蝶の島

古川

1


 薄紅蝶ウスベニチョウの卵は朝日に光るので、眠たくてまだとろとろしている私の目でも簡単に見つけることができます。

 時那草トキナクサの葉の上に、それはあります。つやつやとした楕円形の葉、一枚に一粒ずつ。


 葉の付け根をはさみで切り取り、葉っぱごと卵を集めていきます。切り口から透明な雫が滴り落ちるのを見届けてから、優しく籠の中へ入れます。

 卵の中で眠っている幼虫の夢を邪魔しないように、一枚一枚そっとそうしなさい、と教えてくれたのは姉さんです。だから私はそっとそうします。それが、朝一番の私の仕事です。


 切り集めた卵付きの葉が籠の中でこんもりとなったら、今度はそれを温室へと運びます。そこは卵たちが蝶になるための、ガラスで守られた特別な空間です。扉を開け、垂れ下がる幕をくぐり抜けて、あたたかいその中へ入ります。

 様々な色を咲かす花々の間を進み、孵化ふか器の前に行きます。その中には幼虫の大好物である時那草がたっぷり用意されています。その鉢植えに水をやってから、孵化準備の作業を始めます。

 集めてきた卵付きの葉を一枚一枚ピンで挿して板に固定し、それを孵化器の中、時那草の間へと立て掛けます。どうか無事に孵化できますようにと願いながら、時間をかけて丁寧にその作業を終えます。


 辺りでは、早朝にかけてさなぎを抜け出したばかりの蝶たちがひらひらと舞っています。まだまだ頼りない飛び方。天窓から外へ出るためには、はばたきの練習と共に、たっぷりの栄養摂取が必要なのです。

 生まれたばかりの彼らのはねは、透明な水に一滴だけ赤を落として撫でたような、淡くて美しい色をしていて、それを黒の曲線が正しく縁取っています。今にも溢れそうな薄紅を湛えた翅で、彼らはみんなささやかに舞うのです。


 座ったまま蝶たちを眺めていると、奥にいて別の作業をしていた姉さんに叱られてしまいました。「あなたは蝶のこととなると、この世から消えてしまった人みたいに静かになる」とよく言われます。私が笑って誤魔化すと、姉さんは呆れたように笑い返してくれました。その顔がいつもの通りに綺麗なことに安心し、私は次の仕事に移ります。


 卵から生まれた幼虫は、たくさんの時那草の葉を食べて丸々と太り、やがて孵化器の中で蛹になります。蝶への羽化うかのため、今度は羽化器へと移されます。その背の高い箱の中、葉の裏側や羽化支柱の側面に、空になった蛹がたくさん付いています。今朝もたくさんの蛹が無事に羽化したようです。

 少し寝坊でもしたのか、まだ蛹から出たばかりの蝶が一匹、支柱の上で翅を広げている最中でした。ゆっくりと伸ばされていく翅はとても綺麗で、それを前にすると、私は息をするのも忘れてしまいます。ただ見惚れるしかないのです。命ごと溶かされて、否応なく透明にさせられるような、そういう気持ちがします。


 じっと見ているとまた姉さんに叱られてしまうので、私は意識を仕事に戻しました。空になった蛹の回収と、羽化の近い蛹に補強が必要ならそれを施します。それから再び卵と幼虫のいる孵化器に戻り、そこにできた新しい蛹を回収します。

 葉の裏にできていた蛹をその葉ごと切り取ったところで、同じ作業をしにやって来た姉さんに、鋏の手入れについて訊ねられました。回収作業に伴うわずかな揺れに、蛹の中の幼虫は敏感に反応します。驚いて震え出してしまうのです。だから不必要な摩擦による振動を生まないために、鋏の刃先はしっかりと磨かないといけない。そのことの確認でした。

 私は姉さんの前で自分の鋏を動かして見せます。滑らかな動きと鋭い刃先を確認すると、姉さんは頷きながら「よろしい」と言ってくれました。その言い方がまるで大人のようなのでおかしくて、私は少しだけ笑ってしまいました。姉さんもつられて笑いました。


 姉さんの美しさは、神様がその指で丁寧に描いた曲線でできています。きっと生まれる前の、まだ魂だった段階から、全部緻密に、そのように施されてきたのです。

 全部は計画の元。そしてそれはもうすぐ果たされる。季節が過ぎるごとに増していく姉さんの美しさは、あと少しで完成するのだと思います。

 姉さんと一緒に蝶たちの世話をする毎日は、何もない私に許された、美しさへのわずかな関与です。そこにある美しさが完全に果たされるための、ささやかな手助けとして。


「そろそろ一便のお客様が来る」と姉さんが言いました。そして私の肩に手を置いて向かい合わせの格好になると、私の頬にある凹凸を撫でながら「あなたも綺麗になったね」と言いました。私は驚いて、慌てて首を横に振りました。

 姉さんは私の様子に少し笑うと、顔を近付けて続けます。「あなたもそろそろ、誰か見つけなくちゃ」と。それから舞ってきた蝶へと目を移し、この子たちのために、と付け添えました。

 

 きっと生まれたての薄紅蝶は、自分がこれからさらに色濃く、美しい生き物になっていくのだということを知りません。ただ広い世界に目をくらませ、心もとない翅ではばたき、行くべき方へと舞っている最中です。

 私は彼らの、喉の渇きを思いました。したたかに美しく生きるために必要な、あらゆる熱量を飲むことについて。

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