第88話 届かない

 ムルの針を持つ腕が、ダラリと体の横に垂れ下がる。無理もない。やっとここまで来たのに。

 チャッタは両目に強く力を込めて、女王蜂を見上げた。

「女王蜂さま! 僕たち人間が貴女の、貴女たちの命を使ってしまっていたこと、いくら謝罪しても許してはいただけないでしょう。でも、彼のことだけは」

「黙りなさい」


 有無を言わさず、女王蜂はチャッタの言葉を切り捨てる。目蓋を閉じてもう一度開いた時、彼女の瞳は光を失っていた。そこにあったのは、底のない穴のように空虚な黒色である。


「もう、話すことなどありません」

 女王蜂の右手の中で、水が集まり形を成していく。それは一本の長剣であったが、刀身は針のように細い。彼女は剣の柄を両手で握りしめると、切っ先を天へ掲げる。

 さらなる水がうねり、激しい水音を立てて彼女の刀身へ集まっていく。何度かムルが水を操るのを見てきたが、それとは比べ物にならない力だ。大蛇、いや、おとぎ話に出てくる竜のような体躯がとぐろを巻いて、この空間にある全ての水が女王の下へ集う。

 水を司る女王の名に相応しい、圧倒的で恐怖すら覚える光景であった。


「ムル」

 絶えず震える空間で転ばないよう耐えながら、チャッタはムルの肩に触れる。彼は真っ直ぐ女王蜂を見つめていた。夜空のような瞳がまるで泣いているように光を湛えて、針を握りしめた拳は小刻みに震えている。

「絶対に、伝えないと……。やっと、やっとここまで来たんだ」

「――そうだね」


 チャッタは頷き、背後を振り返った。国王の応急処置を済ませたシルハが、気づかわしげな瞳でこちらを見下ろしている。

「シルハさんは陛下をお願いします。そして王宮……いや、王都のみんなを避難させてください。女王蜂さまの下に水が集まっているのだとしたら、王都は危険です。なるべくここから離れてください」

「勝算があるんだな?」


 眉を潜めてシルハが告げた言葉に、チャッタは一瞬息を詰まらせる。横目で肩越しにムルの背を見つめた。

 勝算なんてあるはずがない。けれど。

「そんなものはありませんよ。けど、僕はムルを信じてますし、見届けるって決めてますから」

 僅かに躊躇する素振りを見せた後、それでもシルハは力強く首肯した。彼には彼のやるべきことがある。


 すると彼の腕の中で、王が僅かに身じろぎをした。薄っすらと目蓋を開け、虚ろな瞳を揺らがせている。

「王宮が……、オアシスが……」

「陛下! 無理をなさらず」

「知らなかったのだ。まさか、こんなことになるなんて……。私はただ、王として国を救おうと」

 か細く弱弱しい声は、幼い子どものようであった。いや、本当に子どものままだったのかもしれない。謀を企てる意志も、それを巡らせる知恵もない。彼はただ、アブルアズにとっての傀儡でしかなかったのだろう。


 チャッタは喉を詰まらせ、拳を握る。憤る気持ちもあるし、この王に怒りをぶつけることもできる。

 しかし今、それを言うべきではない。


「僕は、知らないことがそのまま罪になるとは思いません。僕だって、国から与えられた水に生かされてきた。それが水の蜂の命を使ったものとは知らずに。なら、僕も同罪です。けれど」

 言い淀んだチャッタの言葉の後を続けるように、恐れながらとシルハが口を開く。


「陛下が、初めからそれを知ろうともせず目と耳を塞いできたのなら、今度は陛下の御目で真実を見て、真実に御耳を傾けてください。貴方はこの国の王なのですから」

 王の瞳が大きく見開かれる。虚ろだった瞳に、僅かに光が宿ったようにも見えた。チャッタは驚いて、シルハの顔を見上げる。

 子どもを叱る親のような眼差しで、彼は国王の瞳を見つめていた。

 ふっと力を抜くと、彼は目を伏せる。


「出過ぎた真似をしました。――陛下、しばしご辛抱を」

 シルハは背を向ける寸前、チャッタに視線を向けた。こちらは任せろと言わんばかりの頼もしい視線に、チャッタは無言で頷く。

 シルハはそのまま、抱えた王の体に響かないよう、静かな足取りで駆け出していった。


 金属同士を打ち鳴らしたような音が鳴り響き、チャッタは弾かれたように振り返る。

「ムル⁉︎」

 彼は身を宙に躍らせ、大きく右腕を振るっていた。鳥が群がっているかのように、彼にいくつもの水の塊が襲いかかっている。

 彼は針でそれを防ぎ、宙に作った足場を踏んで飛び上がり、回し蹴りで水を弾き飛ばす。弾き飛ばされ、散った飛沫の一部を左手のひらで掴むと、礫のように指で弾いた。果実を叩き潰したように水が破裂し、ムルの腕に飛び散る。


 再び襲い来る水に、足裏を合わせて蹴り飛ばすと、彼はその反動で後ろに下がり、チャッタの目の前に降り立った。

 まだ戦闘を始めて、それほど時間は経っていないはずだが、ムルは大きく肩で息をしている。黒い髪の毛が湿りを帯びて、黒々とした色味を増していた。


「この空間の『水』は、女王蜂さまの物だ。俺が扱えるのは、俺が元々持っていた水と、僅かに散った滴だけ。規模が違い過ぎる」

 このままじゃ、飲み込まれて取り込まれて終わりだ。そう言いながらムルは、放出された水の槍からチャッタを守るため、壁を作る。

 壁で阻まれた槍が割れ、元の水へと戻っていく。しかし、その際に飛び散った僅かな滴さえも、瞬時に集まり女王蜂の手の中へ戻っていった。


「チャッタは、ここに居てくれ」

 ムルはそう告げると、水で作った障壁をそのままに大きく床を蹴って跳躍した。

 彼は何度も腕を振るい、女王蜂の下へ向かおうとする。しかし、怒涛のように襲いくる水がそれを許さない。


 女王蜂の姿は巨大な水球に覆われて、蜃気楼のように揺らいでいる。言葉の通り壁を作ってしまった彼女の下へ行くには、彼女の攻撃を掻い潜り、あの巨大な水球を破らなければいけないのか。

 それに、彼女が見せた全てを拒絶するような暗い瞳。なんて遠いのだろうか。


「このままじゃ、届かない……!」

 悔しさで唇を嚙みしめる。チャッタにできることは、信じることと、頭を必死で動かすことだけだった。





「な、何事だ……⁉︎」

 交渉に応じてもらうことはできず、アルガンは兵士相手に必死で拳を奮っていた。どこからやってくるのか、次々と増えてくる兵士に辟易しつつも、決して命を取らぬように手加減しながら戦う。肉体的にも精神的にも苦しい戦いは、王宮を襲った揺れで終わりを迎えた。


 揺れに戦いを邪魔されるのはもう何度目だろうかと、始めはのんきに構えていたのだが、今度の揺れは全く様子が異なるものだった。

 大きく縦横に体を揺さぶられ、王宮の壁が歪んでいるかと錯覚するほどである。

 贅を尽くした王宮の天井や壁が、耳障りな音を立てて剥がれ落ちていく。敵も味方も関係なく、誰もが瓦礫から身を守るため、慌てふためき周囲を駆け回った。


「ムル……チャッタ……⁉︎」

 二人に何かあったのではないかと、嫌な予感がアルガンの頭を過ぎる。幸い地震の混乱で出入口への注意が逸れている。

 アルガンは床を蹴って駆け出し、正面玄関から脱出した。何人かの兵士がアルガンの姿に気づき、声を張り上げる。

「待て、貴様! どさくさに紛れて逃げるつもりか⁉︎」

「行かせるか!」


 シルハの部下が敵を止めてくれるが、それでも何人かの兵士はアルガンを追って正面玄関から飛び出してくる。

 一体、この執念はどうなっているのか。アルガンは大きく舌打ちをする。

「馬鹿か、このおじさん! 今は、そんな場合じゃないだろうが⁉︎」

 以前よりも揺れは少なくなったが、それでも振動は続いている。何かが崩れるような音も響いていた。

 どうせ王宮はこの状態なのだ、派手に魔術を使っても構いはしないだろう。アルガンは兵士を足止めしようと、走りながら右手を背後に向ける。


「っ、お前は――」

「うわっ⁉」

 角から飛び出してきた人物に驚き、アルガンは足を止めた。目に飛び込んできた赤色に、心臓が大きく跳ねる。大きく足音を立てて、背後から兵たちが追いついてきた。


「そこにいるのは、シルハか⁉ 早くソイツを取り押さえろ! 大司祭様を襲った賊」

 シルハの腕の中にいる人物を見た途端、兵士たちは一斉に足を止めて目を剥いた。

 両手足をわななかせ、暗い廊下でもその顔色の悪さが伺える。


「へ、陛下⁉︎ なんと、言うことだ……⁉︎」

「シルハ、まさか貴様」

 自分を見つめる瞳に、憎しみが宿ったことが分かったのだろう。

 シルハは怒りで眉を吊り上げ、歯を剥いて激高した。

「この後に及んで、犯人探しか⁉ 誰かに罪を問うよりも陛下の治療、そして王宮、王都にいる民の避難が先ではないのか……⁉︎ 何のための兵だ、陛下を王族を、民を守るための武力だろう⁉」


 頭を殴られるような怒号に、兵士たちは怯んだようだ。一歩足を引き、互いの顔を見ながら視線を泳がせている。

 か細い声がアルガンたちの耳に届く。

「私を刺したのは……大司祭アブルアズである。この者とは何の、関係ない」

「陛下⁉」


 抱きかかえたシルハの腕に、赤黒い染みが広がっている。かなり血を流したのだろう、王の顔は青白い。しかし瞳を必死で見開き、兵士たちを見つめている。

「すぐに、動けるものを集めろ。指揮権はシルハに。民を救え! 王都を守るのだ……!」

 驚いた顔をしていたシルハは、やがて両目を閉じて深々と首を垂れた。


「御意。さあ、――お前は陛下を医者へ。残りの者は、手分けして内朝と外朝を回れ! 後宮ハレムを警備する兵にも声をかけろ! 王宮の外にも危険が及ぶ可能性もある。王都の門を開放し、王都の外へ民を集めるのだ。犠牲者が出る前に、行くぞ!」

 シルハの掛け声に、兵たちは一斉に動き出した。


 茫然としていたアルガンの肩に、痛いくらいの衝撃が襲う。王を別の兵に託したシルハが、アルガンの肩を掴んで声を発した。

「行け。アイツらはきっと、お前の力を必要としている。お前を待っている」

「――分かった」

 場所を教えてくれ。アルガンの言葉に、シルハは深く頷いた。



 大きく揺れる王宮の中を、アルガンはひたすら目的地に向かって走る。まさか、女王蜂が現れたなんて。ムルと彼女たちに憧れていたチャッタの気持ちを思うと、胸が張り裂けそうなくらいに痛む。

 教えられた廊下が、瓦礫に塞がれている箇所もあったが、魔術を使って突破する。口から荒い息が漏れて、鳴らした喉は乾ききっていた。


 早く行かないと。自分は二人の力になると誓ってここまで来たのだから。あの廊下の角を曲がれば、隠し扉が見えてくるはず。

 大きく足を踏み出したアルガンの目に、思いもよらない光景が飛び込んできた。思わず足を止め、愕然とその名を呟く。

「アブルアズ……」

 か細い息をする憎き相手が、体の下に赤黒い線を引きながら、廊下に倒れ込んでいたのだ。

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