第5話 祓魔師シモン、酒場にて詩人の歌を聴く
「え、ヤバ」
武器屋のおっちゃんに教えてもらった酒場には、とんでもない人だかりが出来ていた。
こぢんまりとした二階建ての店の前に隙間なく並ぶ分厚い人垣が、道路にまであふれ出し両隣の建物を呑み込みかけている。
コレもう繁盛とか言う領域じゃないぞオイ。
呆れと感心を混じえつつ、オレ――シモンは野次馬の隙間を縫って酒場に足を踏み入れた。
「はーい!
店内はまさに満員御礼。テーブルはすべて埋まり、そこからあぶれた客は椅子だけ持ってきて飯を食っているか、壁にもたれて立ち食い。
料理を作っている若いねーちゃんが出来上がった料理をカウンターに並べ、呼ばれた客がそれらを持って行く。
ざっと見まわしたが、どうもねーちゃん以外の従業員はいないらしい。武器屋のおっちゃん曰く『静かに呑める酒場』らしいから、普段はねーちゃん一人で切り盛りしてるんだろう。
さて、店に入った以上は何か頼もうと、カウンターに近づいた時だった。
カラーン、カラーン、――……と澄んだ鐘の音が六回。
教会が鳴らす時の鐘が、
「は? 何?」
突然の事態に困惑していると、二階でキィ、と扉が開く音。
ゆっくりと階段を降りてくる人物を、固唾を飲んで見守る酒場の客に、オレもつられて階段の上を見上げる。
現れたのは、つばの広い帽子を目深に被った、若い男だった。
白のシャツとズボンの上から浅葱色のチュニック、足元は革のブーツという、どこにでもあるような質素な服。
オレより少し上背があるものの、身体つきと雰囲気に幼さが残る。歳はよくわからないが、ひょっとすると同年代かもしれない。
――コイツが噂の、吟遊詩人か。
階段を降りきった吟遊詩人は、片方の手に椅子、もう片方の手に竪琴を抱えて酒場を見回し、口元に笑みを浮かべる。
「こんにちは。今日もにぎわってますね」
吟遊詩人なだけあって、なるほど魅力的な声だった。
清廉な小川のせせらぎにも似た、少しかすれた透明感のある儚げな声。同じ場所に居るのに、霧の向こうから囁きかけているようにも聞こえる。
吟遊詩人がその場から足を踏み出すと、前に居た客たちが一斉に道を開ける。詩人は悠々と開けられた道を歩き、酒場の中央に椅子を置いて座った。
「皆さん、朝のお仕事お疲れ様でした。この歌が、
前口上をさっさと切り上げた詩人は、抱えていた竪琴を両脚に置き、ゆっくり、深く、息を吐いていく。
息遣い一つ聞こえない完全な沈黙の中で、詩人の指が弦に添えられる。
そして詩人の指が竪琴の上をなぞった瞬間。
「い゛っ!?」
オレの首筋の裏に鋭い痛みが走ったかと思うと――酒場の床が、一面の草原に変わった。
「は、えっ……はあっ!?」
見間違いでも何でもない。吟遊詩人の男が竪琴を引き始めた途端に、酒場の床が一面の草原と化した。
突然起こった規格外の現象に、左手で首の後ろを抑えたまま、腰に差した
その間にも前奏は進み、酒場の景色はドンドン変わっていく。
竪琴の音色に合わせて生い茂った木々が酒場の壁を覆い尽くし、床からは清い泉が湧き、小鳥のさえずりと共に風が木の葉を巻き上げる。
いつの間にか客の姿は消え、オレと吟遊詩人だけが豊かな森の真ん中に泉を挟んで佇んでいた。
前奏が終わり、歌が始まる。
「♪西の楽園の森の奥 泉の精霊の名を『恵みのリュエル』」
魂が吸い込まれる様な歌声だった。男とも女とも違う中性的な歌声が、竪琴の調べと溶け合って、耳だけじゃなく全身から体の中を震わせてくる。
「♪古より寄り添う我らの恵み 草木も 花も 鳥も 獣も あまねく命に寄り添うリュエルの恵み」
詩人が歌っているのは、『精霊歌』と呼ばれる種類の曲だ。
地方の教会では子どもたちと歴史の勉強をする時に一緒に歌うので、自分が生まれた地方の曲を覚えている人間は多い。
――でも、今はそんな事はどうでもいい。
「♪恵みは巡る 草木に 花に リュエルは恵む 鳥に 獣に」
詩人の歌に合わせて、泉から水の身体を持った美しい乙女が現れる。
乙女が両手で掬った泉の水を地面へ注げば、草原が見る間に色とりどりの花畑へと変わった。鳥や獣が泉の周りに集い、思い思いにくつろいでいる。
「♪空もまた巡る 雲から雨へ 風もまた巡る 雨から嵐へ」
竪琴が不穏な調べを奏でるにつれて、晴れわたる青空を雲が覆い、雨が降り始めた。
鳥も獣も森の奥へと逃げ、乙女もいつの間にか姿を消している。雷が轟き、風が吹きすさぶ。泉もすっかり濁りきってしまった。
「♪荒れ狂う空にその身が晒されようとも 泉にその姿が映らなくなろうとも
♪我らの恵みは 我らの身にこそ宿り リュエルこそは不滅の友なり」
嵐の中、詩人は高らかに歌う。
どんな苦難が訪れようと、それまで受けた精霊の恵みはなくならない。
たとえ姿が見えずとも、精霊の恵みは常に自分たちと共にあると。
そして激しい旋律が不意に穏やかな調べに変わり、詩人の唇は囁くように歌を紡ぐ。
「♪嵐は去り 雨は止み 雲は晴れ 光は全てを照らし出す 草木を 花を 鳥を 獣を」
静かな歌声が徐々に力強いものへと変わっていく。竪琴の音は幾重にも重なり合い、苦難を耐え抜いた生き物たちの喜びが五感を突き抜ける。
そして雲の切れ間から一条の光が泉に向かって差し込むと、光の中から泉の乙女が再び姿を現した。
「♪西の楽園の森の奥 泉の精霊の名を『恵みのリュエル』
♪古より寄り添う我らの恵み あまねく命に寄り添うリュエルの恵み」
歌の最初に聴いた旋律が、歌の最後に再び奏でられ、柔らかな余韻を残して曲が終わる。
シン……と静まり返った森の中で、オレと詩人の男だけが無言で向き合って――
背後からの歓声に、オレはハッと我に返る。
気付けば森は消え、オレは満員の酒場のカウンター前に立っていた。
酒場中の客と外に詰めかけた野次馬からの喝采が、店内を揺らしていた。料理人のねーちゃんは滂沱の涙を流しながら惜しみない拍手を送っている。
そして鳴りやまぬ拍手の中、詩人の男は立ち上がって帽子を取り、その顔を露わにする。
――神話の世界からそのまま出て来たような男がそこに居た。
亜麻色の艶やかな巻き毛。少し長めの前髪の下には同じ色の細い眉。長いまつ毛に縁どられたのは、秘境の湖畔よりもなお澄みわたる
大きすぎも小さすぎもしない真っ直ぐな鼻と薄桃色の唇が、丸みのある中性的な輪郭のまさにここしかないという位置に収まり、シミ一つない、今まで見たどの女よりも滑らかな
詩人の男の帽子に向けて大量の銅貨が投げ入れられる中、武器屋のおっちゃんの言葉が頭をよぎる。
『悪魔ってのは美男美女ってのが相場じゃねえか?』
「……ハハ、違えねえや」
オレは未だ残る首筋の痺れに確信する。
――あの演奏は、悪魔由来の力だと。
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