第125話「草原の国」
視点:3人称
彼女にとってその日は、何の変哲もない1日になる、はずだった。
むしろちょっとした祝い事で、大人たちは奮発して家畜の山羊を肉にしていたし、彼女もその中に混じり、血のつながらない姉妹たちと談笑しては、間もなくありつける御馳走に、わくわくと心を浮き立たせていた。
だが、彼女がその豪勢な夕食を口にすることは叶わなかった。
それは突然のことだった。
災禍が、化け物の顔をして彼女たちに襲い掛かったのだ。
ドドドと、腹に響く馬蹄の音。金属がガチャガチャと耳障りにこすれる音。獣のような醜い歓声。興奮した呼吸音と、風を切る何か。
大人たちも姉妹たちも、泣き叫んでは逃げまどった。
あとから冷静に思い返せば、やってきたのは人間の、武装した男たちだった。
けれど、まだ少女と言っていい年齢だった彼女には、仮にも同族であるニンゲンに向けて、金属の塊を振りかぶり、振り下ろし、筆舌に尽くしがたい色と匂いに塗れていく存在が、とてもじゃないが理解できる気がしなかった。
あれはバケモノだ。
災厄だ。
彼女は逃げた。
何を置いてもひた走った。
途中までは姉妹たちも一緒だったはずだが、彼女が正気に戻った頃には、周囲には1人としていなかった。
彼女はただひとり、生き残ってしまったのだ。
彼女は元々、拾われ子だった。
少なくとも、物心ついた頃には両親と名乗る存在は周囲におらず、複数の大人たちに代わる代わる世話をされる日々だった。
仲間たち、姉妹たちの半分ほどがそうだった。
そして、様々な理由で身寄りのなかった子供たちを引き取り、養育していた大人たちもまた、半分ほどは同じような過去があった。
子供も含め、40人に満たないその集団は、小規模な芸人一座の態をして、国の辺縁を確かな寄る辺もなく巡っていた。
それぞれ身一つで稼いでは各地を転々とし、確かな財産と呼べるものは、家畜の山羊と移動式住居の建材のみ。
ちなみに彼らの母体は、その昔、勃興したばかりのイスタニアに隣接していた小国の民だ。
ただし、国とは名ばかりの、草原に薄く拡がった緩やかな遊牧民の集合体だった。親戚規模で共に生活し、家畜を引き連れ移動していく。
婚姻や放牧地の割り振り、時には争いごとの調停などは、定期的な族長たちの話し合いで取り決められ、ごく平和的に解決される。
優れた身体能力や視力、乗馬技術や狩りの腕など、突出した技も持ちながら、彼らの信仰する神の教えに従い、終始、慎ましやかな生活をしていたというその民族は、しかし。
やがて拡大するイスタニアに土地を追われ、当時でさえ見る影もないほどに数を減らしてしまっていた。
時に迫害を受けながら、社会の底辺へと追われながら、それでも捨て子や流れ者を取り込みつつ、かつての暮らしの片鱗を残し、イスタニア北部で細々と血を繋いできた集団。
それが、彼女を拾い育てた人々の、残り半分だった。
実際、ほとんど固有の血も薄まってはいたが、彼らの中には赤毛や彫りの深い顔立ち、長身の者が多かった。彼女もまた近い特徴を持っていたあたり、拾われ子とはいえ、どこかで血は継いでいたのかもしれない。
逆を言えば、だからこそ仲間たちに引き取られたのか。はたまた、両親に何か事情があったのか。もはや彼女には知る由もないが。
それでも。
貧しくとも、楽しく穏やかな日常がそこにあった。
山羊の世話をしては乳を得て、乳製品にして街に卸す。
夜な夜な焚火を囲んでは、姉たちから踊りや歌を習い覚え。時に精一杯の趣向を凝らしては、客の前で披露する。
特に彼女は歌と踊りが好きだった。
初めて芸人として立った時には緊張でどうにかなりそうだった。それでも、夢中になって歌い踊った。
練習では息ひとつあがらなかったのに、野ざらしの粗末な舞台上では、頬が上気し、酸素が不足し、お客の様子も記憶に残らないほど、無我夢中で踊った。
腕に巻いた装身具がしゃなりと音をたて、踏み均す足でリズムを刻み、手を打ち鳴らして声を上げる。
謳ったのは愛の歌だ。
あいにく彼女は恋を知らなかったけれど、毎日を共に過ごす家族たちへの愛は知っていた。あるいは、かつてあったという草原の国、夜ごとに語られる幻の故国へ思いを馳せて、愛を謳った。
きっと拙い、無邪気な歌だったろう。
それでも、彼女の精一杯の心を込めた。
身体のすべてで表現した。
そうして。
彼女がその全てをやり切った時。
ワァッ!!という、音が、壁になって迫るような衝撃を受けた。
歓声だった。
彼女の一芸に魅せられた観客たちが、何の装飾もない道端の舞台に向けて、手の千切れるような力強い拍手と、思いつく限りの称賛の言葉と、そして、端金(はしたがね)を投げていた。
それは麻薬のような光景だった。
年端もいかない彼女を、大の大人が喜色を浮かべて誉めそやす。
身一つ以外、何も持たない少女が放った質量も何もない歌と踊りという無形の対象へ、その場にいる限りの人間が、対価として、賞賛の証として、有形の金銭を投げてくる。
彼女が、芸の道に魅せられた瞬間だった。
この時の、彼女が感じた衝撃を想像できるだろうか。
無から有を生み出すが如き、特別な手段。
それが彼女にとっての芸だ。
この世界には魔力というモノがあり、時に何もないところから火や水や、物質が生じるのもよくあること。だが、その力を扱えるのは選ばれたごく一部。
そんな特別な力に匹敵するのが、彼女にとっての歌や踊りだったのだ。
打ち震えるような感動と興奮。
何もこの手にないと思っていたのに、大そうなモノを与えられたと錯覚する心地。
社会の最下層たる、決して楽ではない暮らしだったが。
しかし彼女には、確かな芸能の才と、同じように芸に魅せられ、切磋琢磨し、得られた糧を分かち合い、衣食住を共にする、かけがえのない家族が、半身たちがいた。
このまま何十年と、代わり映えのない、何の変哲もない、平坦だが小さな幸せにあふれた日常を過ごしていくのだろうと、なんの疑問もなく思っていたのだ。
だが、そんな彼女の日常は、突如として無くなった。
文字通り、何一つとして残らなかったのだ。
以来、彼女は何事も頼りにしないことにした。
形有るものはいつか壊れる。
どんなに心通じた輩(ともがら)も、一度別れれば死んだものと考える。
頼りにするのは自らの才のみ。
どんな苦渋を舐めようとも、舞台に立って称賛を浴びればすべてがどうでもいい。
下卑た視線も、侮蔑の言葉も。
全て己の才覚でねじ伏せた。
ひたすら自分の価値を高め続けた。
機知に富んだ会話、異性を惹きつける肢体、計算しつくした微笑。
そうして彼女は生き抜いてきた。
何もかもを失ったあの日から、身に着けた芸を戦場の名乗りに、必死になって培った情報と知力を鎧と剣にして。
圧倒的に性別がモノを言うお上品な世界まで這い上がり、彼女は、今の地位を築いている。
もはや、彼女のかつての姿を知る者はほとんどいない。
物乞い同然な襤褸を着て、憐憫を誘い、糧を得た。売れるモノはなんでも金にし、偶然手にしたわずかな可能性に全てを賭けた。
幼いころ、共に家族として育った、仲間たち、姉妹たちの弔いなどできるはずもなく。むしろ、ほとんどの日々を忘れて過ごした。
もう既に声も顔も覚えておらず、呼び名さえおぼろげに浮かぶ程度。
何しろ、共に生きた年月の、その何倍もの時間が経過している。
あの日、彼女の全てが壊された日。
彼女は近くにいた家族の手を引くでもなく、助け合うでもなく、姉妹たちが倒れようと、気づきもせずに駆け続けた。
きっと、姉妹たちは手を伸ばしただろう。
彼女の名を呼んだのだろう。
そのすべてを背後にして、彼女はひとり、逃げたのだ。
元より弔う資格もない。
彼女は――ジルベスタ一座の座長カタリナは、言った。
「――言葉にすれば、復讐とでも言えばいいのかね」
わざわざアルフレッドたちを身内に引き込み、イスタニアの情報を流す、そのリスクを冒す動機を問いかけた宵闇への、返答がこれだった。
かつて辺境を
彼女の人生の概要が、語られた後の事だった。
カタリナは、綺麗な笑みの中に苦笑を加えて肩を竦める。
「まぁ、ただの自己満足だが。……何しろ、時間が経ちすぎてるし、対象も曖昧だ。あんたはどうすべきだと思う? アタシは何にこの感情を向ければいい?」
元より答えを求めた問いではない。
彼女は自嘲して言った。
「直接殺した奴らを探せばいいのかい? 顔も覚えちゃいないのに。なら命じた人間を、指揮官を、イスタニア王を殺せばいいのかい? 当然、誰が指揮官だったか知りゃしないし、当時の王は数年前に死んだねぇ」
「なら今の国王かい? 確かに殺せれば喜ぶ奴もいるだろうが、もはやそこまでいくと縁が遠すぎて殺す気も起きないねぇ。そもそも、そうすることで、死んだ姉さんたち、妹たちが返ってくるわけでもない。死人は死人だ」
「……」
幾分、沈黙したカタリナは、やがて言う。
「――それでも、何かは、してやりたいじゃないか」
そう言ったカタリナの表情は凪いでいた。
仮にも復讐と表現したにしては、温度の感じられない顔だった。
何を返せるはずもなく、宵闇もアルフレッドも先を待つ。
次いでカタリナは、ふと、表情を緩めて口にした。
「まぁ、アタシはアタシのしたいようにするだけさ。惨めにしょぼくれるよりか、女として咲き誇ってやるほうが何倍もいい。芸を磨いて魅せるのも、男を転がすのも、アタシが楽しく生きるのに必要な手段。そのついでにオマケで儲ける、それだけだよ」
そして、鮮やかな微笑をその顔に被せて彼女は言った。
「だからそう。結局のところ、これはただの気まぐれなのさ。……わかったかい?」
既に告げていた言い訳を再度繰り返し。
そうして首を傾げる彼女はもう、百戦錬磨の女傑だった。
第125話「草原の国」
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