ひび

本編

 ――たしかにここは、平成最後の夏だった。


 ミカゲ石で造られたカウンターを静寂が跳ねまわっている。こいつも僕のメランコリーをばかにする気なのだろう。

 世界は、机に置いたビー玉が平和を失って、転げ落ちるのを笑う程度の場所だ。それでも僕だけはちらばった欠片のため膝を汚す。

 ここはたしかに平成最後の夏なんだ、と言えなかった自分をいつまでも悔いている。グラスの結露が生んだ水たまりも乾いているのに。

 胸に埋めこまれている、ビー玉のように透きとおった僕のこころを、唾をかけてシャツの裾で拭おうとするあいつの醜悪な印象が、頬のあたりに飛沫をのこして消えない。かきむしっても、爪が描く痛みに巣食っているような気がする。


 まだ夜が4歩ほど近寄ってきたころだった。男がこの店へしずかに入ってきた。寝室の蚊よりもいやみらしく。気づくのが遅れた僕に口端をつり上げて見せる。

 そいつは黒と、白になりきれぬ灰の不純物を頭にくっつけて、三角コーナーに放り投げたくなる臭いを着て、僕にくらべてずいぶんと美しくない顔で、カウンター席の真ん中に座った。


「こんばんは。おしぼりをどうぞ」


 僕の手指に似合う純白を広げて、指先が黒ずんで清掃のされない公衆便所のようなそれへ敷く。役割を果たすためにめちゃくちゃに扱われるおしぼりがかわいそうで仕方がなかった。しかし、助けを求めるなら僕以外にしていただきたい。

 望まれるままにロック・グラスを白雲石のお立ち台へ。琥珀色の液体が艶めかしく男の唇を誘い、口づけた。えずいてはいけない。


「きみは若いね」


 磨かれたミカゲよりまばゆいこの四肢を、品定めされている。今夜、抱きこめる者にふさわしいか考えているのかもしれない。視線は腕だか胸部だかを乱暴にまさぐるように動いていく。


「そうですね」


 お客さまらしい無礼な態度に張り合ってしまう。だから僕は接客業向きではないのだ。

 長方形の箱を取り出すさまに辟易しつつ、灰皿を差し出す。これから訪れる不潔な霧は、さまざまな銘柄と口によって吹きかけられてきたけれど、一生好める日は来ない。できればさっさと絶えてほしい。

 僕がこの国の王さまになれたら、喫煙者とそれ以外をさっぱりわけてしまうだろう。居住区まで設けて。


「いつか火も点けられるようになってね」


 近所のコンビニで見かけるピンクのライターで、彼は咥えているものの先端を灯す。そういえば町中ではコンビニに偏りが目立つようになった。青い店舗の向かいにおなじ青が建っている光景はずいぶんとマヌケ。

 僕のきれいな手は無知ゆえに火を点けないのだと、勘違いしているこの男ほどマヌケだ。


「むずかしいですね」


 中身を喰われたどんぐりのようにカラカラと笑っておく。

 あとはてきとうに笑って、てきとうにジュースでも飲んでおけば終わる夜。そのてきとうが、とてつもない心労を生むのだけれど。

 美しい僕を汚したい、という欲を隠さない大人をいったいいくら見てきただろう。そして、迫られるたびに僕はわからないふりを決めこんで事なきを得てきた。

 どういうことですか? なんの話ですか? 完璧なはずの僕は阿呆のふりをする。演技であることも察せぬまま、愚かな彼らは「あんた、ばかだな」と鼻で笑う。腹が立たないわけがない。

 しかし、その矜持を捨ててでも奪われたくないものがある。ここで悔しがっているわけにはいかない。やはり僕は頭がよい。幾度も脳内でそれをくりかえし唱えつづける。


 空いたグラスにおかわりを注いでやって、来たる別れを心待ちにする。

 この客は時折やってきては、僕を褒めたり貶したりとせわしない。きっと心が病んでいるのだと思う。

 でなければ、高い金を払って僕に話を聞いてもらおうなんて考えないはずだ。


 この店に来る人間はみな、立派でもない部分を甘やかされにくる。その浅はかさが嫌いだ。はやく辞めてしまいたい。

 あっちへこっちへ意識を移しているあいだに心ない言葉の排泄が済んでいた。「最近、ほんとうに暑いな」安堵が出てしまわぬよう、笑むようにして口をかたく結んだ。


「はやく終わらんかな」


 情緒のない男だ。空調の効いた店内で贅沢をぬかし、酒を呑むついでに氷を舌でなぞる不躾さもきちんと見えているぞ。


「自分はまだやり残したことがありそうなので、しばらくは夏のままがいいです」


 なんていったって、平成最後の夏ですもの。インターネットで話題になっているから、世情に疎い僕もそれくらいは知っていた。元号が変わる時期は知らないが、聞くに来年の夏が始まるまでには終わるのだろう。


 ノスタルジーに満ちている。どうせなら平成とともに死にたい。

 そうした夢想に陶酔する僕の愛らしい顔を殴るように、男は言う。


「違うだろう。来年の夏まで平成だよ」


 えっ、と今まで押し隠していたのに驚嘆だけが口からこぼれた。よく知らないからこそ、男の言葉が正しいように聞こえてしまう。

 なにせ僕は自分で調べていないものだから、合っていればいいな、なんて他人任せ。ネットリテラシーを半分だけ食んだような存在。


「そうでしょうか?」


 しかし自分が合っていると主張したい気がどうしてもあって、引き下がれない。もっとも解決のためには調べてしまえば問題ないのだけれど、接客中の僕はスマートフォンを触れない。こいつが意見の食い違いの裏を取ればわかる。

 それをしないから、僕はこいつが嫌いだ。


「いや、俺があってるよ」


 なにも見ずに胸を張るから、腑に落ちないまま。もし僕が誤りであったらこれ以上の問答は恥を知るだけだから。それにずいぶんと自信に満ちているから、僕はこいつを正解にしてあげた。

 それで知の優位に立てたと思いあがって、僕をコケにし続けた。後悔をたらふく食わされて疲弊に溺れそうだ。閉店時間に助けられた。そいつをタクシーに押し込めて、片付けをして、一息ついて。

 帰るまえに平成が終わるのは何月なのかを調べて、ひどく頭が痛くなった。


 ――なんだ、やっぱり僕が合っていたじゃないか。


 隙を見て指先でなぞられた腕をかきむしりながら、ひたすらに汚いあいつを恨んだ。

 やはりそうだ。いつだって世界はまちがっている人間の声のほうが大きい。頬にも長い指が伸びる。爪の間に俗がこびりついて気色悪い。

 僕が正しかった。美しい僕が、あの汚物に劣るはずがないのに。花に喩えられてもあたりまえだとする自信は、ただ床に寝そべってスナック菓子を食べる行為すら排斥してきたからだ。

 やはり努力を欠かさない僕はなによりも崇高で、なによりも勝っている。

 それなのにどうして。


 どうして僕は平成最後の夏と主張することができなかったのだろう。これならもういっそ、僕の最期の夏にしてしまいたい。

 膨れあがった身を動かして、戸締りをして、バイクに跨って帰路につく。

 そういえば別の客もそうだった。いつも僕を劣っているとみなしている。ちいっとも回転しない頭を誇らしげにしている恥知らずが。

 どうしてだろうな。

 どうして僕がオンナだからって、劣っていると思うんだろうな。


「クソくらえだ」


 中身までこんなに美しい僕を。

 ガラス製の球体にひびを憂えない人間なんか、敵でもない。そう思いたいのに、だから顔を濡らしたくないのに。

 悲しくもないのに、ただ悔しさでオンナノブキを出す矛盾が愛せない。

 美しい僕を、今日も愛せなかった。そして誰も愛してくれなかった。

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ひび @stern_works

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