ある僧侶の話

「九百八十五...九百八十六....九百八十七.......」


 中央大陸の東端。険しい山脈と荒ぶる河川、広大な荒野によって分断される大陸の東方世界––––––東西交易の重点を担う一大帝国……覇國はこく–––––––––その郊外。鋭利に切り立つ山々の、その合間を縫うようにして広がる寺院群。

 覇國首都からは遠く離れ、世俗と隔絶された修行と鍛錬の秘境、「試練の地」として世間に知られる密奥の聖地・剣嶺ジェンリン


 そんな場所で、日々武道の修行に励む一人の少女がいた。


「九百九十八......九百九十九......、一千!!」


「ふう、これで突きは終わり、と......。あとは––––––」


「よォ、精が出るねェ」


 日課と思われる突きの定型訓練を終えて、一呼吸。そこを狙ったかのように、少女の背後から気配も無く、一人の青年が現れる。

 それは短く切りそろえた、青がかった黒い髪の映える、鍛え抜かれた身体が見て取れる偉丈夫だった。


「ってコウ兄じゃないですか!もう戻ってらしたんですね!」


「ああ、ようやく大事な仕事が一段落してな。久しぶりにリンの顔が見れて安心したよ」


 少女の名はリン。そして、青年の名前はコウ。どちらも同じ、この剣嶺の至源シゲン寺院群にて修行に励む、仲睦まじい兄弟子と妹弟子であった。

 まだまだ年端も行かず、見習いでしかないリンとは異なり、一人前の僧侶でもあるコウは、度々寺院群の外に赴き、宗道の布教活動を行ったり、寺院全体のための買い出しのために市街へ出かけたりと、平均一週間以上かかる長い出張に出ることが多い。

 今回もそんな仕事を終えたコウが、丁度帰還してのことだった。


「って、その傷、どうしたんですか!?」


「んぁ、ちょっと戻る時に野盗に絡まれちまってよ、まあ大したことはないんだが」


 寺院の中は多くの先輩弟子や、師範の数々、他にもたくさんの僧侶がいるため、基本的には安全である。しかし一歩この地の領域から外に出歩けば、外の世界は決して生ぬるく過ごせるわけではないということも、リンがこれまでの人生で兄弟子たちから教わっていたことだった。

 そして外界がそうした危険な状況下であることは、普段からおっちょこちょいな一面を見せるコウの旅路について、リンを不安にさせるには十分すぎる情報量であった。


「そんな悲しそうな顔するなって。にいは見ての通りピンピンしてるからよ」


 ……。

 それでもなお、リンの顔からは不安の色が拭えない。

 これには偉丈夫も参った様子で、気まずそうに後頭部をポリポリと指でかきながら、続く言葉を発する。


「んまあ、なんだ。近いうちに、今度は二人で外を見にいこうじゃないの。爛青の町で新しい服を買うもいいし、緑海に行けばうまい海鮮料理がたくさん食えるし––––––」


「ほんとう!?本当に連れていってくれるんですか、刻兄!」


 半ば冗談めいていたというか、本気ではなかったというか。

 コウの意識にはリンの機嫌をとることで精一杯で、本気で期待されるとは予想していなかったのだが………脳裏にチラつくお師匠さま–––––––––ここ剣嶺の全ての僧侶を総括する、秘境の長老である–––––––––の厳しい顔が、刻の背中に嫌な汗を流す。

 しかし妹弟子の前で退くにも退けず、見栄の張った答えを出してしまうというのが長兄ちょうけいの常であり。


「ああ勿論、もう少しでリンも十二歳だろう?修行の進捗の方はともかく、覇國においては十二を越えれば立派に一人前として扱われるもんさ。十二歳になったら、改めて外に出かけよう。…………………(お師さまの許可取らないとだが……)」


「わぁ!!!楽しみにしてますね、兄!」


 –––––––––コウの目の前に映し出されたのは、顔面に期待値を全力で表現する可愛い妹弟子の姿。その無垢なお願いに何も渋い要素を付け足すことなどできるはずもなく–––––––––




「お、おう!任せとけ!」


 見栄っ張りというものは常々結果として、盛大な墓穴と化してしまうことは、コウがいまだ学習しきれていないことでもあった。



 二人の弟子が会話に花を咲かせる中、寺院群の本館––––––僧侶たちは「西棟」と呼ぶ––––––の出口から、一人の長身の男性が姿を現す。

 その男性は遠目にも見て撮れるほど心なしかやつれていて、シルエットは長身に見合わず細々とした木の枝のような儚さすら感じられる風貌だった。

 長身の男性は出口付近で二人の弟子を見かけると、大きく手を振って合図を送ったのち、ゆっくりと二人のいた中庭の訓練場の方向へと歩き出した。


「やあコウ、戻っていたかい」


「おうおうレンじゃあねえか!久しいな、どうだ元気か?」


 刻の側まで歩み寄った男性は掌を伸ばし、コウと堅い握手を交わす。刻の質問に対して朗らかに笑いながら、軽口を交えて返答を述べる。


「生まれつきの病持ちに聞くには少し親切さに欠ける挨拶じゃないかな。––––––まあ、毎日体調は悪いわけだけど、最近は症状も控えめで、総じて良い方と言えるかな」


 長身の男性の名前はレン。彼もまた同じくここ剣嶺の寺院群の僧侶であり、リンの兄弟子にあたる存在である。コウとは幼少期からずっと寺院群にて僧侶として生活していたため、いわゆる幼馴染のように互いに気心が知れている仲である。

 生まれつきの持病のせいもあってか武道修行は専門ではなく、むしろ専ら精神統一や修道に対する心構えといった分野を中心に研究し、人間の内面の修行に取り組んでいる。外界への出張が主なコウの仕事とは異なり、基本的には寺院群の財政を管理する業務を負い、その他事務を受け持つことも多い。


 出張がえりの親友を歓待しつつの、軽口を叩き合う挨拶もそれなりに。

 レンは顔の向いていた方向をくるりと翻すと、反対側に立っていたリンの方を向く。


「それでリンちゃん、午後の修行は終わったかい?」


「ええ、つい先程!このまま機材は片付けてしまって良いのでしょうか」


「ああ、それには及ばないよ、僕がやっておくから。…………それより仕事があってね、南棟の厨房のキュウさん……ほらあの例の、ふとっちょの。––––––が夕食の仕込みを手伝って欲しいって。……こないだ手伝ってからやけに引っ張りだこじゃないか」


「そうなんですよレン兄!球さんったら私は舌で味を利くセンスがある〜って!!前も手伝わせてもらった時すごい褒めてもらって!!!」


「ハハ、味音痴なコウじゃこうは行かないな。……ともあれ、そういうわけで片付けは僕がやっておくから。リンちゃんはすぐに南棟へ向かうといい」


「わかりました!ではレン兄、コウ兄、また夕食の時に!」


 夕食準備の手伝いのオファーが来た鈴は、中庭に持ち出していた自分の身の回りの持ち物を拾い上げると、そのまま煙突から白煙が除く、炊事場のある南棟の方面へと駆け出していった。


 その様子を二人の青年はその場から見送り、鈴が厨房の勝手口の扉を潜ったのを確認して、レンが口を開く。



「さて、と。もハケたし–––––––––ようコウ、こっからが本題だぜ」


 先程リンと会話していた時とは打って変わって。その三白眼には生気が満ち、口調も喉奥から大気ごと震わせるように––––––存在感の一気に増した風貌いでたちと化したレンが、コウに本題を告げる。


「師が呼んでる。要件はまあいつも通り、監査報告かな。それとこの付近でもやっぱり警戒報告が以前よりも増えてる––––––詳細は後で話す、とりあえずいつも通り西棟、秘匿会議室だ」


「了解した、すぐに向かおう」


 二人の青年は会話を終えると、その足ですぐさま議題にあった西棟を目指して歩き出す。

 聖堂暦993年の夏、まだまだ日の照らす時間が長い時期のとある黄昏時––––––未だ生傷の癒えないコウの右腕から、大きな汗の雫が滴り落ちていた。




 :


「師、ただいま戻りました」



 剣嶺ジェンリン寺院群のその最奥、薄暗い仏間の中で、複数の僧侶たちと、「師」と呼ばれる老人が立ち会っていた。暗がりの中に灯された蝋燭の火が微かに揺らめき、不穏な面持ちを空間全体に醸し出している。

 中央に座す「師」こそがここ剣嶺とそこに点在する寺院群の総長であり、その周囲を取り囲むようにして規律正しく立っていたのが、この寺院群の誇る英傑……僧階の最上位を占める十二人である。


「よくぞ戻ったコウよ。どうだった外の様子は」


 おごそかな雰囲気の中で、口火を切ったのは師であった。

 外出の任務を終えた刻に対して、その任務の結果報告を求める。


「外の様子は前回と変わらず––––––いや、むしろ悪化している気配さえします。断片的な証拠にしかなりませんが、まずはこちらを」


 師に問われた刻は、そういうと胸元の巾着から勲章らしき物体を幾つか取り出す。そのどれもが赤黒く汚れていたが、鈍く輝く金属装飾の部分は欠けておらず、個々の特徴を判別するに足る要素が残存していた。


「………蓮の紋章に菊の紋章––––––加えて梅まで……。詰まるところ、例の御三方全員が揃い踏みというわけか」


「ええ、そのようで」


 そう、それら勲章に施されていたのはどれも異なる華を示す装飾。これらの華が示すこととは即ち、覇國王家の権力の象徴–––––––––。

 蓮であれば第三皇子、菊であれば第二皇子。梅であれば第二皇女–––––––––異なる花々がそれぞれ異なる皇子の立場を示し、そしてこれらを刻が戦闘した刺客から持ち帰ったということは、即ち––––––––––––。


「そして先日首都から届いたくだんの手紙。あれが真ならばこれはつまり......」


「ああ、國王様が何かを起こす気なのだろう–––––––––」


「師......」


 会議室全体に、重苦しい沈黙が訪れる。

 不穏な情勢、そして敵に回るやも知れぬ強大すぎる権力者たち––––––英傑たちの中にも、戸惑いを隠しきれぬ表情を出すものたちがいた。

 しかしそんな中でも、師の眼前にて正座していたコウ……そして、会議室の木製の壁柱に肩を乗せていたレンまなこには、揺らぐことなき確固たる意思が備わっていた。


「案ずるな。今は亡き王妃様との約定、そしてこの十年間見守り育ててきた義理があるゆえ。我ら龍穴一門、をこの地へと迎えた頃より心は一つ。そうであろう?」


「「「「当然咯もちろんです!」」」」


「意気やよし、ともすれば此度の件–––––––––」


「國王様の書状にあった期限まであと数ヶ月。そこにてこの贈り物の真意を知ることになるであろうよ。––––––それまで預かりとする」


 暗がりの秘匿会議室の蝋燭が揺れる。

 尺取り虫ほどの長さの儚い蝋燭の火がその向こう側に映していたのは希望の溢れる未来か、それとも暗雲立ち込める絶望か。

 この場にいた十三人。その誰にも、その真意は解らなかった。



 :

 それから少し、時が経ち。

 同年、聖堂暦993年。

 すっかり日の落ちる早さも増してしまった、寒さの厳しい季節。歳の変わり目に向けて、新年のための裏準備が始まろうかというところの、古き時代の終わりを予感させる……そんな時期。

 それはリンがこの寺院に来てからはや十年目の誕生日。

 この日ばかりは普段は修行に忙しい僧侶たちもその手を止めて、夕食時には盛大に祝宴をあげる。


 多くの修行僧の、その日の修行や業務が終わった頃・・・・・・すっかり日の暮れて、山間から除く空は星が瞬き輝くような、そんな風貌を覗かせていた晩餐の時。

 南棟の厨房の脇、大人数が一堂に会して食事のできる広間にて、たくさんの僧侶たちに囲まれながら、鈴はその十二歳となる誕生日を祝われていた。


 広間を見れば、どの僧侶も今日限りのご馳走に舌鼓を打って互いに歓談にふける。

 そしてそんな誕生日の晩餐も経て、すっかり皆の調子も落ち着いた頃。


 いつになく神妙な面持ちで、刻が食後の菓子を頬張っていた鈴の元へと近寄る。


「鈴もこれで十二歳か。いやはや、」


「何だよ刻兄ィ、敬語なんて変だなあ。・・・・・・それに鈴様って、何かの冗談?」


「ええ、確かに今までは兄弟子と妹弟子、ただそれだけの関係でしたが。––––––こうして十二の誕生日を経た貴方様には・・・・・・以前のようには接することはできません」


 ここ覇國において、十二の誕生日というのはかなりの一大イベントとなっている。十二の獣に準えた暦を使う覇國において、総周の半周を終えた証である六歳と十二歳を契機に祝祭を行うのだ。十二歳で漸く半人前を卒業––––––市街などでは、十二の誕生日を境に家業の手伝いを積極的に行わせ、正式な成人となる二十歳の巣立ちの時に備えるのが通例となっている。


 しかしこの十二歳の祝祭という儀礼はあくまで半人前を過ぎた、というだけの証明であり、決して一人前、それに刻を初めとする僧侶たちの上に立つことを示している訳では無い––––––そんなことも鈴は理解していた。それ故に、由無く自分に敬称や敬語を使い始めた刻に鈴は困惑していたのだった。


 困惑する鈴を前に、刻は淡々と語りかける。遥か昔からの事実を、とうとうと、淀みなく。


「鈴様。どうかお聞きください。––––––貴方様は百姓生まれの戦災孤児などでは無いのです。この十年間我ら龍穴一門、事実をひた隠しにしてきた事をお許しください……」

「・・・・・・・・・貴方様の血筋は、この覇國の頂点に立つ者の系譜なのでございます」


 数間、息を飲み込む。

 何も声を発せぬ鈴の前で、刻はそのまま続ける。


「鈴……鈴様…………。そう、貴方様は現覇國皇帝––––––覇呂仁ハ・リョウジン様のお子様なのです。王宮内での立ち位置は第三皇女––––––皇帝継承権は席次が第七位。貴方様はれっきとした、王位継承権のある王族の一員なのです」


 厳粛にして緊張した雰囲気の中。

 刻の口から発された事実とやらは、鈴の理解の及ばぬ所であった。


「わ、私が、王族、皇女––––––?」



「えぇ。そして國王様より、以下の小包を次の誕生日に渡すように、と……。」


 そう言って刻が取りだしたのは、書状の添えられた、布で包まれた物体の小包。紫色の絹布の上部、包みの折り目となる場所には不思議な雰囲気のたゆたう印がなされていた。


 小包を受け取った鈴がその印に触れると、鈴の存在に呼応したかのように封印が溶けて消える。そして絹布をそのまま解くと、中から現れたのは–––––––––赤黒い立方体。


「これは………魔匣まこうッ––––––それも王家伝承の、血盟の魔匣まこう!!?」

「そんな、まさか鈴様をあの儀式に参加させるおつもりで–––––––––」

「しかしいくらなんでも幼すぎる!十二歳の少女を参加させるとは………」


 封印された小包から現れたのは、赤黒い色を基調に、黒い装飾が施された小さな立方体。––––––それを見た周囲の僧侶たちに、動揺が伝播する。

「血盟の魔匣」。覇の家系に伝わるいわく付きの物品であり、その特徴の一つに特定の血族の生き血を吸収して魔力を増す、というものがある。

 王家に複数家伝するこの魔道具が用いられるということは、すなわち––––––王族同士でのを意味する。

 各代の覇國の頂点を決める際に、最も残忍な手段として定義される「魔匣による生き血を求めた殺し合い」––––––「王位継承戦争」への鈴の参加を促すというのが、一堂に会した僧侶たちが推察した此度の件の真相であった。


「なるほどそういうことか、まぁ想像通りだな」


「どういうことだそれは、レン


「暴君と恐れられるかの皇帝……覇呂仁ハ・リョウジンサマだぜ?齢十二程度の実の娘だろうが、躊躇無く殺し合いに参加させるに決まってるだろ?」


 気づけば、広間のその端。

 中庭の底辺へとつながる縁側の窓辺に、潤が肩を預けて佇んでいた。

 その口元にはいつものように、軽薄そうな笑みを浮かべていた––––––が、その三白眼の奥には、明らかに普段と様子の違う色が煌々と輝いていた。


「そうじゃないレン、俺が言いてえのは……と聞いている」


「さすが刻、めざといね。これでも岳の野狼の主にも気取られないくらい、気配遮断の術は心得ていると自負していたんだが・・・・・・」


 瞬きにも満たぬ、その一瞬。

 刻の注意が潤自身から鈴の身柄へと移ったその一瞬の隙を狙って、潤の姿が蜃気楼のように霞んで消える。


「鈴様ァッ!!!」


 刻は跳ね飛んだ。

 広間の木製の床をその脚力でもって押しひしゃげさせながら一気に前進し、鈴の元へと向かう。

 そして流れるような動作で腰の短剣を引き抜くと、鈴の眼前に迫っていた潤の凶刃を短剣の峰で受け止める。


 ––––––––––––。


 広間に響く金属音。

 一合、互角な力量で打ち合った後、すぐさま刻は右袈裟に短剣を振るう。急所を狙った一閃であったが潤は身体をするりと抜き動かし、再度鈴や刻と距離をとる。

 刻の荒い息と共に、広間の空間全体に戦闘の緊張が走る。


「やる気か、潤–––––––––ッ!!」


「最近修行サボり気味だったんじゃねえか?十二禅僧の席次一位、刻サンよ。お前がガキのお守りに執心だったこの十年間も!俺は自己研鑽を続けていたのさッ!今やお前ごときには簡単に仕留められねえぜ?」


 再度、潤の姿が霞んで消える。

 残像すら残さず、元いた位置からモヤとなって霞んで消えるその技術は、たぐい––––––!


 刻も短剣を放り捨て、広間の壁に立てかけてあった長剣を取り出し、自らの前に構える。鈴を自らの背後に隠し、万全を機して潤の凶刃と相対する。


(……姿を幻惑の中に隠し、空間全体から気配ごと消え失せようとも、その身から溢れる殺意だけは隠しきれない。確実に、斬撃の直前には黒い意思が湧いて出る筈––––––)


 刻の読みは的中した。刻自身の死角となる、後方下段。鈴の首元を、二人の足元から潜るようにして狙い撃つ潤の刃が、届いた––––––かのように見えた。刻がすんでのところで剣を後方に薙ぎ払うと、姿を現した潤はたまらず一寸後退りする。


「おおっと」


 退がった先には、武器を構えてきた他の僧侶たちが。

 一振り目の急襲は失敗し、二撃目も未然に防がれ、結果として多勢に包囲された潤。十二禅僧とはいえども、暗殺を成就させるのは困難な状況と相なった。


「観念しろ潤––––––お前の終わりだ」

「ああさ勿論。俺一人でココの僧侶全員を相手取れるワケじゃあねえ」


 観念した様子で、両腕を空中に掲げ降伏の印とする潤。

 しかしその足は降伏の意とは裏腹に、少しずつ後方へと歩みを進めていたのを刻は見逃さなかった。

 右手に握った長剣を瞬時に潤の首元に当てがい、刻は潤の動きを牽制する。


「ここまで無法を働いておいて……我々がみすみす逃すとでも?」


「それもそうさな、参った参った、逃げゃしねエよ。逃げやしねェが––––––だからと言って、投降するワケでもねえがな?」


「「–––––––––!!」」




 そして、響く、轟音。


 ……この時その場にいたもので、状況を正確に把握できていた者は、潤を除いて存在しなかったであろう。

 潤による返答ののち、広間だけでなく、寺院全体を襲った衝撃音。巨大な質量を持つ何かが真正面から山と衝突したような爆音と地揺れが周囲一帯に及ぼされ、潤を取り囲んでいた十二禅僧、刻を含めたその場の全員の思考が一瞬麻痺させられた。


 寺院の建物にもたらされた衝撃によって、寺院の外周から続々と柱や軒が破壊され、吹っ飛ばされ、中心へ向かって飛んでくる。僅かな時間の間に、至源寺院群は白煙をあげつつ、煙と埃の中に文字通り潰されていったのだ。


 広間の僧侶たちの思考を現界に引き戻したのは、寺院外縁の警護番をしていた警備係からの急報であった。

 衝撃を受けた直後、全力疾走して伝えにきたからだろうか。汗を吹き流し、息も絶え絶えに、要点となる一単語を広間中に叫び、伝える。


「敵襲、敵襲ッッッ!」


 刻、そして十二禅僧……そして、その場にいた僧侶たち全員に嫌な予感が走る。

 第三皇女、鈴の十二の誕生日。そして、同日に起きた潤の狂乱。異質でしかない大規模な破壊音と衝撃、そして–––––––––明確な、寺院に対しての敵の侵入!



「悪いな刻、明日以降、生き延びていたなら是非ともまたお茶でもしよう。さあさ、お客さんの到着だ!」


 混乱の最中、警戒と包囲を解かれた潤はいち早く、まるでこうなることを予見していたかのように中庭の方へと移動し、広間と接する大きな襖を開け開く。

 普段であれば、冬の澄んだ空気に透かされた壮麗な月と、満天の星が映る襖の奥の窓の景色は––––––普段とは様相を異にしていた。


「刮目しな皆の衆。こんな辺境の地にまでおいでなすったんだ––––––拝み、崇め、敬意を持って平伏しねぇと無礼極まりないってモンだろう?」


 中庭に広がっていたのは、暗い剣嶺の冬の夜に似つかわぬ––––––篝火かがりびを炊いた、敷地を埋め尽くすほどの……まさしくである、騎馬、歩兵たち。

 篝火に照らされた軍旗が証明するところは、蓮、菊、そして梅の華の紋章。


 襖が開き、広間の様子が中庭の群衆にも筒抜けになると同時に、荒々しく猛り立つ軍勢が揃って雄叫びを挙げる。


 鈴はその様子に怯み、足がすくんで広間に座り込んでしまう。

 刻は鉄剣の柄を堅く握り直し、目前の、かつて友だった敵に目を向ける。


「一体いつから––––––いつから内通していたッ」


「今更そんなことを気にしてどうすんのさ?……それより、自分の心配でもしたらどうだい」


 開け放たれた襖の奥、窓を介した庭の反対側。

 そこではすでに、ゆうに百は超えるであろう数の軍勢が、勢いをつけて寺院の建物に向かって駆け出していた。

 広間にいた僧侶たちはみな、意識をハッキリと持ち直すなりすぐさま、各々の獲物を手にとって、寺院の創始来の大戦争に抗うべく、覚悟を決めていた。


 目前の潤一人と、中庭から突進してくる百騎を超える大軍勢。十二禅僧たちもまた、迫る危機に対する注意というものを大軍勢の方へと向けていた。

 そうして警戒が緩んだ隙をつき、潤は再度その存在をかすみの中へと溶け込ませていく。広間の床にすくんで座り込んでしまった鈴の足を掴むと、肩の上にひょいと持ち乗せ上げ、広間の寺院奥へと繋がる廊下の出口へ流れゆく。


「待て、潤––––––!!」


 刻だけは、そんな潤の動向に順応していた。

 襖の奥の窓とは反対側、潤の向かった廊下の方面へと跳び駆ける。


 しかしそんな刻の行動も潤は予見していたようで、一瞬霞の中から姿を表すと、手に持った短剣で刻の脇腹に切り傷を入れる。

 そして、耳元に一言、別れ際の言葉を惜しむ友人のような表情と口ぶりでこう告げた。


「お前にはこれから先、もう一生会うことはないだろう。––––––じゃあな、俺のこの生涯、唯一の親友だった者よ」


 切り傷を入れられた刻は、身体の自由が一瞬にして効かなくなり、踏み込んだ腰の重心が狂ってその場に倒れ込んでしまう。


「これは……麻痺毒かッ、潤、貴様アアアア––––––!!」


 刻の叫びは、もう潤には届かない。

 再度霞の中へと消えた潤は、南棟の方面へと、寺院の長い長い廊下を走っていた。






 :

「ちょ、ちょっと、潤兄、おろしてっ!」

「アンタの姉さんがお呼びだ……付き合ってくれよな鈴サマよ」



 潤は鈴を肩に担いで廊下を駆けていた。

 攻め込んでいる兵士からしてみれば他の僧侶と見分けがつかない潤も等しく攻撃される恐れがある。そのためにも、できるだけ早急に南棟の合流地点へと向かわねばならない。


 肩に後ろ向きに、乱暴に乗せ込んだ鈴を抱えて、全速力で木製の床を足袋で叩いていた。


「う、ううぅぅう、う゛……」

「––––––どうしたよ、鈴サマ」

「な、涙が、止まらないの––––––みんな、みんな、さっきまで楽しそうにしていたのに……ずっと、いつも通りの日々が続けばよかったのに………」

「––––––、そうかい、そいつぁ……気の毒なこったな」


 えう、うえぐうぅぅっ!


 渡り廊下に広がる、鈴の泣き声。

 鈴は鼻水を垂らしながら、両目からいっぱいの涙を流しながら、その顔、その頬、その後頭部を涙の雫で濡らしていく。

 潤は振り返らずに、鈴を肩に担いだままで廊下を駆ける。

 後ろ向きに担いでいる姿勢となっているから、前方を向いて走っている潤からは鈴の表情は見えない。



 その代わり潤の視界の両端に映るのは、人生の大半を過ごした寺院の景色。

 座禅の修行を行った部屋、食堂がわりの大広間、師のつまらない講義を受けた講堂、窓の奥に広がる、石畳の敷かれた中庭––––––。

 かつて仲間の僧侶たちや師、刻と共に過ごした日々が、背景とともに潤の脳裏を流れ去っていった。




 :::


 南棟、その一角。

 中庭と裏庭、その両方に面した、寺院の末端に位置する倉庫にて、鈴は姉との対面を果たした。

 立会人は十二禅僧の一席であり、王族の私兵団の寺院侵撃を招いた裏切り者––––––潤である。


 そこには、真紅を基調とした絢爛な服を見に纏い、彫り装飾の施された鉄扇を右手に抱えた少女が居た。齢は十五、六とでも見えようか。長く透き通るような黒髪が、漏れ出る月光に映える、名状し難い美貌の持ち主であった。


「なぁに、こんなちんまいのが継承戦争に出てくるわけ。期待して損した。まったくこんな田舎まで来てやりがいが無いのよねぇー」


「まぁまあホン様、こうして実の妹との感動のご対面となったんだ––––––少しは嬉しいとか感想はないのかい?」


「あら潤、道化の才能があってよ?––––––こんなのゴミ同然、見るだけで吐き気がするわ」


 倉庫の柱に括り付けられるようにして縛られた鈴は、身動きができない。

 自らの顔を覗き込むようにして様子を伺ってきた姉、にあたるのであろう人物の冷ややかな眼光に少しの怯えを抱きながらも、なんとか他の僧侶たちや仲間に所在を知らせることができないか画策していた。


「妹、お前––––––鈴、といったかしら。逃げようとしたって無駄……助けが来るよりも前に、先に私が首を落とすもの」


 そういうと、紅は先程持っていた鉄扇を勢いよく広げ直す。鉄扇を構成する一枚一枚の羽のその末端は鋭利に研がれ、遠目にもわかる切れ味を持っているようだった。



「キィエエエエエエッッ!!!」


 誰も予期せぬ間に、炊事場の方面から巨大な人影が飛び込んでくる。

 返り血で染まった調理服を纏った、ふとましい身体の女性が調理器具を携え、鉄針を投擲し、潤とその横の女性へと襲いかかる。


「おおっとお」


 突然の攻撃に潤は反応が遅れ、間一髪で鉄針を潜り避ける。


 女性は敵二人と距離をとりつつ、柱に繋がれた鈴の元へと向かうと、瞬時に鈴の拘束を解き、自らの背後に隠れさせる。


「鈴さま、お下がりください。賊の手足、この炊事場担当、キュウの名前にかけて絶対に触れさせません」


「球さん!!!!」


 絶望的な状況に現れた、自分のよく知る援軍の登場に喜びの声が漏れる鈴。

 しかし、キュウの放った鉄針の投擲は、一本たりとも皇女には届いていなかった。

 狙いが悪かったわけではない。一瞬の間に指先から飛ばした七本に及ぶ針は、真っ直ぐに曹紅ソウホンの首元目掛けて突き進んだが––––––空中を自在に揺れ動く、途中で撃ち落とされてしまったのだ。


「触れさせません……とは。全く笑わせるわね–––––––––」


 曹紅ソウホンの目付きが一瞬にして鋭利となり、周囲の紅い液体も、ドスを効かせるようになった声音のトーンに合わせて鋭利な紋様を描くように流動する。


「––––––不敬であろう。皇位継承権が第二位、覇曹紅ハ・ソウホンの眼前であるぞ」


「………あれが音に聞く、第二皇女の魔匣術––––––ッ!!」


「雑兵ごときに見せるのはやぶさかではないのだけれどね……冥土の土産よ、ほまれと共に散るといいわ」


 曹紅ソウホンがその手に持っていた鉄扇を仰ぐやいなや、周囲に浮遊していた紅い液体の群れも連動するようにしてその形状を流動させる。

 球は曹紅を中心に旋回するようにして揺れる液体に気を払いつつ、曹紅と鈴の間に立ち入る位置を維持しながらじりじりとにじり寄る。


 双方に伝わる緊迫感。

 膠着状態を真っ先に破ったのは曹紅の方であった。衛星のように自分を中心に円周を描いて旋回させていた紅い雫の一つを、鉄扇の動きとシンクロさせて前方へ打ち出す。

 球はそれに対応するようにして右腕を突き出し、紅い弾丸をその腕で受け流さんとしたが–––––––––腕は、動かなかった。


 自分の右腕の所在を探る球。右肩の後ろに目線を向けてみれば、細かな紅い繊維のような紐と右腕が壁とに固定されていた。

 紅い繊維の出どころは球自身の服、白い調理服の、赤く染まった箇所––––––!!


「ぐはっ……ッ!」


 しかしこの一瞬の思索が、戦況においては命取りとなった。

 守る壁もない球の上半身の中心……心の臓を真っ直ぐに狙った真紅の弾丸は、球の肉体を無慈悲に貫いた。


 床に倒れ伏す球。

 曹紅がその手に携えた鉄扇をパタン、と閉じると、同時に周辺を浮遊していた紅い液体も、糸が切れた人形のように床へと一斉に滴り落ちた。


「っ––––––血–––––––––射程範囲…………の、–––––––––、魔匣ッ––––––!!」


「ご名答。主君を助けに馳せ参じたのは良い忠義心だと言えるけどね……私の前に血を浴びて来ている時点で、肉壁にもならない雑兵未満な訳」



「さて、改めてクソガキの首を落としますか––––––」


 そこに瞬時に響いたのは、唐突な破壊音。



「……って、今度は何?」


「鈴さまぁッッッァァァァァ!!!!!!」


 そして、崩れ落ちる倉庫の壁の中から現れたのは、全身に裂傷を負いながらも馳せ参じた鈴の第一の従者兄弟子。––––––それは刻だった。


「あら潤、こいつは貴方の担当ではなかったかしら?」


「その通りさ紅様ホンさまよ……おいおい、山脈超えた異国の巨象すら瞬く間に痺れさせる、天麝香テンジャコウの麻痺毒だぞ?………ったくこれだから脳筋バカは嫌いなんだよ」


 鉄剣を構えた偉丈夫が、粉々に砕け散った木片を踏み越えて倉庫の中へと歩み出る。四肢から滴り落ちる鮮血は広間で起きた戦いの壮絶さを鈴の目にも伝える物だった。


「潤と––––––貴方がそうか、第二皇女の覇曹紅さまとお見受ける」


「そういう貴方は十二禅僧の席次の一位。刻、と言ったかしら」


「刻兄!!!!!!!!!」



「もう、もうダメかと思った!でも、刻兄がいれば……良かった––––––!!」


 鈴は、自分の前に、潤や曹紅らの壁として立ちはだかる、刻の体へと向かって抱きついた。既に自分を守ろうとしてくれた人が一人倒れ、なすすべもなく殺されるかと思った時に現れた命の救い手。倉庫にてそれまで麻痺していた悲嘆の感情も、先程のように込み上げてくる。


 刻はそんな鈴に向かって、小声で、それでいて淡々と、もうどうしようもなく不可変の事実を述べるように、告げる。


「そのことですが鈴様–––––––––私はおそらく、此処で打ち止めです」

「この倉庫の反対方向、裏庭に行けば昔一緒にタケノコをとった竹林に抜ける道があるはずです。負傷の浅い者たちもそこに数人置いてありますから、彼らの手を借りればきっと寺院から抜けられるはずです」


「え、何、どういうこと––––––私は、何処かに、行くの––––––?刻兄は、一緒に行かないの……?」


 鈴の理解には、及ばぬところであった。

 これまでの人生、その大半を仲間達と過ごした。その大半を兄弟子である刻と過ごした。もはや人生の代替の効かぬ重要な場所を占める大切な存在と離れ離れになることなど、鈴には受け入れられなかった。


「貴方様はこの國で一番自由なんです....!!ご自身の未来を、過去からの呪縛に、宿命なんぞに––––––狭められてはいけない......そう、どうか忘れないで!」


「こ、刻兄………?」


「刻はとても幸せでした....この十年間の日々、新しい妹が生まれたようで本当に新鮮な毎日だった!せめて最後くらい、その恩返しをさせてください」


「だめ、ダメだ刻兄、一緒に行こう」


「振り返らずに行け、!兄弟子の言う事が聞けぬかッッ!!」


「!つ–––––––––っっ!!………!!」




 鈴は、駆け出した。


 刻の顔も見れぬまま、一目散に倉庫の反対の出口へと駆け抜けた。

 足裏に広がる、燻んだ土の感触。段々増える草地の香り。懐かしい日常の日々に、刻たちと筍をとった竹林の方面へと向かって、振り返らずに真っ直ぐに、言われた通りに走り抜けた。

 その歩みは涙に濡れ、悲嘆に叫びながらも、足の運びだけは止めることなく、通った道を雫で濡らしながら––––––鈴は寺院の南棟を後にした。



 鈴が抜け出した南棟、その一角の厨房。

 主君を守らんとする兄弟子は、剣を構えて主の敵と対峙する。


「こう簡単に送り出させてくれるとは、これは意外だったな」

「広間の襲撃にあたったのは兄上様の兵士も含めて百五十騎よ?後ろを行かせたところで、出くわすともわからないのに––––––分の悪い賭けをするのね、貴方」

「雑兵百五十如き––––––既に斬った」


 先程までとは気迫の違う、刻の、重い、重い声音の返答。

 告げるところは、猛者揃いの王族直属の私有兵団––––––その百五十騎に至るを、一対百五十の状況下にありながら、短時間で殺戮して見せたとの意。



 死さえも覚悟した達人の戦士が眼に秘める白き焔の如き意志を、

 曹紅ソウホンは見逃さなかった。



「そう、剣嶺ジュンリンの頂点は伊達じゃないわけか………となればこの私、覇曹紅ハ・ソウホン自らが押し通るわよ」

「主君を背後みらい返したおくった身で––––––手前の眼前を通す馬鹿が何処にいる」


 刻は鉄剣を握り返す。先の戦闘で返り血を大量に浴びた上着を背後に投げ捨てると、鉄剣を上段に構え、曹紅の攻撃への備えの姿勢を見せた。


「我が名は刻!ここより先、一切の敵の侵入を食い止めん!俺の主君いもうとに、手を出すなアアアァアアアアッッ!!!!」


 男は猛る。男は吼えた。

 いずれ訪れたであろう、最愛の主君に降りかかる破滅の運命。しかしこの男はその運命に否を唱える。


 服薬された毒薬の影響か。とうに四肢の筋肉は弛緩しきって、鉄剣を握る拳の感覚も脳機関には伝わってこない。


 視界も前方少ししか見えず、その多くが白く濁って、沸いた血の抜けた頭が働いていないことを伺わせる。


 ––––––しかし、それでもなお、彼は立ち向かった。一心不乱に剣を振るい、少しでも長く主君が明日の日の出を見れるよう・・・・・・祈りを込めて、一閃を放った。








 強襲、侵攻、虐殺。

 覇國の世間、大衆の誰一人として認識しなかったこの冬の夜の大虐殺は、概ね攻め手による完膚無きまでの鏖殺ということで決着した。


 大半の僧侶は死に、運良く生き延びた者も過酷な剣嶺の大自然へと丸腰で放られる羽目となった。


 柱や軒、窓や戸をはじめとして様々な箇所が破壊された寺院の跡地。ところどころに燃焼の跡として黒ずみが生じさえもしている、かつて宴席の開かれていた広間の跡地にて。


 物憂げな表情を眼に秘めた、第二皇女がはぁ、と、大きなため息を吐く。


「私じゃあのガキの首は取れなかったか、残念」


「でも兄上様たちの兵士も出張っているようだし–––––––––万に一つ、億が一つにも生存する可能性なんてありゃしないわね。仮に運よく敷地から出られてもこの森………覇國一、いや大陸一最も過酷な修行の地と謳われる剣嶺の大自然が、あんなガキを生き残すはずもない、か」


「帰るわよ潤。私の成人までにできる限り他の兄妹たちを殺しておきたいの」


「それでこそ俺の見込んだ皇女サマだァ、さあ龍翔へ凱旋と行こうか」


「一体いつになったら上下関係を認識してくれるのやら・・・・・・従者としてもう少し、慎みを持って欲しいものだわ」


 そう自らの従者の態度に悲嘆する、皇女の片手に可憐な扇が一つ。戦闘を終え、火照る彼女の身体に向かって、ぬくい戦場の空気を動かして当てている。


 そして扇を持つ手とは反対の、もう片方。彼女の右手にも、また一つ抱える物がある。


 それは先の戦いでの戦利品、骸の首が一つ。

 主君を守護らんと、四肢を欠き、命の尽きるその最期の時まで立ち上がっていた–––––––––偉丈夫の生首である。




 :


 はあ、はあ、はあ、はあ。


「うあああああああああああああっ!!!」


 ––––––––––––また一つ、仲間の悲鳴が聞こえた。



 ハア、ハア、ハア、ハア、ハア。


「うぐっ、う、うおおおおお!!!!」


 –––––––––また一つ、仲間の命の絶える音がする。


 ハア、はあ、ハア、はあ、はあ、はああ!!


「う、うう、鈴様、どうか、ご無事で–––––––––」


 –––––––––また一つ、私の命を繋ごうと・・・・・・自分の命を捨て去った、音がする。



 ハア、ハア゛、ハア゛、ハア、ハア、ハア゛ッッ!!




 –––––––––少し前の、夏の日々が懐かしい。

 日の暮れる少し前まで修行に励んで、夕食の前には炊事場にお手伝いに行って。みんなで食べる夕食は、外から隠し持ってきたお酒を刻兄が飲んだり、それを見つけた師さまが怒ったり、その様子を見てみんなで、私や、潤兄たちで笑って–––––––––。


 そういう、幸せな日々が、ずっと続くと思っていたのに–––––––––。



 少女は駆ける。

 本格的に到来した冬の夜。

 凍てつく突風に体温を下げられながらも、つい先程最愛の兄弟子からもらった言葉を胸にして––––––自分を守って死んでいった、数多くの仲間の屍すらも踏み越えて––––––。


 とうに時間感覚は無くなっていた。

 ただひたすらに、絶叫と悲鳴の上がる、炎上する寺院の建物から遠ざかるのみ。

 追手に捕まらぬよう、必死になって人の声のしない方向へと、駆ける、駆ける、駆ける。



 剣嶺の山あいの森、月光すら届かぬ深い闇の中で、ついに疲れ果てた少女は地に倒れ伏す。


 先日の雨の影響か、未だに湿ってぐちゃぐちゃになった地面のぬかるみの感触。うっすらと開けた眼の目の前には、腐葉土と半分一体化した枯れた落ち葉が転がっていた。

 少女には、それが自分の姿のように見えたのだろう。


 誰もいない闇、誰もいない森の中で、独り疲れ果てて倒れこんだ少女。その運命の行く末は、この腐葉土に埋もれた枯葉のように、ただ衰弱していって息絶えてしまうに違いない–––––––––幼いながらに、そんな予見を無意識に抱いていた。



「刻、兄…………」



 口から零れ落ちる、か細い言の葉。

 乾き切った喉の管、全力疾走の果てに鉄の味しかしなくなった口を閉じて、ゆっくりと瞼を閉じる少女。



 –––––––––––––––これで、終わり––––––。





「………こんなところで寝てたら、風邪をひきますよ」


「全く––––––人に会いたくなくてこんな辺鄙な所まで来て隠居したと言うのに、それで巡り会うのが死にかけの少女とは。いやはや天からの試練のようにも感じられる」


 ふと、耳に声が響いて。

 閉じかけた瞼を開けてみれば、竹林の中に飄々として佇む長身の男性が一人。

 渋茶色の髪の毛は肩甲骨の辺りまで伸ばされていて、その身に纏っていた着物も若草色に染められていて、総じて侘しい雰囲気を漂わせる人だった。


「私の名前は天明。悠葛院ゆうかついん天明てんめい。お嬢さん、あなたの名前は?」


 名前を、問われる。

 以前の自分であれば答えたであろう鈴、という名前が、何故か口から出てこなかった。

 代わりに脳裏に浮かんだのは、つい先程起きた惨劇の数々。


 血飛沫を吹き上げる、かつて同じ飯を食らいあった同門の僧侶たち。屈強な第二皇女の近衛兵達にも臆せず立ち向かった球さん。最期に自分に意志を託した刻兄。–––––––––そして、この十年間一度も見たことのなかった潤兄のおぞましい笑顔。


 これら全ての縁が、自分の出自、自分の宿命、そして・・・・・・明白に自分に関連していることを知覚した鈴には、かつてと同じように振る舞うことは出来なかった。



 多くの悲鳴を聞いた。多くの鮮血を目にした。そして、多くの屍の意志を感じた。

 なればそのため、骸の意思のため。


 鈴の胸中には、宿命に向かっていくだけの勇気の焔が輝いていた。

 ––––––いまや皇族の相続権争い、継承戦争に立ち向かうだけの強い意志をその眼に秘めた少女は、新たな名前を男に告げる。


「私はリン…………、–––––––––劉鈴リュウリン!」













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