姉さん

本編

 パンプスの中のむくんだ脚とか、帰宅ラッシュの満員電車。この場所は何年経とうとも、窮屈ばかりが満ちている。

 金属が強く擦れあい響いて、人で津波が起きた。誰かの肘が眉間に入る。風穴が空かなかったのは幸運だった。いくら身軽になれようとも、まだちょっと死ぬわけにはいかない。

「たいへん揺れますのでご注意ください」

 遅れて流れたアナウンスは、津波と慢性肩こりに沈んだ地球人のため息を呼ぶだけだった。その風で飛びあがって、あの村にまで帰れたらよかった。ポケットですすり泣くような音を聴きながら、地下鉄ではおとなしく乗っているしかない。

 大人になるほど世界は小さくなっていく。母と過ごしたアパートの、正方形の風呂よりも縮こまっている。

 手探りで、小さく折りたたんだルーズリーフを救い出す。何度じろじろ眺めても、これのほうがよっぽど広々としていた。開くと、まるで星を見るために寝そべっているような字があって、おもわず駆け出したくなる。

 このむくみきった足で、夜が明ける前に。



 いつもお弁当を届けてくださるあなたへ。

 毎週欠かさず、おいしいお料理をありがとうございます。

 クリームシチューは僕の大好物なので、すぐに食べてしまいました。またお願いしたい気持ちでいっぱいなのですが、じつは実家に帰ろうと思っているので、これが最後の手紙になります。

 クリスマスを控えた街中は煌々としていて、田舎育ちには眩しすぎます。月の明かりが目を刺して眠れない日々が恋しくなってしまいました。

 最後なので、ぜひお話ししたいことがあります。

 じつは僕には冥王星人の姉がいるのです。十三年前、単身赴任から帰ってきた父が連れて帰ってきました。

 仲良くなれるのかと親は心配していたようですが、僕はきょうだいというものをねだったことがあるほどでしたし、なによりも姉は優しい笑顔を向けてくれたので、すぐに打ち解けることができました。

 家族になったあかつきに彼女はこっそりと、じつは冥王星人なんだよ、と正体を明かしてくれました。村でいちばん計算と徒競走が速かったのは地球の者ではないからでした。

 陽に透かすと茶色っぽい髪と、ぱっちり開いた大きな目。生まれた星が違うため、僕にも誰にももちろん似ていなかったけれど、たしかに彼女は家族として食卓につきました。笑顔に限って、エクボが浮かぶところは父に非常に似ておりましたが。

 ある日、それを指摘すると、姉は機嫌こそ悪くなりませんでしたが「もう二度と言わないでね」と口止め料のチョコレートを渡してきたことがありました。笑ったくせに、やめてほしい、なんてあるものなのでしょうか。

 父は顔こそ精悍ではありましたが、姉と違ってどうにもだらしない人だったのがよくなかったのかもしれません。

 彼女は、長期休暇のほとんどを僕との冒険に費やしていたくせに、しれっと宿題を終わらせているような人でした。それを鑑みると靴下を裏返しで洗濯機に入れる父と似ているなんて、きっと恥ずかしいでしょうね。

 かくいう僕も頼りない地球人だったため、姉と同じペースで過ごしていると休みの最終日は地獄を見るはめになりました。

 今となってはこうして笑い話にできますし、恨んだことはありませんが。

 思い出といえば、彼女と庭にピクニック・シートを敷いて寝転び、空を見上げたことをよく覚えています。頭の下にちょうど小石が落ちていて痛い思いをしたこともありますが、とても楽しいのでやめられなかったのです。

 灯りの少ない町でしたから星が鮮やかに見えました。

 冥王星はちょうどこの東京のように栄えているらしく、姉が空ひとつで喜ぶのが愉快でした。あまりに機嫌がよくなると「冥王星の歌」を口ずさむこともありました。姉が向こうに住んでいたころ、流行っていたそうです。メロディが非常に特徴的で、地球人の僕が一言で表すなら妙ちくりんといった感じの曲でした。冥王星人のセンスは独特が過ぎます。

 しかし、それがどうにも耳から離れなくなってしまって、また姉が結構な頻度で歌うので、知らぬ間に僕も歌えるようになってしまいました。自由に跳ねまわる音に魅力を感じたのでしょう。

 そんな自由が流行ることを許される、満たされた星に住んでいたのに、いったいどうして、よりにもよって郡で村で、地球の中でも畑ばかりで何もない田舎へ姉は来たのでしょう。姉は「ここが好きだよ」とあぜ道を褒めていたけれども、たったそれだけではないような気がします。

 冥王星は地球より太陽と離れていますよね。ここより世界も人間も湿っぽく暗そうだとは思いませんか? それがいやで姉は逃げてきたのかと思いました。

 しかし僕の知る唯一の冥王星人・姉はいつでも、底抜けに明るいのです。

 十一年を過ごした故郷の思い出話をていねいに咲かせては、気分が高揚すると、だしぬけに「冥王星の歌」を奏でました。

 それほどかの星が好きなわりに、ホームシック(スターシックとでも書くべきでしょうか)の素振りはちっとも見せなかったのが、不思議で仕方がありません。

 いつだったか、姉がキーホルダーを自慢してきたことがありました。冥王星で買ったと言っていたのが当時の僕には激しく羨ましかった。

 携帯電話を変えたと同時につける場所がなくなってしまったから、とくれた時には家族に自慢して回りました。しろく、まるく、ふわふわとした謎の生物でしたが妙に愛らしくて、また放っておくと死んでしまいそうで、僕はポケットでそいつを飼っていました。大切にしなければ、生きてもいないくせにこいつはきっと息絶えてしまっていたのですから。

 それなのに、僕はポケットから枕元へそいつを移すのを忘れてしまいました。

 後日、そいつはくしゃくしゃに身が縮こまって洗濯機から死んで出てきました。正真正銘、僕が殺してしまったのです。

 それを見て姉が笑っていたのを、たまに思い出しては胸元をかきむしりたくなるような衝動に駆られます。あの場所が大好きだと語るなら、少しくらいは悲しんでくれたらよかったのに。準惑星になったがために交通手段がなくなりヤケになっていたのだとしたら、地球の者として責任を感じます。

 僕が四年生になった時、姉は一足先に中学へ行ってしまいました。

 それから先、大学を同じにしないかぎり永久に一緒に通学ができないと気づき、じつは寂しくなりもしました。けして表には出しませんでしたが。

 あたりまえではありますが、姉はひとりでおとなになってしまうのでした。

 素朴なワンピースを脱ぎセーラー服を着ると、急に地球にかぶれて見えました。

 あの妙ちくりんな歌もめっきり聞かなくなり、僕の知らない姉になっていくのでわずかながら、好きではなくなりました。

 あれだけ中空を漂っていたはずの宇宙人は、いつの間にやら目線の高さまで降りてきていたのです。神秘は遠くにあるから美しいのに。

 郡も村も、大きな市へ合併されてしまったころ僕は高校を一年と通うことができませんでした。親はもちろん明確な理由を求めたけれど、見つけられないまま、強引に退学しました。

 東京へ来るまでのあいだは物置で見つけた古いアコースティック・ギターを部屋に持ち込んで、簡単に作曲をしてみたり、姉が歌っていた冥王星の曲に適当な伴奏を作ったりして日々を過ごしておりました。外には出られなくなっていました。

 宇宙探査機ボクノヘヤは日夜、冥王星を目掛けて航行していたのです。一歩、船から出れば呼吸ができず死んでしまうので仕方がありませんでした。

 お昼寝はさながらコールドスリープでした。なにを待っていたのかは、自分でもよくわかりません。そんなだから昼間だけがとても眠いのです。

 その頃、一年目のキャンパスライフを忙しなくも謳歌していた姉とは、めっきり喋らなくなっていました。ずいぶんと忙しそうで、とてもじゃないけれど宇宙人には見えませんでした。

 自室でぽつんと過ごす僕のほうがよっぽど浮かんでいたのではないでしょうか。

 自分が特別な存在のように感じられて時おり少しだけ心地よかった。けれど大概は膝を揺すって信号を送るばかりだったような気がします。

 姉があの変な歌を忘れているうちに、僕は作曲が得意になりました。

 ところが自分で作るくせに、そのほとんどが女性のキーなのでした。ボクノヘヤでは初音ミクしか歌えないようなものばかりが増えました。やがて、短いライブができそうな程に曲が生まれたけれども、僕が欲しいのはミクではなかった。そしてルカでもなかった。

 かつて姉があの歌を口ずさんでいたとき、デリカシーのデの字も知らない幼き日の僕は「変なの」と指摘しました。ひどく惹かれていたくせに。

 常識という額縁から完全に外れており、自由にもほどがある歌。冥王星人の姉と同じくらい浮いていて、それにたまらなくしびれたのを昨日のことのように覚えています。

 東京に来てから一度だけ、職場の先輩に連れて行かれたスナックの有線放送で、それを耳にしました。きっと僕と同じで、その奔放さに魅了されてしまった地球人がいるのでしょう。

 ただ、そこで流れていたのは自由さを取り払われ地球好みにローカライズされてしまい、跳ねるための手足を失ったイモムシの音楽でした。

 酔っていたせいでしょうか。あの夜は枕が濡れて使い物になりませんでした。

 姉が歌いさえしなければ、そう思うことがあります。長い夜、しばらく新しいままの五線譜を見つめていると、ふつふつと湧き上がるのです。あの歌がなければ、僕は地球人らしく生きていられたでしょう。

 そして姉は平凡かつのんきに暮らす僕を置いて、冥王星へ帰れるはずだった。

 家を出る数日前に、姉が「プレゼントは何が欲しいか」と訊ねに来たことがありました。ふたつあげる、と言っていたのはクリスマスと誕生日を分けて祝うつもりだったに違いありません。

 優しく、素敵な人なのは出会ったころのままでした。それなのにすれ違っていくのは、僕がおかしいのでしょうか。

 物はいいから歌ってくれと願った時、姉は意外そうに目を見開き、まぬけに眉を上げていました。忘れたいことほど思い出せてしまうのはなぜでしょう。

「歌、ヘタなんだよね」と言うくらいなら欲しいものなど聞かないでほしかった。

 僕は姉を部屋へ入れぬよう親に言い、わかりやすく彼女を拒みました。何かが無性に怖かったのです。

 その、うまく説明できない感情がまた恐ろしく、ついに僕は実家を出ました。拒絶したがために誕生日プレゼントを用意してくれていたのか、それすら知ることもないまま。

 親には「ミュージシャンになる」と言ったけれど、はたしてそれは明確な理由に当たるのかは未だにわかりません。

 姉は冥王星人ですから、きまって地球人とは一線を画しておりました。比べられても苦ではなかったし、姉の凄さを知らしめるものさしとしての僕を恥じたことはありません。それほど才能に溢れており、憧れでした。

 ミュージシャンを志したのは、僕自身にも何かを見出したかったからなのです。なれるとも、なれないとも思っており、自分のことながらふらついた考えでした。

 それでもどうにか変わらなければいけなかった。そうでないとつまらない僕は永遠に捨てられないし、変われない。追い詰めることで格好良くなれるような気もしました。

 しかしいつまでも空のギターケースが、僕は僕以上のものにはなれないと教えてくれました。うつむくあなただけがライブに来て、あなただけがチップをくれる日々は、ボクノヘヤの僕が永遠にコールドスリープをしているだけなのです。

 予定通りに曲は生まれないし、頭のおかしい通りすがりに怒鳴られる日もある。それらにやきもきしながらも、冥王星人の存在を遠くに感じると安心できました。

 昔から姉に憧れていたくせに、その背が離れれば離れるほど嬉しかったのです。あの人は違う生きものなのだと思うと、楽になれました。

 そんな僕の身勝手な願望に反して、姉は地球へ寄り添おうとするのでした。つま先で地面を掠めては着地を見定めている。あれだけ遠くにいた姉は、人並み外れた秀才をもって、あろうことかこの星を選んだのです。

 きっと宇宙飛行士にもなれたのに。神さまがたっぷりと浸けおいた才能と人格があるというのに。

 どこまでも高く、高く昇れたはずなのに。

 本来はもう、故郷にまで帰れていたかもしれません。大衆を魅了するカリスマ、なんて泡を掴むような概念すら味方につけてまで。

 いつの日か姉には怒りが湧き、嫉妬に肌が焼けてひりついていました。

 飛んでいけない理由があったのでしょうか? そんな疑問は幾度も浮かびましたが、ギターコードの下に握り、潰しつづけました。

 姉はサンタクロースではない。ことあるごとに唱えているくせして、わがままな不安がシチューの下からぼこぼこと這いあがってくるのです。

 姉が「宇宙人じゃないんだよ」と言ってくれるのをどこかで期待していました。この訳のわからない不安にピリオドを打てるのは、たったそれだけだと。

 東京へ逃げてきた僕の目に映った地球は、痛みが多い。人は平気で金を返さないし、待ち合わせには来ないし、連絡先は嘘でした。

 約束なんてなんの役にも立たない。

 姉はそれを気づいていたのでしょうか。東京は冥王星に似ているらしいから。

 そのような素振りは一度たりとも見たことがないので、知らないでしょうね。たとい彼女が痛みに見舞われても、冥王星人ならわからないのかもしれない。

 だからこそ姉にはそうであってほしいのでした。

 数週間後にはクリスマスですね。

 よい子ではない僕のもとへは、二度とサンタクロースは訪れないでしょう。訪れるべきではない。僕は冥王星にかぶれただけの、落ちこぼれた地球人なのです。

 今年のクリスマスはいつもどおり迎え、明けたら冷たい枕元を労るつもりです。

 それから、実家へ帰る予定です。東京はもう充分です。新しいアルバイトのように何度も頭を下げることになるでしょうが、それくらいはしなければなりません。

「冥王星人はいない」は、誰にも頼らず自分で言い聞かせます。せめてそれくらいはできるようにならないといけません。

 大人になるって、きっとそういうことなのです。これまでありがとうございました。



 ちいさな箱が、忙しなく横切る中年につぶされてしまいそうだった。赤子みたく抱えながら、トイレを貸してくれないコンビニの前を通り、路地に入る。不安になるほど古い木造アパート。

 呼び鈴を押すと乱暴に破ったような音がする。扉越しに足音が近づいて、止まる。きっと覗かれている。耳の奥をベルが過ぎて「どちらさまですか」と、か弱く問いかけられる。

「冥王星から。プレゼントのお届けです」

 ケーキを差し出してみる。かすかな物音とともに、扉が薄く開いた。パンプスの先でこじ開けると、ルーズリーフなんかではない嗚咽を漏らす、すっかり大きくなった背中が丸まっていた。なにかを守るために身を挺しているようにも見える。

「入っていい?」

 顔を覗き込むと、彼は口元をむずがゆそうに動かして、小さくうなずいた。目のふちで星が流れていった。

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