第85話 オアシスの底

 何故、このようなことになってしまったのか。は今日も眠れぬ夜を過ごしていた。

 身を起こし、衣服を皺ができるくらい強く握る。腕にはめた金輪が胸飾りにぶつかり、無機質な音を立てた。

 安眠のために装飾品は外すべきだと分かっていたが、常に宝玉や装飾品を身に纏っていないと自分が何者かが分からなくなってしまう。


 父や母や兄たちが続けざまに亡くなり、何も分からぬまま彼、ジャザーム・サイはこの国の王となってしまった。国はここ百年ほど平和を保っているし、父の補佐をしていたアブルアズもいる。

 始めは、どうにかなるだろうと自分を納得させていたが、彼が王になった途端、オアシスの水が減っていくという問題が浮上した。


 別の者に王位を譲ろうにも嫡男はまだ十にも満たない幼子である。それに、こんな状況で王位を譲るなど、非難の対象になってしまう。

 何故だ。水の心配など要らないのではなかったのか。昔、名代との約束により、王都には半永久的に水の祝福が与えられる。そうではなかったのか。


「こんなはずでは、なかった……」

 今まで幾度となく繰り返した言葉を呟き、彼は頭を抱え込むようにして俯いた。

 誰かに任せていればいずれ事態は好転するのではないか、いや、王になったからには自分が成さなければならないのではないか。

 頭の中も情緒もぐちゃぐちゃである。


 低くうめき声を上げていると、突如ジャザームを大きなが襲った。寝台が軋み、箪笥や棚がガタガタと音を立てる。内臓を揺らされているような不快感を覚え、彼は悲鳴を上げながら寝台の上で体を丸めた。

 今度は地震だと、本当にどうなっている。神は我に怨みでもあるのか。

 揺れが収まった後も、ジャザームは歯を食いしばって寝台の上で震えていた。その時。


「な、なんだ……?」

 彼の耳に、やけに澄んだ音が響きた。恐る恐る顔を上げると、寝室の床に何か光るものが落ちている。棚から、落ちてきてしまったのだろうか。

 不意に幼い頃の記憶がよみがえる。父が一度だけ見せてくれた、隠された扉。開けて欲しいとせがむと、父は首を横に振って告げた。

 ここは王以外誰も入ってはいけない場所、本来であれば、扉を見せることすら許されない場所。国に危機が訪れた時、鍵を使って入るのだと。

 もしお前が王になることがあれば、真実を教えると言われていたが、まさか。死の間際の父に託された、これが。


「そうだ、そうに違いない……!」

 もう一つの玉座は、きっとそこにある。何故水が減っていたのかは分からないが、彼女に会えばきっと、またこの国に水を与えてもらえるはず。

「これで、これで、私はまだ王でいられる……!」

 子どものように顔を綻ばせ、彼は満月のような形をしたペンダントを拾い上げた。




 どこに向かっているのだろう。チャッタは見失わないよう注意しながら、先を行く男性の背を見つめた。

 彼はとにかく先へ向かうことに必死で、こちらがうっかり足音を立ててしまった程度では振り返りもしない。チャッタの不慣れな尾行でも気づかれることはなかった。


 右へ左へと追いかけている間に方向感覚は失われてしまったが、進めば進むほど他の人の気配が感じられなくなる。後戻りはできないのだと、追い詰められたような気持ちになってきて、チャッタは喘ぐように息を漏らす。


「確か、ここだ……!」

 男の声が聞こえて、チャッタは顔を上げた。いけない、見失ってしまう。

 慌てて廊下を右に曲がった。

「……っ」

 相手が立ち止まっているのが見えて、咄嗟に元の場所へ引っ込む。目だけを覗かせて恐る恐る様子を伺うと、壁に向かって立つ男の横顔が見えた。相変わらず、チャッタに気づいた様子はない。


 焦茶色の顎ひげを生やしたチャッタと同年代くらいの男だ。同色の短い髪の毛は不自然なほど艶めいている。どこかの集落で家畜の世話でもしてそうな、ごく平凡な容姿だった。そんな彼が華美な衣装や宝玉で飾り立てられている様は、どこかにも見える。


 彼が見つめている壁には、波紋と雫を組み合わせたような紋様が描かれていた。教会などでもよく目にする模様で、言ってしまえばなんの変哲もない壁である。

 男は周囲を忙しなく見回した後、手に持っていたものそっと壁に押し当てた。


 アレは。

 チャッタは既視感を覚える。砂漠の町や岩の壁の前で、同じような光景を何度か目にしていた。

 重い物が引きずられるような振動と音が聞こえ、壁が左右に割れていく。その中から、白銀の扉が現れた。人が一人通ることができる程度の、小さな扉である。

 再び男がぎこちない動作でペンダントを扉にかざすと、一瞬淡い光を帯びた扉が開いていく。

 男は唇を引き結び、緊張した面持ちで中へと入っていった。


「あ……」

 チャッタは思わず身を乗り出す。

 扉の中は未知の場所。追跡はここまでにして、ムルやシルハと合流すべきだ。それが正解であるはずなのに。

 チャッタは軽く唇を噛む。この先に、長年自分が憧れて、追い求めていた存在がいるかもしれないのだ。

「僕らしくない。けど、ここまで来て、引けるわけないだろう……⁉︎」

 女王蜂が、どんな状況に置かれているかも分からない。じっとしていられるはずがなかった。


「にょ!」

「ニョン……!?」

 チャッタの呟きに反応したかのように、マントの背中から薄紅色の毛玉が顔を出す。今まで言いつけを守り、声一つ上げなかった子が、何故ここで。

 ニョンは自分の胸か腹の辺りを、短い腕で何度も叩いている。チャッタは合点がいったように頷き、微笑んだ。


「分かった。ムルとシルハさんを、ここまで案内してくれるんだね。くれぐれも気をつけて」

 ニョンは任せろとばかりもう一度自分の腹を叩くと、マントから抜け出して跳ねていく。

 それを見送ったチャッタは拳を握りしめ、扉の中へ足を踏み入れた。




 音を立てぬよう、慎重に足を運んでいく。中へ入ると長い階段が下へ下へと伸びていた。シルハは心当たりがないようだったが、やはり王宮には秘密の地下空間があったようである。

 階段は扉と同じくらいに狭く、左右を真っ白な壁で挟まれていた。先に下りた男の姿は見えないが、こんな一本道で見つかってしまえば逃げ場はない。

 チャッタはどこまでもまっすぐに伸びたそこを、一段一段噛み締めるようにして下りた。


 やがて、前方が白く光っているのが見えてくる。恐らく出口だ。チャッタは覚悟を決めると一気に階段を駆け下りた。

「……っ」

 出口付近に半分身体を隠しながら見上げ、あまりの眩しさに目を瞑った。ゆっくりと目を開き、何度か瞬きを繰り返す。

 暗い蒼い色をした天井が目に入った瞬間、チャッタは驚愕で息を呑んだ。


 水の、中にいる。

 夜空の深い藍色を透かした水が、天井に浮かび上がっている。まるで、いや、正に今チャッタは水の中に潜って、水面を通して夜空を見上げているのだ。

 巨大な空間は、王宮そのものがすっぽりと収まってしまうほど広い。地表にこれだけの規模の水が溢れている場所、まさかここは、王都にあるオアシスの底だとでも言うのだろうか。


 よく目を凝らしてみると、天井には半円状の硝子のようなものが置かれており、部屋の中央に水が落ちてこないようになっていた。

 押し上げられた水が硝子の周りからこぼれ、ヴェールのように薄い膜を張って落ちてきている。天井から伸びた柱の位置からして、元々こういった造りなのだろう。


 あまりの光景にチャッタが圧倒されていると、少し前方で例の男が立ちつくしているのが見えた。

 青白く光を帯びた巨石が飛び石のように置かれ、部屋の奥へと伸びている。男の背が邪魔をして、先に何があるかは見ることができない。

 あの、柱まで行くことができれば、姿を隠しながら進むことができるだろうか。

 チャッタは男が、転がるようにして駆け出したのを合図に、素早く移動を開始した。


 一番近い柱までの距離は、民家一つ分ほど。一気に駆け抜け、柱の影に身を隠した。男との位置がずれたことで、奥にあるものが見えてくる。

 なんだろう、あれ。

 少し宙に浮かんだ、半透明の球体。卵、いや、繭のようにも見えるが。

 チャッタが目を凝らし、その正体を見極めようとしていると、男が髪を激しくかきむしり、半狂乱で叫び出した。


「な、何故だ……!? なぜ、玉座にこんなものが!? ここに、女王蜂がいるのではないのか!? これでは、水が手に入らないではないか!? 水が、水がないと、我は」

 一体何を言っているんだ。

 しかし、言われてみれば、繭の下に置かれているのは、石でできた寝台、それこそ玉座のような。


 チャッタの思考を途切れさせたのは、低く地を這うように響く男の声だった。

「いいえ、それで良いのですよ、陛下。女王蜂はもうすぐ、目覚めの時を向かえるのですから」

「な――」

 思わず飛び出したチャッタの目の前で、あまりにも濃い鮮血が舞う。

 どこからともなくやってきた兵士が、男の背に深々と剣を突き立てたのである。


 咄嗟にチャッタは背に隠したクロスボウを構え、目の前の兵士に向かって放つ。

 ぞろりと刃を引き抜くと同時に、兵士は矢を避け大きく跳び下がる。その隙にチャッタは、男、この国の王の元へと駆け寄った。


 酷い傷である。辛うじて今は息をしているようだが、それも時間の問題だ。

 うつ伏せに倒れる王を抱き起こすと、彼はうっすらと目を開け、入り口の方へ視線を向けた。

「な……なにが……?」

「陛下、今まで慣れない公務、お疲れさまでございました。これからは全てこの私に任せ、どうか、


 固い靴底が床石を叩く音、近づいてきたのは純白の装束を着た一人の老人であった。

 装束が聖職者のまとう羽織であると気づき、チャッタは睨むように眉を寄せる。

「あなたは、まさか」


「ふん。なんと、ネズミがこんなところにまで迷い込んでいたか。チョロチョロと小賢しい」

 口調をがらりと変え、老人は蔑みの眼差しでチャッタを見下ろした。

 間違いない。この男が、大司祭アブルアズ。彼がここにいると言うことは、まさか。

 嫌な予感が、冷たくチャッタの背を這っていく。


「代々、国王にしか明かされないという秘密の間。なかなか尻尾を見せぬと思っていたが、ようやくたどり着くことができた。すぐに秘密を明かしていれば、貴方はもっと早く楽になれていたのですよ、陛下」

「アブル、アズ……、まさか貴殿は、初めから……?」

 王の身体が小刻みに震えている。怒り、悲しみ、悔しさ、絶望、一言では言い表せない感情なのだろう。


「やれ」

 アブルアズが短く命を下すと、背後に控えた兵士が剣を抜き放った。まだ王を刺した兵士もチャッタたちの後ろにいる。どうにかして、逃げなければ。しかし、怪我人を置いて逃げるなんて。

 チャッタの袖や膝が赤黒く染まっていく。早く手当てをしなければ、手遅れになってしまう。


 迷っている間にも、ジリジリと兵士は距離を詰めてくる。一か八か、もう一度矢を放ちその隙に。

 チャッタが再び床に置いたクロスボウにそっと手を伸ばした時、アブルアズの嬉々とした声が響き渡った。

「女王蜂だ! ついに目覚めるぞ!!」

 振り返った瞬間、繭から目映い閃光が放たれた。

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