第89話 行かなきゃ
全てが壊され、水に吞まれていく。渇いた国で命を繋ぐ源が、暴力的な力となって王宮を破壊していく。アブルアズは目の前の光景に、現実感を抱けずにいた。
腹の辺りがぬるぬるとして生臭く、口の中に鉄のような味と香りがこみ上げてくる。痛くて苦しいというよりも、ただ不快だった。
何故だ、ずっと上手く行っていたはずだ。女王蜂が目覚めるまで、全ては自分の思い通りであったはず。たったあれだけのことで、一瞬で全てが終わってなるものか。
アブルアズは左肘で床を押し、僅かに体を持ち上げる。前へと伸ばした右腕は、赤黒い液体で染まっていた。ヒビの入った純白の石を汚しながら、彼は床を這って進んでいく。
私は自らが生み出した新しい種族で、新しい国を作るのだ。私の成果を、皆に認めさせるのだ。
轟く濁流の音も王宮が崩壊する音も、彼には聞こえていない。胸の中を満たしていたのは、『何故だ』という疑問と『終わらせてたまるか』という、信念にも似た執念だ。
その念に突き動かされ、彼は床を這いつくばりながら、王宮へ続く階段を上っていく。
『絶対に私の力で、水の蜂の魔術をよみがえらせてみせます!』
頭の中で声が響く。遥か昔の自分が発した、瑞々しい声だった。
そう、初めは水の蜂の魔術をよみがえらせることが目的だった。彼女たちのように自由に水を生み出せるようになれば、多くの人を飢えや渇きから救うことができる。研究者として、これ以上の喜びがあるだろうか。
そうすれば、皆もこの私を認めてくれる。先生も褒めてくれる。
この青々とした感情は、本当に私のものだったのだろうか。甘ったるくて眩しくて嫌悪感しか抱けない。
彼はもう痛みを「痛み」と認識することができず、視界にはもう何も映っていなかった。積み上げてきたものが、体から流れ出す血液と共にダラダラと流れ出していく。
嫌だ、止めろ、と子どものような声が彼の頭で響いた。段差に赤い線を引きながら、それでも彼は長い階段を上りきる。
足音が聞こえてきて、近寄ってきた誰かが微かに彼の名を呼んだ。
「アブルアズ……」
首を必死で持ち上げ、アブルアズは目を見開く。何も見えなかった視界に、鮮やかな赤色が飛び込んできた。
そうだ。あの時もそうだった。
皆が何ならの成果をあげていく中、自分の研究は行き詰まり、師も仲間も彼の下から去ってしまった。激化する争いが研究をする余裕すら奪っていく中、ゴロツキ同然の誰かに言われたのだ『争いを終わらせるための力を作ってはくれまいか』と。
まぁ、その誰かも、とっくにこの世を去ってしまったのだが。
炎の疑似魔術器官は、追い詰められた末のただの思いつきだった。水の力が定着しないのであれば、相反する火の力ならばどうだろうと。
そうして生まれた炎の魔術使いは、何よりも苛烈な輝きでアブルアズの心を満たしたのだ。
「私の……」
必死で真紅に指先を伸ばす。
私は誰にもできなかったことを、やり遂げた。これで皆にも認めてもらえる。新しい種族を生み出した私は、神にも等しい存在だ。
私は落ちこぼれの役立たずなどではない。知らしめ認めさせなければならない、私が生み出した炎の悪魔の力を。
身勝手な言い分と欲求が、怒涛のごとく胸に押し寄せた。
どこで狂ったのか、あるいは初めからおかしかったのか。何もかもを奪っておいて、なんとまぁ見苦しいことだと、誰かの眼差しが突き刺さる。
胸が圧迫され、息ができない。苦しくて、楽になりたいのに、楽になどなれない。誰かに言わせれば、お前に相応しい最期と嘲笑われるだろうか。
ふっと最後に、アブルアズは全身を弛緩させた。
「まぁ今さら、全部どうでもいいことか……」
彼はそれきり、動かなくなってしまった。
つま先に、赤黒く染まった指先が触れている。縋るようにも見える仕草に、アルガンは下を向いたまま茫然と立ち尽くしていた。
床を染め上げる赤色と見開かれた濁った瞳は、もう彼の命が尽きてしまったことを表している。
ずっと止めなければいけないと思っていた、多くの人を不幸にした元凶だ。しかし、こんなあっさり終わってしまうのか。
寂しいわけがない、近い感情は虚しさだろうか。手が届く瞬間に目標を奪われた、そんな腹立たしさにも似た感情がアルガンに押し寄せる。
胸に空いた穴を埋めるように、アルガンは大きく息を吸って止め、両拳を強く握った。
「――行かなきゃ」
王都に来る前、自分はそういう決意をしてきたはずだ。自分のことよりも、ムルやチャッタを助けるために力を使うのだと。
つま先を後ろに引いて、アブルアズの指先から離れた。
「きっと、二人が待ってる」
目に力を込めた。暗く下へと伸びた階段の先に、二人と女王蜂がいるのだという。
二人に出会う前の自分なら、きっとアブルアズを止めた時点で終わりだった。けれど、今はちゃんとその先がある。
膝に力を入れて、前へ一歩踏み出す。
忌むべき自分の力を少しだけ好きになれたのは、みんなのおかげだから。
「行こう」
絞り出すように呟いて、アルガンはまとった影を振り切るように駆け出した。
狭い階段を何段か飛ばしながら駆け下りる。下へ近づくにつれ、前方が不自然なほどに明るくなり、アルガンの耳は風にも似た唸り声を拾う。
出口だと分かり飛び込んだ瞬間、頬にかかる冷たい飛沫と眩しさに思わず目を閉じた。
まだ夜は明けていないのに白い光を帯びた空間で、見たこともないほど大量の水が集まり、巨大な球体を作っている。
その周囲では、大蛇か伝説の竜のように成った水が、身をくねらせて宙を駆けまわっていた。天井はぽっかりと大口を空け、濃紺の夜空を巨大な円で切り取っている。
水の竜たちは首をもたげて牙を剝き、宙を舞う小さな人影に何度も襲いかかっている。人影は見えない足場を駆使しながら必死で腕を振るっているが、飛び散った飛沫に赤い色が混じっているのが見えた。
それが誰であるかに気づき、アルガンは悲鳴のような声を上げる。
「ムル⁉」
「――アルガン⁉」
目線を下げると、ひび割れた床と刺さった瓦礫の隙間からチャッタの顔が見えた。
彼に気を取られていると、頭上から針のような水が降り注いでくる。咄嗟に腕を振るうと、跳ね飛ばした水が床に深々と突き刺さった。ぞくりとアルガンの背中に、冷たいものが走る。
両腕に炎をまとわせて、慌ててチャッタの下へ駆け寄った。多少の怪我はあるようだが、幸い彼は無事である。頭上に作られた見えない障壁が、彼の身を守っていたようである。
「アルガン、良かった。無事だったんだね」
「そんなことより、ムルは大丈夫なのか⁉ それに女王蜂さまが、目覚めたって……」
女王蜂の名を出した途端、チャッタは苦し気に眉を寄せた。握った拳が小刻みに震えている。
「僕の、悪い想像が当たってしまったんだ。女王蜂さまは王都のオアシスの底でずっと、この国の人々が生きていくための水を生み出していたんだ。今まで必死で集めた、水の蜂たちの
「そ、それは」
アルガンはムルの話を思い出し、言葉を詰まらせる。チャッタは視線を上げ、戦っているムルを見つめた。
共に見上げ、目を凝らしたアルガンは息を呑む。水の竜が生まれる先、巨大な水球の中に誰かがいる。蜃気楼のように揺らいでいるが、確かにあれは女性だ。
まさか、あの中心にいるのが女王蜂さまなのだろうか。
「女王蜂さまは、同胞と自分の命を使われた事に絶望して、心を閉ざしてしまった。僕やムルが何度呼びかけても、声は届かなくて……! このままじゃ女王蜂さまは、何もかも諦めて全てを壊してしまう!」
そう言うことか、とアルガンは納得するような気持ちで水球を見上げる。あれは彼女の拒絶の証なのだ。
そして女王蜂は、この国を決して許しはしないだろう。被害は、王宮や王都だけで済むはずがない。
ムルは必死で食らいついているが、圧倒的な力と水の量、何より本気でこちらを傷つけようとしてくる女王蜂と、対話を望んでいる彼とでは目的も違う。
水の竜以外にも、隙あらば別の攻撃が彼に襲ってくる。刃が腕を掠めたのか、ムルの服が切り裂かれ赤い線が走った。
「ムル⁉」
チャッタが悲痛な声で彼の名を呼ぶ。ここまで来て、またムルはボロボロにならなければいけないのか。アルガンの胸に、激しい怒りがこみ上げる。
両腕に宿した炎が勢いを増して、チャッタが驚きで目を剥いたのが分かった。
「アルガン……?」
「届かないなら……俺が届けてやる」
強く歯を食いしばり、巨大な水球の中にいる相手を睨みつける。
こんなことがあってたまるか。どんな想いでムルが、チャッタがここまで来たと思っているんだ。
一際大きな水が鋭利な刃に変化し、ムルへと襲いかかっていくのが見える。
周囲の音に負けじと、アルガンは大声で叫んだ。
「ムル――――っ!!」
両腕を伸ばし、空へ向けて炎の道を作って飛び乗る。駆け上がりながら、両腕を大きく振るった。
爆発音が響き、周囲を白い煙が包んでいく。視界の悪い中、ムルの腕を掴んで迷わず引き寄せた。
「アルガン、ムル⁉」
勢いよく落下してきた二人に、チャッタの悲鳴が響く。アルガンは大きく息を吐くと、衝撃を緩和するために出した足裏の火を消した。
細かい傷だらけのムルが、いつも通りの表情でアルガンを見つめていた。
「アルガン」
「アンタは、ちょっと休んでろ」
ムルを下がらせ一歩前へ出て、アルガンは女王蜂を見上げた。
ムルたちの声が届かないなんて、間違ってる。自分とアイツらは無理だったけど、彼女とムルたちならきっと、まだ間に合うから。
「待ってろよ、俺があの壁、ぶち破ってやる!!」
全身に炎をまとわせて、アルガンは強く吼えた。
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