目廻るノワール

本編

 絵を描かなくなったのはいつぶりだろう。

 非生産的な生産行為を咎められることは慣れていたけれども、だからといって平気となるわけではなかった。私は自分を拒まれる恐怖を退けたいがために、あっさりと筆を手放した。

 もう絵は描けない。それ以外にできることを探しては手元にある参考書へと意識を戻す。寿司となった気分で電車に詰められ、人ごみで揺さぶられる。肩の羅列から覗く景色は焦がしたケチャップを思わせる色合いで帰路特有のもの哀しさが滲んでいる。

 目にとまる記述へ線を引くため、ペンケースを控えめにもてあそぶ。これだ、と勘で手にしたのは製図用のドローイング・ペン。もう絵を描かないくせに、道具は捨てられずにいる憎らしい自分を鼻で笑ってしまう。そろそろ断捨離してやらねばならない。私は齢十七となり、大学受験に身を粉にせねばならないのだから。余分なものは捨て去ってやれば母も喜ぶ。

 ――もう使えないのであろう。絵の具はきっと色材とメディウムが破局して、混ぜてやったところで色材が頑固に復縁を許さないかもしれない。いや、それでいい。もう使う予定などないのだから。

 ゴロゴロ、転がりだすように駅を後にする。最近ようやく舗装された道路を歩いていると、やはり私らしからぬ思いがよぎってしまうのだ。私らしさについて、悩んでしまう。

 いつかは就職する身だけれども、会社の希望というものがない。生きていれば母は喜ぶ。

 シャープペンシルの芯が切れかけているのを思いだし、文具屋へ立ち寄る。ふと「今日は勉強などしたくない」という思いが湧く……なぜだろう。ぼんやりと引き戸を閉めつつ、まぬけな自分をさらけ出す。

「いっ……」

 勢い余って手をはさんでしまった! 突如襲いかかる痛みに呻き、神経を殴られるような衝撃に目を強く瞑ると……まるで天使の羽根に撫ぜられたのかと思うほどに、痛みが何事もなく引く。衝撃のわりに傷は浅かったのだ、と安心して瞼を開ける。目の前にいまだうずくまる私がいる。私、とは。非常に容姿の似た彼女は誰なのだろう。首を傾げていると、彼女はあからさまに不機嫌な様子で店を出ていく。私の鞄を持って。

 静止の言葉をかけても彼女は素知らぬ顔だ。無視というより、まるで私のことが見えていないみたいに。同じ服を着て同じ顔をして、彼女は「帰りたくないな」と呟いて駅への道のりを戻ろうとしている。

 鞄だけはどうしても返してほしい。先を行く肩を叩こうと強く踏み出して、二歩目が地に着くことは叶わなかった。自分の身体は反動で宙へ浮いてしまったようだ。

「な、なんで⁉ ちょっと、あなたも待ってよ」

 風に飛ばされることはないけれども、歩けないとなるとどう進めばよいのか。悩んだ末に水泳の授業で習った平泳ぐ際の腕の動きを模する。進み具合の調節こそ面倒ではあるが、追う者にはたやすく追いつくことができた。そのまま彼女をかすめた手は……なにに突っかかることもなく、空気を握った。……触れたはずだのに、触れられなかった?

 さすがに焦燥を覚えざるをえない。彼女の靴底の減り方もなにもかもが私と同じだというのに。

 ひとりごとが聞こえる。「ママの言うこと、聞きたくないや」悪い子の発言だった。先ほどまで私が持っていた筈の疑問も彼女が口にして、私はもう興味を失っていて……勘付く。

 今、肉体を所持している彼女は〝悪い私〟であり、退去させられた私は〝善い私〟なのではないか。合点のいく話だ。しかし善いはずの私が家賃未滞納の者と同じ扱いを受けるなどという理不尽があってよいものか。それに実体を失って、どうやって来週に迫る期末試験に臨むというのだ。なんとしてでも、あの帰宅途中だった私の体を返してもらわねばならない。どこへ向かうのか、呑気にうろつく彼女の背を必死に追う。


 見覚えのある商店街まで来て、シャープペンシルの芯を買うはずだったお小遣いを赤い果実に変えるなどというアダムとエバすら驚愕に罪を取りこぼすほどの悪行を、隠れがちな陽に当てられながら何食わぬ顔で為す。これはとんでもない悪い子に乗っ取られてしまった。信号のない交差点を見渡しもせず通ろうとして、横からロケットよろしく突っこんできた自転車と――衝突した。

 大仰な音を立てて倒れこむ両者。賑わう通りの人々は好奇心だか気遣いだかでわらわらと集まってくる。傷口に集まるフィブリノゲンの再現映像を、理科の授業で見せられた日に戻ったよう。その人だかりの中心でこれだけの注目を浴びながら、彼らは何食わぬ顔でむくりと起きあがった。腕が青みがかっている以外、負傷はないらしい。どれだけ運がついているのか。

 自転車に乗っていた男の子は、私(といっても肉体を独占する〝悪い私〟に対してだけれど)に外傷がないことを確認したのち「どこか動かすと痛いところは?」と丹念に心配をかけてくれた。人が好さそうなパッチリと開いた目は、相手の思惑など恐れることもなくまっすぐに見つめている。私は悪い子でも善い子でも臆病で、しっかりと目を合わせることができない。それとなく視線を外しつつ「大丈夫」とだけ伝える。

 その後、警察や救急車を呼ぼうとしていたギャラリーに率先して大事にしないでくれ、と私は頼んでいた。不注意は相互の上で、男の子ばかりが責任を問われるであろう展開は想像したくなかったのだと思う。頭を下げて願い出れば、さすがに周りもそれらを無視してまで事件沙汰にするつもりはないらしい。なんとか引いていった人並みの中、残ったのは二人と……つい数分ほど前に購入して口もつけず、アスファルトと縁を結んでしまったりんごがあった。

「あ、これってきみの……? なにからなにまでゴメンね」

 彼は買った場所を聞いてきた。そこの八百屋だ、と答えると返事もおざなりに駆けて行った。そういえば彼自身は平気なのだろうか。走っているくらいだから怪我はないようだが……自転車はどうなったのだろう。あいにく〝悪い私〟は呆気にとられて例の姿を目で追うしかできていない。などと言う私も、混乱が収まらないがためにこうも思考がぐるりぐるりとメリーゴーランドのごとく、とめどなく巡りつづけているのだろう。

 数分も経たぬうちに、彼は二つのりんごを持って戻ってきた。

「これはさっき僕がダメにしてしまったぶん。で、もうひとつは僕がきみと一緒に食べるためのぶん」

 なるほど、ではゆっくりと食べられる場所を探さなければ。〝悪い私〟はそんな呑気を考えているけれども、こちらとしては早くお帰りいただいてテスト勉強をしてほしい所存だ。今後を思うと不安ばかりが満ちるが、彼女にとってそのような悩みは路傍の石ころほどに眼中にないらしい。おのれ、私が戻った際には勉強しかできなくしてやる。

 まぬけにも「こういうこと、してみたかったんだ」と笑う〝悪い私〟は男の子に倣ってりんごを丸かじりにしている。まったく極悪人だ、おまえは!


 陽はすこし前に落ちきってしまった。つまり門限を守っていないことになる。母に怒られるのはどうか彼女だけであれ、と己の正当性を肯定してあげたい。

 さて悪い彼らは都心から離れていく電車に乗って、星空を観ようと話している。星なんぞ教科書でいくらでも見られるし、すこし街へ出れば科学館のプラネタリウムだって堪能できる。後者についてはわざわざ私が腰を上げるかが謎であるけれども……すくなくとも、存在はしているのだから。非効率的で悪い子だ。

 しかも彼らは親の許可もなく遠出をしている。弁護のしようもない。

 車窓から覗く景色は街灯が足りていないようにも見え、どなたかが黒蜜をぶちまけたのかと思うほどに暗い。

「きみはどうしてりんごを持って歩いていたんだい?」

 私と同じで湿気の多い日は苦労が絶えなさそうな癖毛を揺らして、彼は視線を向けた。自分のこととはいえ思考や行動はどうにも理解しがたいことが多い。そっと、と言わず聞き耳を立てる。

「私はもともと、とっても良い子なの。親や先生の言うことは必ず聞くし、多少理不尽と感じても文句は言わない。もうじき大学受験があるし鉛筆のように削られて擦り減る覚悟もしている……はずだったのだけれど」

 ――文具屋で手を挟んだとき、まるで今まで放置しきっていた絵の具を久しぶりに出した、あの水だけが溢れてくる変な感覚をこの身を襲ったの。絵の具は色材と、メディウムって……ハンバーグでいうつなぎのような役割をするもので作られているのだけれど、それらは放っておくと分離してしまうの。良い子だった私は今、悪いことをしているからきっとあの時に良い子と分離して落っことしてしまったんだ。あのりんごみたいに。

 彼女の言葉が私というコップに注がれていく。なぜだろう、ひどく胸が痛い。早く肉体に戻りたいのだろうか。それとも彼女が自身のことを「悪い子になっちゃった」と困ったように笑っているからか。

 彼女は本当に私にとって不要な存在だったろうか。行いのすべては私が昔、羨望を覚えたものばかりだ。言いつけを破ってみたい、男の子が読むマンガでやっているようにりんごを食べてみたい、遠くへ行ってみたい……。

 私というものは決して〝善い私〟だけで構成されていたわけでなく、この胸元に爛々と輝く空色のスカーフよりもくすんでいて、そのくすみは〝悪い私〟として混ざった小指の爪ほどの絵の具だったのかもしれない。

 車内アナウンスが目的地を示したために考えは続かなかったけれども、やけに一連の会話が私の鎖骨あたりに焼けついてとれない。


 男の子にとって、この田舎は見覚えがあるらしく私の手を取ってエスコートを始めた。こっそりと確認した時刻表には帰りの電車が既にないと何度まばたきをしても書いてあった。シンデレラも顎を外すほどの早さ。

 無人駅を出て私たちが驚いたのは暗幕にこぼした砂糖のように、はっきりと見える数えきれぬほどの星であった。黒蜜の景色に砂糖の空。とんでもない甘党の神さまが、ここを作ったに違いない。

 皮肉はさておき、視界いっぱいに広がるそれらはまぎれもなく美しかった。私の知る空とは夜でも赤っぽく光っていて、星はあまり見えない。光害と言われることは知識だけでなんとなく理解はしていたが、よもやこれほど違うとは。

 もしかして私がずっと良い子であれば、この景色を知ることができなかったのだろうか。いや、きっとそのようなことはない。大人になって旅行をすれば見る機会だってあるはずだ。むしろ悪い子にならなければ見ることのできない景色など――今、視界を覆う星空など――おそらく生きる上で不必要なものなのだ。良い子であれば、良いものは勝手に近寄ってくる。悪いものは遠ざかってゆく。

 ――だからきっと、感動したのはなにかの間違いだ。

 それだのにどうして、私は針を刺されているように胸が痛むのだろう。

「悪いことをしてしまっているなあ」

 ぼんやりと呟いたのは男の子だった。多少の罪悪感が滲み出ているその言葉がどうしてかとても寂しそうに思える。〝悪い私〟もその様子に引っかかったのだろう、真意を尋ねている。

「僕はね、こうしてきみを勝手に連れまわしているくせに……実はこれがとても悪いことだと自覚しているんだ。そして申し訳なく思っている。僕はこういうことにはとても不慣れなんだ」

 暗いあぜ道で目ざとく見つけた、たんぽぽの綿毛を一息に飛ばしてしまいながら彼は笑った。「情けないやつだと、思うかい?」私にも綿毛をよこしながら。

 私は彼を大悪党だと思う。それでも〝悪い私〟は予想だにしないことを言う。私が今までしてみたいと、一瞬でも思ったリストが消化されているの……なんて。考えてみれば、思い当たる節はあるのだけれど。

 門限は破ってみたかったし、りんごを漫画のように齧ってみたかった。男の子と逃避行ごっこもしてみたかった。そういえば物語によく憧れを抱いていた。今はもう禁じられているから漫画なんて卑小なものは読めないけれど。――そういえば、漫画は本当に卑小なものだったか? 私が昔、なりたかったものは……祖母の家に、母と共に引き取られる前は……父が生きていた頃は……?

 頭が鉄棒で殴られているように痛む。絵の具が分離していく。私は……夢だとか憧れなんて「役に立たない」ものと分離して、絵を描かなくなってしまった。

 私の好きなものを役に立たないと一蹴したのは、誰だったか。

「僕はイタズラってやつをしてみたかった、誰かを困らせてみたかった。でも結局、悲

 しませることしかできなかったんだ」

 もう一度、彼はゴメンと口にする。なぜ謝るのかはちっとも理解できなかったが〝悪い私〟は静かに頷いた。

 夜はとっぷりと更けていて、さすがに道をだらだらと歩くのも怖くなってきたので公園の遊具の中へもぐりこむ。私のセーラー服は白地が主である。外で遊んだり、座ったりを考慮されていない作り。意を決して〝悪い私〟――彼女は砂で薄汚れたそこへ腰を据えた。

 恥ずかしいために打ち明けたことはあまりないが、夜道や怪談は苦手。目に見えぬあれそれを信じるつもりもないけれども、恐怖はまた別の話だ。

「あなたはおばけとか、信じる?」

 遊具の隙間からは闇だけが見えている。男の子と距離が近いことを照れていようと、外ばかり見つめては不穏な気持ちになるというもの。心強い言葉が聞きたいがために問うと、きみは信じたくはなさそうだね、と笑われた。

 得体が知れないし、どこか知らない場所へ連れ去られてしまいそうで怖い。

「僕だって得体が知れないし、こうして知らない場所へ連れ去ってしまったよ」

 駅前で買っておいた紙パックのココアを啜る。わざとらしい甘味は子どもにとって最高の贅沢だ。私は自分が子どもということを自覚している。だから本来は親に逆らうべきでないことも理解している。

「じゃああなたはオバケだね」

 彼の睫毛が二度、揺れた。それから不敵に笑って私をからかった。談笑する傍らで本当に幽霊みたく体を失い、漂っている私に失礼だとは思わないのか。思わないだろう、ここに〝善い私〟がいるだなんて知らないのだから。

 その上、良い子の私は死んでしまったのだろうか、と悲しい顔で〝悪い私〟は言う。こちらだってその肉体に帰りたくて仕方がない。勉強をしなくてはならない、でなければ私は生きる価値すら失ってしまう。……私は明日の私を生かすために勉強をしているのだから。

「良い子である時、きみは楽しかったのかい?」

 問いの意味を理解できず、ストローを噛む気分で私は男の子へ視線をやった。からかう体でなく、至極真面目な顔をしてあなたはまさか……今までの私を愚弄するつもりか。

 大人の言うことは聞くべきだ。産まれたころから人間はすべてそう教わる。幼い私たちにはわかりっこないが、いつかきっとクラスメイトが遊んでいる間にしてきた努力は報われる。

 私が声を荒げたところで二人には聞こえない。それどころか〝悪い私〟は、私を否定した。

「つらいよ。今こうして悪いことをしていると、昔の――まだ何も考えなくてよかった時代に戻れたみたいで、楽しいの」

 自分に裏切られる。手の側面をまっくろにしてまで私は、いったい何を努力したというのだろう。どうかそれ以上〝善い私〟を否定しないで。そう思うほどに私は、気持ちとやらを省みることができなかったとでも言うのか。

「じゃあ、良い子のきみを殺してあげよう。僕のことは不良の兄ができたとでも思えばいい」

 ――いやだ、いやだ。私は努力だけをしてきたのに。やりたいことなど捨て去って、楽しい思いを追いやって、ただ褒められるだけの完全な子どもになってみせたのに。

「きみは何がやりたい?」

「私は」お願いします、私を生かして。無駄にしないで。

 私は……すべてを言われるがままに忠実にこなしてきた私は……本当は、絵を描いていたかった。

「絵を描きたかった」

 鉛筆でできた手足が、ポッキリと折れたような喪失感。血の代わりに溢れるのは、あの日捨てたアクリル絵の具。間違ってチューブを踏んづけたみたいに飛び出ていく。私は、私は。

 良い子ではダメだったんだなあ。

 気付けばずいぶんと肥えた水滴が、ぼったぼったとプリーツスカートを染めていた。涙と判別するまで時間がかかって、それから、実体がなくとも涙で衣服は濡れるんだなあと他人事のように思った。〝悪い私〟も泣いていた。純粋を飾る空色のスカーフは湿って、はなだ色のまだらとなっている。スカートも土に犯されて、昨日までの私など見る影もない。

 泣きじゃくる〝悪い私〟を抱きしめて、憎き彼は言う。でもね、きみが今まで我慢してきた日々が無駄だってわけじゃない。今更こちらを気遣って。

 彼曰く、努力は誰にでもできるわけではない、らしい。特に自分の本意とは別のものに対して心血を注げるというのは非常に稀なケースで、尊ぶべきものだとも。

 唐突に持ちあげすぎではないか、と鼻で笑う。私が鋼鉄の意思を持って包み隠してきた本音を引き出しておいて。

「ゴメンね」私の不満の声が聞こえたかのように彼は謝罪を口にした。

 意地悪をしてしまった。誰も美しいきみを殺すことはできないよ。冗談めいて両手を振りながら、彼は体を離した。一瞬だけ手が首元を掠めた時、実体でもない私の背筋はゾクリと寒気を訴えた。

 空のココアは知らずうちに足元へ転がり落ちている。それを見つけた時、耳元に微かな風を感じた。

「帰ろうか。迎えが来ているみたいだ」

 車のエンジン音と大人の声が遠くから微かに聞こえる。

「怯えなくていい、外にいるのはお母さんだよ」

 どう怒られてしまうのだろう。今になって己がしたことを後悔している〝悪い私〟は、縋るように男の子の目を見た。

「僕に連れていかれた、と正直に言えばいい。お兄ちゃんにやられた、とね」

 しっかりと目を見つめ続けて彼は、約束だよ、と手を強く引いた。

 大人の声と電灯が、一気にこちらへ向いた。


 母が駆け寄って悪いことをした私を抱きしめる。良いことをする私がいなくなってしまったのを、母は気付いただろうか。

「何をしてるの、こんなにたくさんの人に迷惑をかけて……!」

 声の杭を打ち込まれる直前、私は負けじと言い返した。

「〝お兄ちゃんに連れられた〟の!」

 腕の力がふわりと緩む。目を猫のように丸くして驚く母の顔を見るのは初めてだった。母は面食らったように二度、瞬きをした。

 今だ、と言わんばかりに畳みこむ。背負ってきたプレッシャー、捨てた思い、すべて。嘔吐するように言葉を声に変換していく。そうしてようやく、酸素を吸う。

 警察であろう方々が話かけるのをためらって、遠巻きに私に怪我がないかなどを確認しているのを窺えるほどの余裕ができた。

「あなたにお兄ちゃんの話は、したことがあったかしら」

 想定しているのとは異なった呟きに首を傾げる。自らをお兄ちゃんと称した男の子を指し示そうと振り向く。

 先まで手を繋いでいたはずの彼は、煙のように消えていた。


 私には本来、兄がいるはずだったそうだ。産まれる前に亡くなってしまったから、現状、残念ながら一人っ子。私が産まれる二年ほど前の話らしい。そういえば、あの男の子は無邪気ながら私よりすこし大人びて見えた。

 お盆でもないこの季節に、なぜ彼が姿を現したのかは知れないが……一歩、踏み外せば吊り橋から落下するような危うさを感じさせてしまったのやも。私の兄はずいぶんと心配症だったのだろう。

 頬が緩んでしまうのを止められぬまま、私は空になった二つの紙パックを拾って、母と家へ向かった。


 朝を迎えると、昨日の己の行いに後悔を思う気持ちと、湧き水のような嬉しさが混ざりきらぬ絵の具と化していた。

 実体がどうとか、きっと夢すらも入り混じってよくわからない記憶となってしまっているけれど……いつものように朝食をとるため、ダイニングへ入った時のカラリとした梅雨明けのような雰囲気に、誰へともなく「ありがとう」と思うのだった。

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