駆け巡る。

 初めての感覚に怖くなり、彼の太股を掴んだ。

「してみる?」

「キス?」

「うん」

 頬に細かな振動が起こった。こちらまで震えが止まらなくなるので彼の手の甲に手を添えるが、さらに震えている。

「そ、そういうのは……大事な人とするものだよ」

 のしかかる重みを抱きとめる。震えは止まったが、秋尋は動かなくなった。

「馬鹿だわ、俺。ごめん」

 離れていく空気が冷たく感じた。

「なんだろ。ほんとに。俺って」

「いやいや、なんでそんなに責めるの?」

「おかしいだろ。下手したら友情にヒビが入る」

「友情」

 嬉しくて飛び跳ねそうだ。

「クラスの女子だって手繋いだりしてるじゃん」

「手繋ぐのとキスは全然違うだろ」

「触れ合ってるのはおんなじ皮膚だよ」

「妙に現実的だな。けど、ごめん。キスは大事な人とした方がいい」

「大事な人って、どうやったらできるかな」

「俺が一番聞きたい問題だ」

 大きく息を吐いた秋尋は、語尾が震えていた。

 中学生でなぜ一人暮らしをしているのか。

 家族はどこにいるのか。

 キスの相手は誰なのか。

「あっくんって、ミステリアスだよね」

「あっくん?」

 秋尋は素っ頓狂な声を上げる。ソファーが跳ねた。

「うん。秘密主義みたいだから、あっくんって呼ぶ」

「それ関係あるのか?」

「ある。そう呼んだ方が、仲良くなれる気がするじゃん」

「あーそう」

「なんだその声!」

 クッションで叩きつけると、ぼふんと頼りない音がした。

「はは、秘密っていったら、ふたりで作ったじゃん」

「鶏事件ね。実はね、ちょっと楽しかった。あんな遅い時間に忍び込んだの初めて」

「俺も。担任にばれなくてよかったよ。体育会系の教師が見逃すとも思えないし」

 映画を終えても、学校の話や宿題についてもずっと話していた。

 帰りは家まで送ってくれて、親とばったり対面しないかはらはらした。

 なんとなく、気恥ずかしかった。




 秋の風はアスファルトを転がる枯れ葉を後押しした。

 緑のない景色は寂しいものがあるが、反比例して学校では賑わいを見せていた。

 学級委員長がチョークを動かしていくたび、辺りからはうなり声が聞こえる。

「喫茶店、映画鑑賞会、お化け屋敷……他のクラスにあるようなものばっかだね」

 文化祭の出し物を決めなければならないのだが、他のクラスに出し抜かれたせいか、Aクラスだけはまだ決まっていなかった。

「藤宮君、なんかない?」

「被っても別に。色つけてみたらいいかも」

「色?」

「ただの喫茶店ってわけじゃなく、変わったものにするとか」

「おっいいねメイド喫茶!」

「誰も言ってない」

 はやし立てるクラスメイトに、秋尋は冷静につっこみをいれる。

「そこまで言うなら喫茶店やりたいなあ」

「メイド系?」

「んなわけない。藤宮君が客引きしてくれたらすぐに集まりそうだし」

「俺は映画鑑賞一択」

 秋尋は全力でやりたくないと遠回しに拒絶した。

 ああでもないと放課後までもつれ込んだ話し合いは、喫茶店に決まった。メイド喫茶ではなく、王道のものだ。

 一度決まればとんとん拍子で、すぐに文化祭がやってきた。

 寒波が到来した時期に、コーヒーや紅茶を出す喫茶店は良い選択肢だったといえる。

 窓夏は生徒と話す秋尋を見てため息をついた。

 ここのところ、秋尋とまったく会話をしていないのだ。憎き席替えのせいで席が離れてしまったし、部活も違うときた。

 なんとか話せるきっかけを作ろうとしたが、彼はいつも女子生徒に囲まれている。

「眼鏡変えた?」

「え、あ、うん。そうだね」

 声が裏返りながらも答えた。秋尋が話しかけてきたからだ。

「あっく……藤宮君もいつもと違うね」

「寝ぼけてたら踏んで、新しいの買った」

「災難だったね。僕は軽めのにした」

「どれ」

 眼鏡が外される瞬間、指先が鼻筋を撫でていく。

「ほんとだ。俺のより軽い」

「そっち貸して」

 秋尋がかがむ。自分で取れ、ということらしい。

「なんで顔背けんの」

「近い近い。確かに僕のより重いね……ん?」

 かけてみると、違和感があった。

「これ、度が入ってない?」

「あー、まあな」

「眼鏡にあるまじき侮辱だよ」

「何がだよ」

「眼鏡の効力が失われている」

「顔隠したい系男子だから。ほら」

 やはり馴染んだ眼鏡がしっくりくる。

「なんで顔隠したいの?」

「シャイボーイなんだよ。あんまり目立ちたくない」

 眼鏡をかけると、しっかりした顔立ちが眼鏡に気を取られる。それでも生徒たちにはよく話しかけられているので、効果があるのかは謎だ。

「ねえ、あの人……」

「え?」

「ほら」

 一般客が秋尋を指差し、何やら話をしている。

 彼女たちはこちらにやってきて、遠慮がちに声をかけた。

「もしかして、」

「ああ、あの、向こうで」

 秋尋はしどろもどろになりながら、女性たちを引き連れて出ていってしまった。

 知り合いという様子でもない。慌てる秋尋と驚く女性たちは、どのような関係なのか。

 しばらくして、疲れきった顔をした秋尋が戻ってきた。

「おかえり。どうしたの?」

「悪いんだけど、どこか人のいないところで食おう」

 手首を掴まれたまま廊下に出ると、女性たちは一斉に静まり返る。

 無言で端末を向けられ、窓夏は怖くなった。

「わっなに?」

 目の前が真っ暗になった。秋尋が頭に上着をかけたからだ。

「行こう」

 アキ、アキ、と甲高い女性の声が聞こえた。

 意味が分からないままでいると、手首から手のひら、指と下がっていき、指を絡めたままどこかへ連れていかれた。

「あっくんって有名人?」

「どっちのだろうな……ほんと」

「ええ?」

「なんでもない。ほら、行くぞ」

 窓夏とは、手の大きさも暖かさも対照的だった。

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