第9話 その本
私はその本を読んだ。
その本はラブストーリーだと感じた。
私がまだ幼かった頃、好きな本があった。
それは幼い私が読むには少々マセた本で難解な表現や漢字が多く、読破した後も頭にしこりを残した。
幼いながらも文章の脈絡から男女の爽やかな暖かな恋路を感じ取り、私にもこの様な転機が訪れるのだろうかと夢想した。
私は辞書を片手にその小説に書いてある言葉を調べ尽くした。
私はその本を読んだ。
その本は悲しい話だと感じた。
遠回しに伝わる死を私は読み取れていなかった。
理解出来た言葉は未だ半数に満たなかった。
言葉というものは時代によって明日にでも意味が変わってしまう。
辞書に書いてある本質的な意味は残しつつも、それは科学用語や軍事用語や慣習的な言葉に変換されていく。
その様を全て網羅する辞書は私の手元には無かったのだ。
私はその本を読んだ。
その本はSFだと感じた。
私はフィクションにおける死を現実の死と同等に考えていた。
表現の架け橋として利用される死を受け止める為に私は死を読み飛ばしていたのかも知れない。
その為、見たことも聞いたこともない兵器が飛び交うこの作品をSFと形容できることに気が付かなかった。
私はその本を読んだ。
その本は戦争だと感じた。
見たことも聞いたこともない兵器は現実に存在した。
辺りは焼け野原で右手の感覚がないことに気づいた。
あの炸裂した太陽の様なものが町を一瞬にして溶かすことなど、現実に存在すると思ってはいなかったのだ。
私はその本を閉じた。
片手でページをめくるのが億劫になった。
あの出来事を記載してある本など読みたくなかった。
私は長い間、本に触れることなく生活したが、そのお陰か世間と久しぶりに触れ合うこととなり、世界とはここまで私とズレているものかと感じた。
皆、戦争の原因は心の通わなかったせいだと言っている。
戦争とは食料や土地を巡り起こるものだ。
そのような物理的なインシデントを無視し、精神的な事物に原因を求める様子は、私にとっては奇妙だった。
とにかく世間はあの戦争から「兵器の廃止!」という具体的なものではなく、
「心を通わせよう」という普遍的で抽象的な現代思想を生み出した。
未だに残る世間とのズレに一抹の不安を胸に抱える私。
そんな事とはお構い無しに世界は戦争の復興から驚くべき技術を作り出した。
携帯電話と呼ばれるものだ。
私はこれに初めて触れた時にじわじわとした衝撃を感じた。
電話は昔からあったものの、小さなテレビ画面で文字をやり取りする機能もあるのだ!
全く遠くの人間と!
文字をやり取りする人間が増えるにつれて私はその実感を多くしていった。
世界は復興の勢いそのまま、忙しく皆働いた。
働けば働くほど無尽蔵に金を稼げる時代が到来し、若者共は再生していく町を見て誇らしく思った。
世界の経済は順調に持ち直し、皆仕事で忙しい様子だ。
と私は街のはずれで眺めていた。
右手を失った私は成長した社会から弾かれた。
だから皆を客観的に観察できた。
世界の娯楽はわかりやすいものに支配されていた。
性や薬、瞬時に消化できる快楽こそ、忙しいこの世界での息抜きだ。
小説や映画は、楽しむのに、つまり快楽を得るのに時間がかかるという理由であろう、当然のごとく衰退していった。
小説家は少年少女のなりたい職業ランキングのカースト1位だった。
ベスト1位は親と同じ職業だった。
この時代の人間はとても忙しい、なまじそれを忘れさせる瞬間的な快楽が多いから厄介だ。
皆思考をしたくなかった。
携帯電話の入力でさえ面倒臭くなり、「了解」を「りょ」、際ては「r」とまで略し始めたのだ。
その時、世界は更に画期的な発明をした。
サイコリンカーだ。
これは文字通り、電子機器と思考を繋げて操作のサポートを出来ると言う代物だ。
初めは文字入力の予測変換を高度なクオリティにしたり、広告の精度を上げる程度に扱われていた。
しかし技術は発展し、遂に相手に思考を送ることにまで成功した。
思考は送りたい内容を強く念じることで、サイコリンカーを脳に移植したもの同士でやり取りができる。
使用者はメッセージを送る際にこう叫ぶ。
「A!」
これは言わば話しかける際の掛け声だ。
「やあ!」と言ったような挨拶、
「そこの君!」と言ったような『指摘』を意味する。
これらは余計な思考を送らないように瞬間的に思考を整理、集中させたり、ある程度の会話のジャンルを相手に伝える役割も持っている。
なので他にも、
「B?」
などの疑問を投げかける際の掛け声や、
「C」
などのヘルプを意味する掛け声もある。
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