第2話 彼女


 大学の研究室から派遣されたという助手、ニーナがわたしたちの家にやってきたのは、三日ほど続いた長雨の上った午後のことだった。


「はじめまして、今日からお父様の研究をお手伝いさせていただくニーナよ。……あなたがシーラね?」


 エキゾチックな眼差しでわたしを見つめるそのひとは、わたしの心を不穏な予感で波立たせた。パパはニーナのために空いている部屋を寝室に改造し、その日から彼女はわたしたちの静かな暮らしに羽音のようなノイズとなって紛れ込んで来たのだった。


 わたしはパパが下にいて、ニーナがリビングに一人でいる時のニーナと『アイビィ』の漏れ聞こえる会話を一度ならず聞いてしまったことがある。


 ――これはやめたほうがいいわね。先生はきっとこんなもの、好きじゃないわ。


 わたしは頭に血が上りそうになった。クロックムッシュとフルーツの朝食。それはわたしがパパの好みを調べて一生懸命生みだしたメニューだった。実際にこしらえるのはほとんど『アイビィ』だけど、パパはいつも「シーラは天才かもしれないね」と言ってくれ、たとえその言葉がお世辞でもわたしは有頂天になっていたのだ。


 それ意外にもニーナは食器やカーテンを換えさせたり、ちょっとした家具の配置から掃除の仕方まで『アイビィ』を『再教育』し手なづけていった。


 ニーナが来てからほどなく、パパはいつしかわたしが吐き気を催すようなガウンを着て、飲まなかったお酒まで飲むようになっていった。


 ある日の午前中、パパがまだ寝ている時にわたしは思いきってニーナに告げた。


「あの、朝食のメニューや家具の場所を勝手に変えるの、やめてもらえませんか」


「あらどうして?ずいぶん、居心地のいい家になったと思うけど。それにゴードン博士の血色もよくなって表情も生き生きしてきたと思わない?」


 誰が思うもんか、とわたしは心の中で拳を握りしめた。自分の立ち場を思い知らせるために切りだしたと言うのに、気がつくとわたしはニーナにやり込められ小さくなっていた。


 ――あんな人はこの家にはいらない。どうしてパパはあの女を追いださないのだろう。


 わたしは最近、家の近くで知り合ったチャーリィに相談した。チャーリィは「仲間を連れてくるよ」と言った。会ったことはないが、チャーリィにはびっくりするほどたくさんの遊び仲間がいるらしい。


 わたしがチャーリィに相談してから数日後、ニーナはわたしたちの家から突然、姿を消した。パパは狼狽え、ニーナの名を呼びながらあちこち探しまわった。一昼夜経ってもニーナは戻ってこず、パパはリビングで頭を抱えながらわたしに「困ったことになった」と気弱な口調で漏らした。


 その後、数日経ってもやはりニーナは戻ってこなかったが、なぜかパパは警察に通報することはせず、難しい顔で何かを考え込んでいた。


 チャーリィがニーナを家から遠ざけるためにどんな策を実行に移したのか、わたしは知らないし、聞いても教えてはくれないだろう。とにかくわたしはニーナがこの家からいなくなりさえすれば、それでいいのだった。

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