第86話 女王蜂
誰もその場から動くことができなかった。呼吸すら止めていたかもしれない。
眩い光を発した卵、あるいは繭のような球体は、光と共にゆっくりと膨らんでいく。内側から押されて膨張して、やがて光は音を立てて弾けた。
無数の光の粒子がはじけ飛び、一瞬宙で静止した後、雨のように床へと降り注いでいく。
ふわりと鳥のように。
玉座の前へ、
透き通るような白い肌に、しなやかな肢体。真っすぐ腰の辺りまで伸びた髪の毛は艶のある純白で、所々が蒼天を透かしたような淡い青色に見える。
薄い布地でできた白い衣装を身にまとい、その裾が波紋のように床へ広がっていた。
伏せられた瞳を開くと夜空のような藍色が現れる。何度か瞬きをしながら周囲を見回す様子は、妙齢の女性でありながら、どこか赤子のようなあどけなさも見てとれた。
「ついに、ついに目覚めたか女王蜂……!」
アブルアズの上げた含むような笑い声に、女王蜂がゆるりと視線を彼に向ける。彼の異様な雰囲気や、床に飛び散った赤色が視界に入っても、その表情はぴくりとも動かない。
「随分と遠回りになってしまったが、これで水が手に入る。我が国の民が乾きに苦しむこともなくなるわけだ」
女王蜂の姿に圧倒されていたチャッタは、我に返って顔を上げた。
怒りに震える唇を必死で動かし、アブルアズをありったけの怒りを込めて睨みつける。
「アブルアズ。お前が女王蜂様を求めたのは、まさか――ただ水を生み出す存在が欲しかっただけなのか?」
大司祭とまで呼ばれていた男は、冷めた瞳をチャッタに落とし、再び女王蜂へと向き直る。何を当たり前のことをと、言わんばかりの態度だ。
「私が求めるのは、私が作った新たな種族による新しい国。しかし、乾いたこの土地に水が必要であることは紛れもない事実。女王蜂の存在は、私の国にとっても必要不可欠なのだ」
あまりの怒りにチャッタは言葉を失った。幼い頃から憧れ続けていた存在を粗末に扱われ、穢されたような。
女王蜂の力の源が、何であるのか。ムルや他の水の蜂たちが、どんな想いで彼女を探し求めたか。
「何も、何も知らないくせに、お前は……っ」
あまりの怒りでチャッタの瞳に涙が浮かぶ。噛みつくように叫んで腰を浮かせると、アブルアズの兵に剣を突き付けられた。
髪の毛を乱し、目に涙を溜めて。白刃に自分の情けない顔が映っている。
アブルアズの嘲笑が浴びせられた。
「その王だった男と一緒に大人しくしていろ。女王蜂が先だ。お前は水の蜂の学者なのだろう? せめて、一秒でも長くその姿を目に焼きつけるが良い」
「女王様……! 早く逃げ」
「うるさい、黙っていろ」
無言で兵士たちが刃を押し込んでくる。喉元と頬に鋭い痛みが走って、反射的に言葉を飲み込んでしまう。
彼らの刃に一筋、赤い線が垂れる。
アブルアズは歩みを進めていった。青白く光を帯びた巨石を渡り、徐々に王座へと近づいていく。
恭しさなどありはしない。歩みが遅いだけの乱暴で無礼な行為である。
女王蜂が引き結んでいた唇を僅かに動かす。
「女王蜂……、わたくしが?」
「なんと。目覚めたばかりで記憶も安定しないか。そうだ。お前は水を生み出す神秘の種族、『水の蜂』を統べる女王。乾いたこの国に、水と言う恵みをもたらすべく生まれた存在だろう?」
水。その言葉を呟いた途端、初めて女王蜂の表情に変化があった。
大きく目が見開かれ、藍色の瞳が大きく揺れる。
何かを確かめるように両手を胸に当て、愕然と呟いた。
「水……、水、水が……。なぜ、こんなにも」
「なんだ?」
異常な雰囲気に、アブルアズも思わず歩みを止める。女王蜂がハッと顔を上げ、視線を空間へ巡らせた。オアシスの底、美しい紺碧の天井と流れ落ちる豊潤な水。
彼女の視線は、ゆっくりとアブルアズへ向けられた。
「そう、なのですね。あなた達が――」
女王蜂が優雅に腕を持ち上げた瞬間、アブルアズの胸を水の刃が貫いた。
「がっ……」
続けざま、水の刃が伸びてきて、チャッタの前にいた兵士たちを貫いていく。
チャッタが助かったのは、単に位置の問題だろう。それだけ無差別的な慈悲のない攻撃だった。
力なく崩れ落ちていく躯を前に、チャッタは茫然と視線を女王蜂へ向ける。
目の前の光景を、信じたくないからだろうか。目の前で広がる赤色も、鉄のような臭いも何も感じられなかった。
「な、なにを……? お前は、水の蜂の、女王なのだろう」
アブルアズが床に倒れ込み、顔だけを上げて呟く。
それをどこか悲し気な眼差しで見下ろして、女王蜂の震えた唇が言葉を紡いだ。
「約束を違えたのは、あなた達人間でしょう? 守るといったのに、今度は水を大切にすると誓ったのに……! それを破り『私』と、私の同胞たちが何百年もかけて集めてきた『力』を使ってしまうなんて……! 許されるとでも思っているのですか」
「一体、なんの話をしている……? 水の蜂の力は、水を生み出すもの。この地に生きる命のため、使われるべきもの、なのだろう……?」
まさか。
チャッタは大きく息を呑む。霧が晴れるように、視界に色が戻ってきた。
青白磁色をした美しい澄み切った水。天井から流れ落ちる豊潤な水、枯れないオアシス。
ああ、そうなのか。自分の悪い予感は当たってしまっていたのだ。
彼の膝の上に乗った体が、僅かに身じろぎをする。
「遥か昔」
王が虚ろな眼差しで、うわ言のように呟く。
「名代との約束により、この国には女王蜂により永劫に水の祝福が与えられると、そう、伝わっていた。我は、確かにそんな話を聞いたのだ。それがどうして、こんなことに……?」
「なんてことをしたんだ⁉」
怪我人だとか、王様だとか、そんなことは彼の言葉で全部吹き飛んでしまった。
怒りで顔を歪め、チャッタは王の肩に置いた拳を、震えるほど彼の服ごと強く握りしめる。
何もないところから、無限に水が湧き出てくるわけがないのに。
「それは、その水を生み出す力は、彼女たちにとっての『命』そのものなんですよ⁉︎」
何、と王の口から疑問の声が漏れた。チャッタの叫び声に気づいたのか、女王蜂がこちらを向く。
アブルアズを見ていた時と同じ、冷たい悲しみで潤んだ瞳がチャッタを見下ろした。
彼女が腕を持ち上げたのと同時に、素早い何かがチャッタの横を通り過ぎていく。金属同士がぶつかる澄んだ音が響き、水飛沫がチャッタの頬を濡らす。
「――ムル⁉」
針を構え、ムルが女王蜂の攻撃から守ってくれたのだ。
「おい、無事か――へ、陛下⁉ こんな、怪我を……!? それにあの女性は、どういう、ことだ」
「シルハさん」
ニョンがシルハの肩から飛び降り、チャッタの懐に潜り込む。無事に二人をここまで誘導してきてくれたようである。
「息はありますが、一刻も早く医者に診せないと手遅れになります!」
跪いたシルハに王の体を託しながら、チャッタはムルの背を見つめる。
彼は腕をだらりと体の横に投げ出し、戦闘の構えを解いていた。チャッタの呼び声にも応じず、ただ目の前の彼女に視線を注いでいる。
「――女王蜂、さま。やっと会えた。俺はあなたに」
「ムル、危ない‼」
必死で上げた声に、ムルは再び針を構えた。女王蜂からいくつもの水の刃が伸びてきて、ムルの体を貫こうと迫る。
それを全て弾き切ると、ムルは僅かに指先を震わせて呟いた。
「どうして」
「もう、良いのです。全て無駄になってしまったのですから」
彼女の口から笑い声が上がる。目は虚ろで焦点が合っておらず、瞳の藍色が底のない穴のような黒々とした色へと変わっていた。
天を仰ぎ女王蜂が両手を高らかと掲げる。
「救う価値のある国など、もうここにはないのです‼」
全ての水が大きな生き物のようにうねり、彼女を飲み込んでいく。大地が揺れて大きくひび割れ、王宮が、いや、王都全体を揺るがす振動に襲われる。
振動が収まり、閉じていた目を開く。
「女王蜂、さま……?」
目に映ったのは、巨大な水の球体であった。王宮全体を飲み込んでしまうほどの大きさで、蛇のように水がその周りを這っている。
球体の中心には玉座と、静かに佇む女王蜂の姿があった。
「そんなにも水が欲しかったのであれは」
水の中にいながら、彼女の声は驚くほど澄んでいた。
「水に貫かれ、流され、蹂躙されて、全部滅びてしまいなさい……!」
水の蜂。
彼女らの使命は、渇いた国に生きる数多の生命を救うこと。その為に力を集め、いつかこの国に雨を降らせること。
力とは、彼らの命。
生まれた全ての蜂たちは、自ら死して女王の元へ還り、雨を降らせるための礎となる。
この国が水を得るために使ってしまった力は、雨をもたらすための力、水の蜂の命そのものだったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます