第169話 角のない鬼
―――12年前・鬼の領・
”鬼の領”と”武の領”、その狭間に位置する”鬼尾街”はまさに貧民窟そのものだった。
行き場を失い、本名を名乗ることすら許されない鬼族達が居住している荒れ果てた町だ。
この町では強い者だけが奪うことを許され、奪われるのは弱い者たちだけである。
ここまで簡単に言葉で表すのに、単純な摂理はないだろう。
人に限らず、動物とは太古からそういう生き方をして進化してきたのだ。
過酷な環境こそ自分らを強くする。
城の下でのうのうと平和を謳歌する鬼とは根本的に違うのだと、この町の鬼たちは自分たちに言い聞かせながら手段を選ばず、他人を傷つけながら生に執着した。
ただし弱い者が生き抜くための方法が一つだけある。
それは、強い者の下に付くことだ。
「―――今月の分もよく間に合わせたな、二人とも」
左目に黒い眼帯をつけた男の鬼が銀貨を数え切ると、二人の兄弟に対してニコリと穏やかに笑ってみせた。
片方の気の強そうな少年には鬼の特徴である角が生えていたが、もう片方の気の弱そうな少年には生えていなかった。
二人を取り囲んでいる屈強な鬼族たちでさえ生えているというのに、彼だけ角がないのだ。
「いつも通り、お前ら二人の面倒を見てやる。小屋を引き続き家代わりに使っても良いし、飯だって用意してやる」
「当たり前だ。じゃねーと命をかけてまで集めた金が無駄になる」
「あ、兄者……やめて……」
眼帯の男に噛みつくような姿勢を見せる兄を、弟は袖を掴んで止める。
兄はバツの悪そうな顔をしながらも弟の手を引いて、その場から離れようとする。
そんな二人と入れ替わるように後ろに並んでいた別の鬼が、眼帯の男の前で崩れるように膝をつけて、地面に頭を擦り付けた。
「すまねぇ、アマノ! 足を痛めていたせいで、今月はこれぐらいしか用意できなかったんだ! 頼む! 今月だけ見逃してくれ! 次こそはちゃんと払うからよ!」
彼は、眼帯の男に許しを乞うていた。
大の大人とは思えないほど、惨めに泣きながらだ。
”アマノ”と呼ばれた眼帯の男は差し出された袋から、先ほど兄弟に渡された金額の半分にも満たない金銭を目にして顎を撫でる。
「なるほどな……つまり俺への感謝の気持ちがこれっぽっちしかねぇってことか」
「違う! 守ってもらっているのは事実だし感謝してる! だけど、前回お前がくれた仕事で怪我をして、それで働けなくなって!」
「ふぅん……俺のせいね」
アマノの言葉で、膝をつけていた男の顔が真っ青になる。
「ウチの組の世話になる時に言ったよな。死んでも金を用意してやるって、言ったよなー?」
「あ、あ、ああ……い、言ったさ」
「できもしない約束をして、今月の分の上納金も払えない、俺の信用も裏切ったってわけか。面白ぇーな?」
アマノは男に詰め寄りながら、どれほど失望したかを淡々と伝える。
「ち、違っ……!」
「違かねぇし。もういいや……こいつ殺しといて」
アマノの合図で、周りを取り囲んでいた鬼達が一斉に動き出し、男を滅多刺しにする。
歩き去ろうとした兄弟は、男の断末魔を耳にして足を止めて振り返るが、声はすぐに事切れた。
「テメェら兄弟は金さえ払ってれば、こうはならねぇから来月も頑張れよなー」
死体の上に座り、ふたたび穏やかな笑みを作ったアマノは、二人に聞こえるほどの声で言う。
はぐれ鬼と揶揄される鬼たちの住むこの”鬼尾街”を縄張りにする組がいる。
”
組が結成されてから五年、住処を失ってこの町に流れ着いてきた鬼たちの安全を保証する代わりに毎月指定された金額を組に払わなければならないという契約を結ばされる。
払わなければ、たとえ女子供でも殺される。
町から逃げ出すという手もあるが、はぐれ鬼に落ちた者たちを受け入れるような場所なんて”鬼の領”の何処に行ってもここにしかない。
恐怖による支配に等しいものだった。
これが力のない者たちが、強い者たちに守られるための代償だ。
金を払って生きるか払わずに死ぬか、それがこの町のルールである。
弱い者たちの運命を”堕鬼組”が握っているのだ。
二人の兄弟もそうだった。
「人手が足りなきゃ危険な仕事を俺達にやらせて。安全を保証するってのに毎日出される飯がおにぎり一個だけ、病気になっても薬はない」
泥だらけのおにぎりを忌々しそうに見つめながら兄レンは、食べ終えた弟のジークに何も言わずに差し出した。
「俺達の命なんて、アイツらにとってどうでもいいんだ。金にならなきゃ排除される。逃げ出すことすら許されねぇ」
「……ありがとう」
「気にすんな。俺と違ってジークはもっと沢山、飯を食う権利がある。自由にさえなればもっと……」
差し出されたおにぎりを申し訳なさそうに受け取ったジークは、ゆっくりと口に運ぶ。
レンは配給される自分の分のご飯をジークに渡すのはいつものことだった。
「口先だけで理想を語る気はねぇ。いつか、この国を背負って立つぐらい強い男になって、ジークや俺達のような境遇をもつガキ共が腹いっぱい飯が食える国にしてやる」
「……」
角が生えておらず、鬼とは到底呼べないほど弱い自分にとって、すべて持っている兄レンは道標のようなものだった。
くっ付くように背中に隠れて守られてきた。
町の連中に虐められたときも兄のレンに助けられた。
父親に殴られて、母親に殺されかけたときもレンが守ってくれた。
「そろそろ時間か……悪ぃなジーク、仕事に行ってくる。アマノの部下が物資の運搬に必要な人手を数人斬り殺しちまったみたいだから呼び出されちまった」
「あっ……うん。行ってらっしゃい」
”堕鬼組”に渡す今月分の上納金もレンが仕事に行ってくれるから払えたのだ。
ジークも仕事を手伝おうとした時があったが、危険だからとレンに断られて一緒に行ったことがない。
小さな家でできることは何もない。
外出することを許されていなかったが、ただ家で待つことができなかったジークは兄の言いつけを破って、歳の近い友達を作るために外に遊びに出かけたことが何度もあった。
しかし近所の子供達にとって彼は角の生えていない異分子のようなもので、友達を作るどころか危険な目に遭うことが度々あった。
中には大人を呼んで、ジークを取り囲んで暴力を振るう連中もいた。
痣だらけの顔で帰ってきたジークを見たレンはすべて察した顔で何も言わずに家を飛び出して、暴力を振るった子供たちを半殺しにして、大人たちをひとり残らず殺したという出来事も記憶に新しい。
「ねぇ、兄者。僕って一体何者なのかな……」
「あ? ジークはジークだろ?」
いつも通り、レンにおにぎりを差し出されたジークはそれを受け取る代わりに意味の分からない質問を口にする。
「違う、そうじゃないんだ。僕って角が生えてないじゃん……兄者と同じ血が流れているはずなのに、どうして僕だけ他のみんなと違うのかなって」
「おいおい……その話をすんなって随分前に約束しただろ」
「でも、おかしいと思わない? 鬼族の血が流れているのに角が生えていない。なのに僕は人族でもないんだよ!?」
「ジーク以外に角の生えてない鬼族ぐらい他にもいるだろ……」
「そんなの聞いたことがないよ! 町の人たちだって僕を普通の鬼として扱わないんだ! まるで僕だけよそ者のようにイジメてくるんだよ……!」
声を荒げながら咽び泣くジークを目にしたレンは言葉を失う。
弟がこんなに感情を剥き出しにするのが初めてだったからだ。
「自分の身も守れない……僕は兄者のように、夢を見ることさえっ……」
ジークはずっと前から気づいていた。
これからも兄の背中に隠れながら生きていくのは間違っていると、弱いままでいること全部だ。
「僕は、一体何者なんだ……」
「違う、お前は間違っているよ……ジーク」
「じゃあ教えてくれよ! 僕は……!」
レンはゆっくりとジークに近づき、思いっきり頬を殴った。
「周りと違うからって、テメェがテメェを諦めるんじゃねぇよ。角が無ぇぐらいで何者でもないだって……?」
今まで自分に手を上げてきたとがない兄の悲しそうな顔を見て、ジークはようやく我に返る。
兄に言うことではなかったと反省して、謝ろうとしたがレンの次の言葉でジークは心を打たれた。
「何者でもねぇから他とは違うんじゃない。この国の誰よりも
レンは真っ直ぐジークを見つめ、力強い声で告げた。
「―――この町から一緒に出よう。自由になって俺が証明してやる、俺の弟が特別だってことを」
兄弟は”鬼尾街”から出ることを、決意したのだった。
自由になるために。
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