幕間
第12話「変化の予兆」
あの瞬間の
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オルシニア王国、雄爵筆頭とも評される青年の居室。
その整理されながらも雑然とした室内において、大きな黒い獣――いや、魔物が、悠然と伸びていた。
ちなみに、室内では靴を脱ぐ、なんて文化は当然この国にはないため、魔物は必ず床ではなくソファの上でくつろごうとする。
決して安くはないだろうその大きな座面に横たわり、頭はひじ掛けに、少し余る前脚、後脚は半ば座面の外へと投げ出された姿勢。
まさに、日向でまどろむネコ科動物も同然。
ただ、その姿は
全身を覆うのは黒く豊かな体毛で、そこに鮮やかな銀色の縞が走る。腹や首回り、顔の一部には白い毛も混じっているが、全体としては圧倒的に真っ黒だ。
ちなみに、今は閉じているがその双眸は煌めくような銀。
もしこんな生物が自然界に――しかもトラという生物の一部が本来住む、雪深い地域にいたとしたら、すぐに悪目立ちしてしまうだろう。
まあ、大概の場合、
それはまた、別の話。
何しろ、この室内で呑気に昼寝と洒落こんでいる彼は、そんな生存競争とは全く無縁の存在なのだ。
だからこそ、無防備にも見える状態で瞳を閉じ、まるで動物園で飼いならされたトラのようにリラックスする、なんてことができている。
だが、その本質は
何しろ“彼”は、基本的に怒りといった剥き出しの心情を見せることなどほとんどないし、あるいは、あっさりとその激情をしまい込むことができる性格だ。
しかし、それは裏を返せば、心の内をほとんど他人に見せていないと言ってもいい。
また、そんな彼が必要だと判断すれば、その他の些事を捨て置いて、彼自身が取りたいモノだけを傲然と取りに行く、そんな思い切りの良さもある。
巧妙に外面が繕われているだけに大概の他人は気づかないが、深く付き合おうとすればするほど、わりとすぐにバレてしまう程度には明らかだ。
間違っても一筋縄ではいかない厄介な性情。
それが彼の、確かな一面だ。
一方、そんな様子を、少し窮屈そうだなと漠然と思いながら眺めている者が1人。
鮮やかな金髪に翠の瞳、
魔物が占領しているソファの向かい、ひとり掛けの椅子に座り、肘掛けに片肘を突いた彼は、茫洋とした眼差しでその姿を眺めている。
ちなみに、彼があわや命の危機に陥ったのは、まだ昨日のことだった。
「……」
青年は、何を想っているのか黒い魔物から視線を外さない。
その翡翠の双眸は静かに目の前の存在を観察していた。
ゆっくりと上下に動くその腹は、ありもしないはずの呼吸の動きを再現し、ふいにぱたりと揺れる尾や微細に動く目蓋は、魔物が何かしらの夢を見ていることを想起させる。
なんとも生物的なことだった。
そもそも、眠る、という行為自体がそうだろう。
何かと命の危険があり、浅く短くしか眠れない青年――アルフレッドの方が、よほどこの魔物よりも睡眠とは縁遠い気さえする。
付け加えれば、他人がこんな至近距離にいる状況で、青年ならこんな無防備な姿を晒せない。神経が無意識に張り詰めてしまい、全く眠気がこなくなるのだ。
それは眠っている間に傍に寄られても同じこと。
数秒もかからず飛び起きて、臨戦態勢に入ってしまう。
人より高い魔力が発現し、雄爵に叙されてより10年と少し。
思春期の全てをそんな殺伐とした環境で過ごさざるを得なかった彼にとって、心からの安眠というのは、もう記憶の彼方と言っても良かった。
ただし、それも
「……はぁ」
溜息と共に、青年の翠の瞳がゆっくりと逸れた。
その視線は室内の調度を見るともなしに見つめ始め、特に意味もなく、壁際の棚、寝室へと続く扉、書き物机、そこにずらりと重ねられた書籍、そういった物へと移っていく。
――だが。
やがて、自然と戻ってきてしまうのだ。
「……。……っ」
彼自身も無意識に、再び目の前で眠る黒い魔物を眺めていたことにハッと気づき、瞠目する。
次いでアルフレッドは、苦々しくも何かを堪えるような表情で、呟いた。
「本当に、なぜ――」
だが、言葉が続いたのはそこまでだ。あとは、少しでも音にするのさえ恐れるように、アルフレッドは唇をぐっと引き結ぶ。
「ハ……」
そのまま俯き、短く息を吐いて数秒。
もう一度、その秀麗な面を上げた時にそこにあったのは――、ある種の諦めと、何とも言えない微笑を混ぜ合わせた、複雑な表情だった。
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風が、吹いていた。
そのただ中で、男がひとり立ち尽くしている。
黄みを帯びた不思議な色合いの白髪は後ろで束ねられ、同じ色合いの瞳が、風の吹いてくるはるか先を見透かすように見つめていた。
服装だけを見れば、彼は農民にしか見えなかった。しかし、眼差しには外見にそぐわぬ思慮深い雰囲気を漂わせ、その容姿も整っている。
そんな一種独特な雰囲気の男のもとへ、畑から歩いてきた女が声をかけた。
「ハク、もう中に戻りましょう?」
「……ああ」
だが、男は何かに気を取られているようで、相変わらず目に見えないはずの遠くを見つめ続ける。
「どうかしたの?」
「……」
傍らに近づいてきた女に問われ、男が初めて視線をそちらに向けた。
「……
その返答に、女は瞬時に顔を顰めて言った。
「あらやだ。嵐でも来るの? 麓にも知らせに行く?」
そうして俄かに浮足立つ女に向かい、男は静かに首を振る。
「そうではない。……その嵐ではない」
判然としない男の言に、女は苛立つでもなく言葉を返す。
「そう……。でも“嵐”はくるのね」
「ああ。きっと」
思わせぶりな言葉に女は一瞬にして顔を曇らせたが、しかし男の気づかわしげな視線に、すぐに笑みを浮かべてみせる。
「大丈夫。……その時が来たとしても、私たちには貴方がいるから心配ないわ。そうでしょう?」
「そうだな」
男は気負った様子もなく、頷く。
「その命、これまで通り、私が必ず守ってやる」
そう言って男は再び、何かを見晴るかすような視線を空へと向けた。
第12話「変化の予兆」
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