ある画家の話

 その酒場は大いに賑わっていた。

 バー然とした本格的な酒呑み処というより、料理と共に日々の辛苦を忘れ酔い楽しむ、粗野な居酒屋であった。他に深夜帯までやっている店があまりないということ、そして小腹の空いた男衆の腹を適度に満たしてくれる料理が一緒に出てくるということ。そんな様々な理由が相まって、その味は超一級の逸品というわけではないにせよ、昔から村の人々に愛されている……そんなような、地元風のなびく、雰囲気の良い酒場だった。


 店内のどの机を見ても、仕事終わりの男どもが、周囲も気にせずに酒飲み腹だし歌い出しのどんちゃん騒ぎ。酒を喉奥に注ぎ込み、涎を垂らしながらつまみの鶏肉を頬張る姿からは、いかにこのひと時を楽しんでいるかが傍目にも伝わってくる。


 給仕の店員も忙しそうに広間と厨房を往復し、積もる注文をなんとか捌いているような状況だった。奥手の机の注文を受けたかと思えば、今度は手前の机に料理を運ぶ。右手の客に酒を追加してくれと頼まれたかと思えば、左手の机の客が唐突に暴れ始める。右に左にと、てんやわんやな騒ぎの店内を給仕たちは忙しく、それでいて手慣れたような様子で対応していた。


 ––––––眺めているだけで飽きないような、そんなこの酒場のせわしない様子が、は大好きだった。


「毎日毎日、ここは見る景色が変わらないね大将」


「なんだぁ、代り映えのないつまらん店だとでも文句いいてえのかおまえさんは」


 喧騒の中心であるテーブル席の多い広間から少し離れたカウンター席に座っていたのは、長い黒髪を後ろで結わえた長身の女性。その向かいでは、大将と呼ばれた筋骨隆々とした男が布巾で洗い終わった容器を拭いていた。


「いやいやあ、勿論いい意味だって。アタシ好きだよこのお店」


「そういう物好きでもなきゃ、こうして毎日律儀に酒飲みにこねえってことかい」


「『物好き』は余計だけど、まぁそういう事。ん――、大将、もう一杯」


 そう言って女性は、飲み干した盃を目前の大将に差し向ける。


 この女性の座る席の付近には、既に十本ほどの空になった酒瓶が転がっていた。

 追加注文を受けた大将は、手元にあった新しい瓶を持ち出し、それを差し出す――かのように思われたが、画家が酒瓶に手を伸ばすや否や、ひょいっとその手を避け、瓶を渡すことなく、にっこりと笑ってこう告げた。


「酔いつぶれる前に伝えとこう。酒瓶五本で十五銀。追加で足したら十八銀。安い果実酒ジュースでも六本ともなりゃ八銀は貰うぜ。でもって、四か月前から積もりに積もったツケの総額が四金と五十一銀。同じく四か月前から滞納されてる家賃が総計四十金。そんでこれら全部の返済期限が七月の七日。お前さん、今日が何月何日か知ってるか?」


「んー、確か五日…?」


「五日は昨日だバカヤロウ、今日は!六日!!というか今さっき日付も変わって、もう七日だ!おまえさん今度こそ金持ってきたんだろうなァ、無いとは言わせんぞ無いとは!!」


「んあ――――、いやはやまずったなあ(汗)」


 悪びれもなく後頭部を軽く掻いてにへらと笑う女性の対応に、酒場の大将は堪忍袋の緒が切れた様子で、怒髪天をついてまくしたてる。


「なあにがまずったなあだてめえ、今日という今日は逃がさんぞ!今夜中に代金払わなかったら、これから毎日うちの従業員として酒代家賃全部耳そろうまでこきつかってやるからな」


 大将から告げられる衝撃の一言。端的に換言すればそれは、途方もない期間の無償労働と時間の拘束。


「えええええ、それは困るよ大将、まだ描き途中の作品があるんだ。これさえ完成して売れればぜーんぶ余裕で返せるくらいのお金になるんだって」


「お前が描く絵ってのが完成したところも売れたところも見たことがないんだよコッチは」


「んな殺生なぁ」


 肩をがっくりと落とし、絶望した様子で項垂うなだれる女性。

 大将の方も、既に伸ばしに伸ばした借金の返済期限をこれ以上待つ気は無いようで、その様子を悟るに女性はますます落ち込んでいた。


 わかりやすく意気消沈する女性を尻目に、それでも頑として譲る気は無いと告げるかのように、ため息混じりに容器を拭う手を再開させる大将。


 陽気な飲み会気分の広がる居酒屋の店内において、このカウンター席の一角だけが、わかりやすく暗い感情を一面に押し出していた。




「–––––––––いよ、そこのアマッ!––––––」


 そんな折、店の反対側にて喧騒が弾け飛ぶ。



「おめえだよそこの女!俺様がこっちこいっつってんのよぉ」


 悪酔いしたのかどうなのか。気づけば、大きな机が設置された、店の広間の一区画にて。大柄な男性と、それに追従するようにしている小柄な男性の二人が、周囲の客を爪弾きにして、横柄に客間を占領する形となっていた。


 女性はその様子が不審に思われて、カウンター越しの店長に小声で話しかける。少なくとも女性が記憶している範囲の中で、あのような客はいなかったはずだ。


「あれ、誰?」

「最近来てなかったお前は知る由もねぇだろうが……近頃よく入り浸ってる悪客だよ。酒癖が悪いのは勿論、毎度店中を荒らしてから帰りやがる」


「ふーん……」


 ゆうに二十を超える酒瓶が転がった机を豪快に押しのけると、大柄な方の男性は手に麦酒ビールの瓶を握ってカウンター席の方へとにじり寄ってきた。

 その侵攻を妨げるものは周囲の人間には誰一人としておらず、皆が怯えた様子で事の顛末を見届ける中、男は机やら椅子やら空き瓶やらを蹴り飛ばしながら前進する。


 高椅子に座る女性の前に歩み寄る悪漢たち。大将は臆することなく、毅然とした態度で語りかける。


「お客さん、困るよォ。勝手なことしてもらっちゃあ」

「ああ゛?ジジイはすっこんでろや、俺様が興味あんのはそこの女だっつってんだろ」

「兄貴がこうおっしゃってんだからよぉ、黙ってろよなジイさん!」


 カウンター席の前、まず大将と向かい合う形になった大柄の悪漢。大将が声をかけるも気にも止めず、要件があるのは私の方だと答えを返す。


「って言われても、この女に手え出すってんなら止めとかねえと……」

「んだ、俺に指図するってのかテメェ、ア゛ア゛?」


「そうだァ、こちらのお方をどなたと心えるぅッ!!」


 わかりやすく不機嫌になる大柄な男に合わせて、その脇に着いていた小柄な方の男が何か口上を合わせるように捲し立てる。


 しかしそんな会話の応酬などは気にもかけず。

 世俗の嫌なことを全て忘れて、酒の世界に浸り楽しむ晩酌の時間––––––を、邪魔された女性の感情は、周囲の空気すら巻き込んで、燃え盛る火炎のように逆立っていた。

 そんな様子の女性を見て、大将はまた一つため息を漏らす。まるでこれから起きるを予期するかのように。



「–––––––––いま機嫌悪いんだけど、あんたがなんなわけ」


「ッア、笑わせるねえ、それもまぁ首都から離れたこんな辺鄙な田舎じゃ知らねえ奴がいてもおかしくねぇか」


 フン、とわかりやすく鼻で笑う大柄な男。

 一呼吸置いたのち、店内の、従業員、客、その他観客にも見せつけるように……高々とその右上を中空に掲げ、勢いよく服の袖を捲った。

 その袖に隠された二の腕の表面には、青い塗料で施された鮫柄の刺青が施されていた。


「見えねえとは言わせねえぜ、俺様の腕のこの青き刺青!!!この紋章こそ大海賊団、『鮫牙水軍』の紋章よ!」


 ––––––––––––『鮫牙水軍こうがすいぐん』。

 その名が居酒屋の空間に広がった瞬間、周囲一帯に一瞬の沈黙が訪れる。その静寂を構成したのは事態を認識する確認のための一呼吸、そして恐怖が空間を支配するまでの事前準備……。


「『鮫牙こうが』……ってまさかあの!?」

東都とうとの方まで進出してきたってぇのかっ!」


 鮫の牙の名が広まると同時に、周囲の観客ギャラリーたちにどよめきがひた走る。一度遭遇すれば財はおろか、命すら危ぶまれる––––––獰猛な鮫のように骨の髄まで人間を噛み尽くす、残酷無比なる西の暴徒たち……「鮫牙水軍」。


 その構成員が皆、青い塗料で描かれた、鮫の牙を模した刺青をその体に彫り込んでいるということは、西の海より遥か東方であるこの村の住民にですら周知の事実として広まっていることだった。


「そういう訳だ。俺様に刃向かったら最後、お前さんとこの村がどうなるか……ガキが考えても明白に、簡潔に!わかるよなぁ!?」


 吠える大男。

 周囲の客も、給仕たちも含めて、皆が恐怖に怯えてその場を動くことも能わず、言葉も発さずに息を呑むことしかできなかった。


 ––––––ただ唯一。依然として不機嫌な苛立ちを体の髄から発露させる、長髪の女性だけを除いては。


「–––––––––なんかつまんないやつに絡まれちゃったな......」


「ああん、なんつった?んまあいい、俺様が相手してやろう、つってんだ。わかったらさっさと荷物でも纏めて–––––––––」


「つまんねェヤツって言ってんの。話わかんないかな、この腐れチンポ野郎」


 あくまで淡々として、女性が述べた一言は、欲に短絡なこの悪漢といえども一息に理解できることだった。それは即ち自分に対しての侮辱であるとこの男は捉え、目前の女性を一瞬にして情欲の吐け口である獲物ではなく––––––排除すべき敵として認識した。


「……あ゛?」


 悪漢の目つきが変わる。

 文字通り眼球を殺気が血走り、血管を収縮させて敵をめつける、冬熊の如き荒ぶった目つきへと変貌した。


「俺の聞き間違いじゃあなきゃあ、今このアマ俺様のチンコを短小だってバカにしたらしい……許せねえよなあ、ヘイハチィ!!!!」


「あ、ああぁ兄貴!短小は兄貴の聞き間違いだけどとりあえず許せねえ!」


「こいつはっ!短小で皮被りだと言いやがったッ!!!!絶対に!嬲り殺すッッッッ!!!」


 室内全体を震撼させる怒号が響き渡る。

 足元に転がる硝子ガラスの酒瓶にも躊躇せず、ドシドシと踏み込み前進する悪漢。女性との感覚が狭まったところで、常人の三倍はあるかに思われる巨大な拳を、思いっきり女性の顔面に向かって突き放つ。

 その顔すら覆ってしまうほどの圧倒的な質量を持った悪漢による拳の一撃。それは衝撃インパクトの直前、しっかりと顔の正中心を捉えていた―――――



「う゛ぅゥウ゛ッッッ!!」


 店内に広がる、殴打の直撃による鈍いうめき声。

 絶叫とも呼べぬような痛々しい悲鳴と共に吹き飛ばされた人影は、木製の机や椅子、卓上の料理や酒瓶といったものを破壊しつつ吹き飛ばされた。



 木っ端微塵に砕け散った木片は塵埃となって店内を漂い、カウンター沿いの薄煙の奥に凛として立ち上がる、長髪を靡かせるシルエットを映していた。



「うおぉう、よくも……」


 崩壊した機材の中、がよろめきながらも再び立ち上がる。


「踏み込みが雑。アンタ、まともにやり合ったことないでしょ」


 まさに刹那のうちに起きた出来事だった。

 女性はカウンター席から滑り降りると、拳が女性の肉体を捉える前に、不安定な悪漢の体幹を回し蹴りで打ち抜いて、弾き飛ばしてみせたのだ。


 ケラケラと煽ってみせる女性の方はといえば、座っていたカウンター席から数歩離れた距離にて余裕そうに立ちながら掌を招き動かし―――


「やるってんなら相手になるよ」


 と鋭い刃物のような声音で告げて、両手を掲げ、腰を据え、武闘を行う構えに入る。無造作な状態から移行する一連の所作は清流の水面のように淀みがなく、あらゆる敵意さえ吸い込むような気迫さえ伺えた。


 その様子を見たからか、それとも自分でも知らぬうちに手痛い反撃を食らったことに対しての苛立ちか、はたまたその両方か。立ち上がった悪漢は頭中に煮えたぎるような血を登らせ、思わぬ敵への逆襲へと転じる。


「フーー!フーーー、ング、フーーーーーーーーッッ!!」


 鼻息を荒く炊き蒸しつつ、悪漢は自重で叩き潰した木製の机の片割れを持ち上げると、女性の方へと照準を合わせるように向かい合った。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ」


 大男と同じか、もしくはそれ以上もありそうな重さの木材の塊をその肩の上に掲げ、いざ振り下ろさんとしたその時。

 合わせていたはずの照準の先には、すでに女性の姿は無かった。


「そういう重いモン投げ物に使うときは………」


 古く軋んだ床を叩き跳ねながら、女性は目にも留まらぬ速さで机を掲げていた悪漢の懐へと潜り込む。そして両足で勢いよく踏み込み、一瞬の予備動作タメを活用して、右足のバネの伸縮によって、鞭の如くしならせて中空へと放った。


「––––––足元注意。それと急所キンタマ、ガラ空き」


 形容するまでもない、正しく痛恨の一撃。

 むしろ形容せずとも、諸兄の皆方の想像には難く無いであろう、重く、鈍い絶望の痛撃。


 下腹部に広がる、痙攣を伴う重々しい痛みにより体のバランスが崩され、悪漢は持ち上げていた机すらを自分の上に覆いかぶせながら撃沈していく。


 白目を向いて机の下敷きに成りながら転がる悪漢は、誰の目に見ても再起不能。女性の勝利という形で、居酒屋でのケンカは終わった。

 パッパッ、と。女性は手についた埃を払いながら、大男の前に歩み寄り、周囲に聞こえさせるようにして語りかける。


「アンタは知らなかったかもしれないけど……鮫牙の刺青は基本的に彫られてるもんさ。わざわざ彫りつけた努力は買うけどさ、が背負うには少し……荷が重かったんじゃない?」


 曰く、鮫の牙を名乗るにしては、と。



「なんだ、偽物だったのか」「何かおかしいと思ってたんだよな」

 女性が告げる真実を受けて、遠巻きに眺めていた人々も口々に同意の意を示す。虎の威ならぬ、鮫の威を借りて傍若無人に振る舞っていた大男には、非難の眼が向けられる。

 ふう、と女性は一息大きなため息をつくと、目線を尖らせながら悪漢の腰巾着……ヘイハチと呼ばれていた小柄な男の方を向く。


「……まだやりたいってんなら、まあ相手にはなるけど………こっからは本気で容赦しないよ」


どこか獰猛な肉食獣のそれを思わせる鋭い眼光は、目前のヘイハチだけでなく、店中の人々全てに緊張感を抱かせるほどの覇気で満ちていた。


「要件は済んだ?済んだなら––––––とっとと失せな」


 その眼光に押されたのか、単純な戦力差を理解したのか。いずれにせよ、ヘイハチはプルプルとその首を縦向きに小刻みに震わせると、急いで大男の片腕を握り担いで、居酒屋の暖簾のれんを潜り外へ出る。そんなヘイハチの行く手を、回り込んだ女性が呼び止める。


「あ、やっぱ待ちな。兄貴とお前を殺しやしねえが、その腰の銭巾着とその他もろもろ......有り金全部吐き出してけ、な♡」


「ひ、ひいいいいいい、はい!はいぃ!」


 酷く怯えた様子のヘイハチは特に抵抗するでもなく、むしろ許してくれと言わんばかりに有り金と思しき物資を全てその場に置き、女性が満足したような顔になるのを確認すると一目散に逃げ出した。


 荒れた店内を直進し、カウンター席の方向へと向かう女性。にまーーー、と笑いながら押収せしめた金品をカウンターの上にばら撒く。


「金十一と銀七十–––––––––、何だ、存外しけてやがんね。ほらさ大将、家賃代にその他もろもろツケ代金?すぐさま稼いでみせましたとも」


「なンだかなァ.......いやさ、必要代金は全部貰うがね」


 ––––––過程はどうあれ、結果として。

 女性は居酒屋の治安を乱す悪漢を撃退し、脅迫じみた手口であったものの、必要経費の捻出に成功した。目下の危機が去り、店内に再びの平穏が戻ったことを遅れ気味に認識した観客ギャラリーたちは、喝采をもって女性を快く歓待する。


「ま、大将も大将だよねえ。か弱い女性に戦わせるなんて。率先して女の子は守ってくれなきゃあ」


「どこにか弱い女の子がいるってんだ。––––––ああ、だから俺は止めようとしたのに……」


「またまたぁ、冗談よしなよ〜」


 歓談に華を咲かせる、女性と大将。

 どうやら大将にはこの女性の本性は既に知れていたようで、無駄な暴力の被害を生み出さないためにも大将は場を収めようとしていたようだ……実らぬ努力と終わってしまったが。










 –––––––––––––––––––––?。


 その歓談を破壊する、女性の脳裏を掠める違和感の霹靂。

 そんな折、を感じ取った女性はその意識の注意を、空いた窓の奥、店の外の方向へと向ける。


「ん、何だ今の–––––––––地震かな、大将」


「なぁに寝ぼけてんだおめえさんは。何ともありゃしねえよ、お月さんは微動だにしないで、いつも通りにお空に輝いてらあ」


「いや–––––––––ううん、何でもないならそれで良いんだけど」


 夜更けということもあり、一連の騒動が一段落したこともあって、客の多くも荷支度をして帰路につく準備をしている所だった。

 カウンターにかけていた、臙脂色に彩られた風呂敷を掴むと、女性は店内を一瞥もせずに、一仕事やりきった様子で暖簾をくぐる。



「––––––––––––––––––!」


 シブキ、とその名前を呼ばれると、女性は、そのまま声を発した大将の方へと振り返る。外界へと踏み出した足の配置はそのままに、上半身だけ振り返る形で店内に視線を戻す。


「忘れもんだ、持ってけ」


「あぁ、ありがとう」


 手渡されたのは古びた小包。

 シブキが中身を開くと、中には紺色の布地の……服が入っていた。

 手元で空中に広げてみると、それは妙に既視感のある柄と作りの服装で―――具体的には、つい先程目にしたこの居酒屋の屋号……あらなみ屋の「波」の字が大きく真ん中に記されていた。それはこの居酒屋あらなみ屋の、従業員の給仕制服だった。


「大将、これ私んじゃないよ。他の従業員の子の忘れ物じゃない?」


「いいや、確かにお前さんのだ」


「またまた、さっきの冗談の続きぃ?借金ならさっき全部返したじゃん」


 大将はそこで沈黙する。語るよりもより良く訴える方法がある、とシブキに根拠を見せてみせる。

 くい、と親指を後方に向ける大将。


 その動作の示す先に目をやると、先程抜け出てきた店内の様子……つまり、破壊された机椅子や窓、散々にぶちまけられた料理や容器の数々、床に散乱する酒瓶の数十本……。シブキがそれらを目にいれたことを確認した後、大将はゆっくりと再度その口を開く。



に必要な料金は確かに徴収させてもらった。んだけどな、お前個人の借金の分はまだまだ丸ごと残ってるんだわ。勤務は毎週六日、昼前の仕込みから夜更けの締めまで。水の曜日を除いた他六日全部で、丁度夜が明けた明日の昼からだな」


「いやいやいや――――え、本気マジ?」


「本気も本気、大本気おおマジよ。わかったらさっさと家帰って寝て、明日の仕事に備えるんだな」




 借金が残っている。

 なんなら、それを返すための重労働を課されてしまった。


 悪漢を撃退した功績も虚しく、晴れ晴れとしたシブキの感情は霧消し、心境に暗雲が立ち込める。


「そんなああああああああああああああああああああああ」



 夜の村に響き渡ったシブキの絶叫を、月は天空から煌々と照らしていた。







 ---


「ハア、不要ないらない汗をかいちゃったよ」


 シブキの自宅、浴室にて。

 疲れ切った体をなんとか動かしながら、床につく前に最低限体の汗は流しておこう、と彼女は思い立ち、こうして冷え切った水を体にかけ流している。



 先程の居酒屋での戦闘を思い返すシブキ。ゆっくりと閉じたまぶたの裏で、数刻前のケンカの風景が流れる。

 目前を掠めた悪漢の巨大な拳。それをひらりとかわして、潜り込んだ懐にて炸裂させた強烈な回し蹴り。わずかな瞬間の出来事ではあったが、シブキの脳内には鮮明に、その動作の一つ一つが強く焼き付いていた。


「明らかに……。アタシ」


 冷や水の溜まった浴槽から出ると、洗い場の鏡の前にシブキは立つ。体を清めるための手ぬぐいを掴むべく後方へと振り向いた時、浴槽のすぐ脇に設置された大きな鏡にシブキの背面が映し出される。


 その背中に広がっていたのは、誰もがその精巧さに息を呑み……そして誰もがそのおぞましさに息を止める、そんなような深蒼の紋章。




 ―――鮫の牙を象った、深い蒼色に彫られた刺青が、シブキの背中一面に烙印ほどこされていた。










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