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 お客様が来る日は、地面が少し揺れるような気持ちがします。この小さな島が、よそからの人の重みに耐えきれずに震えているように、私には思えるのです。

 もしかしたら、震えているのは地面ではなく、お客様を受け入れている島の人たちの、動きや声や息遣いのせいかもしれません。その真相を知る程には私はまだ大人ではなく、それに気付かずにいられる程には子供ではないということです。

 だから私はお客様の来る日には、いつも温室で蝶たちを眺めて過ごします。花のにおいの中にいると眠たくなったりしますが、意識が緩むといつも赤い夢を見るので、それに飲み込まれないうちに目を開けます。その瞬間には少し心細くもなるのですが、天井からの光の中、蝶たちがはらはらと舞うのを見ていれば、自然と安心した気持ちになれるのです。


 そうしていると、ふと温室の外ガラスに小さなひびを見つけました。姉さんに相談しなくちゃ、と思いながら外へ出てそこに指を這わせていると、後ろから足音が聞こえました。振り向くと、見たことのない男の人がいました。

 その人は「こんにちは」と言いました。その声が思いがけず真っ直ぐだったので、私は逃げたり隠れたりできず、小さく頭を下げて挨拶を返しました。

 姉さんだ、とすぐにわかりました。この場所を、姉さんが教えたのです。つまりこの人はお客様で、お客様の中から、姉さんがこの人を選んだのです。私のために。


 男の人は「この辺りに薄紅蝶の温室があると教えて頂いたので来ました」と言いました。ここにある空気を震わせないよう、ゆっくりと息を吐くような喋り方。それは私が、卵ののった葉にピンを刺す時の慎重さに似ていました。だから私は大丈夫だと思うことにして、そう自分に言い聞かせて、動作で「どうぞ」と示してから温室のガラス扉を開けました。


 男の人は薄い膜をそっと破るような仕草で中に入ると、舞う蝶たちを目で追いかけ、蜜を吸う様子を間近で観察しました。それから羽化器の中に並ぶ艶やかな蛹を息を殺して見つめ、孵化器の中の黒々とした幼虫や光る卵たちを長い間見ていました。そして気持ちが零れ落ちるような溜息と共に「綺麗ですね」と呟き、私の方を振り返りました。


 私はその視線を真っ直ぐに受け取らないようにすぐに俯いて、横髪で顔の半分を隠しました。そこに残る火傷の痕を隠すためです。右目の下から頬にかけてのそれについて、私には今さら羞恥の気持ちなどないのですが、他人が見てよい気持ちがするものではないと理解しているのでそうします。

 すると男の人は「お姉さんによく似ておられますね」と穏やかに言いました。私は驚いて顔を上げてしまいました。男の人と、ごく近くで目が合ってしまいます。男の人は私の爛れた顔を見て小さく驚いたふうな表情をしましたが、目を逸らすことはしませんでした。真っ直ぐ目を向けられ、焼けた側の頬が熱を持つような気持ちになりました。


 男の人は、薄紅蝶に興味があってこの島に来たのだと言いました。これで三回目なのだと。

 その人を作る輪郭は、生命の隆起でできていました。それは姉さんが纏い、薄紅蝶が振り撒く美しさとはまた別の美しさでした。狂いのない曲線の正しさだけでなく、言葉遣いや声、姿勢や眼差しからもそれを感じました。おそらくは輪郭だけでなく、その体を作っている内部までも、そのように違いないと思いました。

 知らない誰かに対し、その内側にまで気持ちを向けるのは初めてのことでした。何よりも、姉さんが私にそれを促している。それはこの上ない確証となり、私の中に火種を生みました。


 男の人は言います。

「本当に綺麗な島ですね。港に降りた瞬間、たくさんの薄紅蝶が出迎えるように舞ってくるのにはいつも感動してしまいます。さっき時那草の植樹畑を見てきました。卵は毎朝あそこから集めてくるのですね。そして卵から幼虫、蛹となり羽化するまでをここで過ごし、再び外へ出て卵を産む……」


 私は頷いてみせました。男の人は、持っていた荷物の中からノートとペンを取り出して続けます。


「薄紅蝶の名の通り、かつては薄い紅色をした蝶だったと聞きました。しかしここ数年、その色は濃さを増しているらしいですね。ここで見る限り、羽化直後の翅の色はまだ薄いようですが」


 私は小さく相槌を打ちました。きっと姉さんがするようにはうまくできていないでしょう。時折、私と男の人の間にある空間を、蝶たちがはらはらと行き来します。男の人はその度に瞬きをしつつ、続けます。


「翅の鱗粉の様子から見ても、光の干渉による構造的な発色ではなく、色素による発色のように見えます。好んで吸っているのは扶桑花ブッソウゲ草山丹花クササンタンカのようですが、それらの花にそうした色素成分が含まれているのでしょうか。蜜によって翅が染まるという例は聞いたことがないので興味深いのですが、やはり島の固有種である時那草が影響しているのでしょうか」


 私は、わからないというふうな反応を示しました。それから孵化器の横に置いてある鋏を手に取り、鉢植えの時那草の葉を触ります。太い葉脈の走る葉を選び、一枚一枚茎から切り離します。時那草の中を満たしていた透明な液体が切り口から溢れ、鋏の先を濡らし、ゆっくりと滴り落ち始めました。

 男の人は私のその作業を横から黙って見ていましたが、やがて口を開きました。


「……その時那草は、植樹畑にあるものと同じですか?」


 私はそれには答えず、男の人と向き合いました。目を見なさいという姉さんの教えの通り、そうします。私は姉さんのようには美しくありませんが、姉さんに託されたのだということを信じ、私をまるごとそこに預ける他ありません。

 男の人はしっかり私の目を見ていてくれたので、近付くと重心を崩し、花の茎や葉を下敷きにしながら後ろに倒れました。尻もちをついた格好になったので、その上に乗ります。


「あの、なに」


 男の人の声が鳴る部分、喉の膨らんだところの上に、鋏の先を差し込みました。骨によって守られていない柔らかな部分へと、体重をかけて押し込みます。刃先に滴る時那草の毒が、できるだけ奥に届くように。

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