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 優しくそうすれば暴れることはないと思ったのですが、男の人は思った以上に激しく動き、私の体は簡単に弾き飛ばされました。

 鋏は男の人の喉に刺さったままでしたが、暴れるうちに引き抜かれました。大切にしている鋏ですので、私は慌てて拾います。


 男の人はしばらくの間一人でもがいていました。私の方を見て何か言いましたが聞き取れませんでした。動きは次第に痙攣となり、荒い息を吐きながら、男の人は仰向けになりました。私はその顔を覗き込み、眼球の動きを見ます。小刻みな震え、それを毒素がちゃんと喉の奥の粘膜にまで届いていることの確認とし、ひとまずの達成にほっと息を吐きました。

 触った感じを確かめたくて、男の人の頬に手を伸ばしました。震える熱がそこにあります。私は指先で、大丈夫ですよ、と伝えます。あなたは、より美しい生き物へと取り込まれるのです。

 私は鋏を握り締め、男の人の喉元にもう一度突き刺しました。今度はちゃんと刃の角度を確認しつつ、血管の在処を探りながらそうします。引き抜くと同時に血が溢れ出ました。男の人は何度かの大きな反動の後、ゆっくりと静かになりました。

 広がっていく赤を足元に見ていると、「よくできました」と声がします。振り返ると、姉さんがいました。その笑顔を見たら、結束がほどけるように体の力が抜け、私はその場に座り込んでしまいました。

 姉さんは私の横に座ると、何度も背中をさすってくれました。姉さんのあたたかさに心底ほっとし、大きく息を吐くことができました。


 それから姉さんは男の人の瞳孔を確認し、すぐに処理の準備を始めました。あたたかいうちに始めることが肝心だと、私たちは知っています。

 姉さんは自分の指先についた血を見て、溜め息と共に「いい赤」と呟きました。それから私を見て優しく笑います。私の好きな、姉さんの美しい顔です。





「私より綺麗にならないでね」

 とあの日姉さんは言いました。


 まだ自分が子供であることに安心しきっていた私の、その終わり頃の冬の日。あたたかな温室の中、緑に囲まれて一人うとうとしていた私に、姉さんは優しく呟きました。柔らかな手つきで髪が撫でられている感覚が心地よく、私は微睡んだままでいました。

 なんだかすごく熱い夢だな、と思っていると、熱がすぐそばにあるのに気付いて目を開けました。さっきまで葉を広げていた花たちが、皆赤く波打ちながら、もうもうと煙を上げているのでした。一層酷い熱に振り返ると、自分の髪が燃えているのに気付きました。

 私は私の悲鳴を聞いたきり、その後のことは覚えていません。ただ赤かったこと、それだけがずっと、目を閉じるだけでも思い出されます。


 姉さんは泣いていました。私の頬を撫でながら、可哀想、可哀想、と何度も言って泣きました。

 火の原因は、当時まだ旧式だった暖房器具からのものとされました。島の人達と一緒にお客様の所へ行っていたはずの姉さんが、あの時あの場にいたことを、私は誰にも言いませんでした。姉さんが美しく泣くので、そう従うべきなのだと思いました。

 あの場で姉さんが私に呟いた言葉の意味を、包帯を外した自分の顔を鏡で見た時に理解しました。暖房器具に細工が施されていたことも、私の髪に油分が塗られていたことも、すべては姉さんの美しさを際立たせるためのささやかな下準備に過ぎません。

 美しさとは、そのように段階を経て果たされていくことなのです。決して純なるものの健やかな結果としてではなく、あらゆる熱量を飲み込みながら成長していくもの。薄紅蝶の幼虫が、時那草の毒素を体に溜め込んで外敵から身を守る、そのしたたかな策略のように。

 私も姉さんにより、その過程の内に取り込まれました。だから私は、美しさが成されるためのほんのひとかけとしてだけ生きていくのです。





 私たちの周りに蝶たちが集まってきました。彼らは蛋白質の匂いに誘われます。それが生き生きとしていればいるほど、強く惹き付けられるようです。

 男の人から溢れた赤い海に舞い降り、その中へ長い口吻こうふんをそっと差し込みます。花の蜜を吸うのと同じ要領で、わずかに翅を震わせながら、蝶たちはその栄養分を全身に取り込むのです。

 それはゆっくりと彼らの体を巡ります。彼らにとっての心臓である背脈管が脈打つと同時に、彼ら自身の伸縮運動で体内の循環が促されます。やがて翅にある細胞の隙間にまでたっぷりと真新しい栄養分が行き渡り、彼らの淡い紅色の翅が濃く深い赤に染まるのです。


 私たちは処置を続けます。男の人の体がこの先、綺麗なままゆっくりと腐敗していくように。

 姉さんは愛おしいものを撫でるような手付きで男の人を触ります。そうする横顔を見つめる私に気付き、姉さんがそっと笑いかけてきました。

 昨日よりもさらに完成に近付いている姉さん。天井から射す光を纏い、輪郭がぼやける程に輝いて見えます。


 姉さんから流れ出る血の色はどんなに綺麗でしょうか。それを取り込んだ蝶たちは、どんなに美しく赤く舞うのでしょう。朽ちていく姉さんはより濃い養分を生み出し、蝶たちをさらに美しく生かすに違いありません。

 そのために私は鋏の先を研ぎ続け、正しく姉さんの喉を裂く必要があります。滴らせる毒の量と刺し込む刃の角度については、先程の男の人の時に理解できました。その手の感触を、何度も思い返すようにします。

 下準備は静かに行わなければいけません。姉さんが教えてくれた通りに、私もそうします。真なる美しさの完成の、その一助となれるよう願いながら。


 優しい姉さんの笑顔に、私も笑い返しました。姉さんのようには綺麗にできませんが、前よりは上手になったと思います。

 無数のはばたきが私の頬をかすめ、小さな風圧を残して舞い上がっていきます。鮮やかな赤に満たされた翅が、光の射す天窓を次々と抜けていきました。


〈了〉

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蝶の島 古川 @Mckinney

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