第70話 夜明け
「アルガン」
隣を歩く仲間に、チャッタは緊張しながら声をかけた。彼の心配とは裏腹に、不思議そうに自分を見上げる深紅の瞳には、陰りが一切見られない。
あんなことがあった後なのに。チャッタは息を呑んだ。
きっと、初めから覚悟は決まっていたのだろう。だったら自分がそれに対して、何かを言う必要はないのだ。
口にするはずだった言葉を飲み込むと、チャッタはアルガンに向けて微笑んだ。
「ありがとう。戻ってきてくれて」
「あ、いや……俺も、その、戻ってこられて良かったというか」
視線を泳がせるアルガンが年相応で可愛らしく見え、チャッタはいっそう表情を緩めた。
歩いている間に、背負ったムルの体が下がってくる。チャッタは立ち止まり、その場で小さく飛び跳ねるようにして彼を背負い直した。
小柄だとは思っていたが、こうして背負ってみると想像以上に軽い体だ。今は苦痛もないのか、穏やかな寝息が聞こえてくる。だがやはり、ちゃんとした場所で休ませてあげたい。
自分の足で歩いているアルガンも、いつ限界が来てもおかしくないだろう。
「さて、これからどうしよう。やっぱり一度、危険を承知でリペに戻るべきかな」
住民は避難させたが、この周辺の集落は根こそぎ燃え尽くされてしまっている。そこを燃やしたリムガイの仲間もまだ近くにいるだろうし、それを考えるとリペの方が安全なのではないだろうか。
ネイラが案内してくれた道をもう一度通って、なんとか町の中に入ってしまえば。
いや、やはり危険だろうか。
駄目だ、考えがまとまらない。チャッタは深いため息を吐く。
「なんだか、水の蜂を追っていただけなのに、とんでもないことになっちゃったね」
「あ、それは、その……」
アルガンの表情があからさまに曇り、チャッタは慌てて首を横に振る。
「ごめん。良いんだよ、アルガン! 全部僕が決めたことなんだから……うん、僕も疲れているみたいだ。とにかく、ここを離れて一息ついて、それから今後のことを話し合おう」
一旦、僕が乗ってきたラクダの所へ戻ろうか。そうチャッタが言いかけたその時、朗々とした声が宵闇に響き渡った。
「ようやく追いついたぞ」
驚きチャッタたちが振り返ると、岩石の影からポツポツと人影が現れた。慌てて周囲に視線を巡らせれば、全方向を固められている。いつの間にか、囲まれていたのだ。
アルガンも気づかなかったらしく、驚愕で目を丸くしている。
マントに身を包んでいるが、腰に帯びた剣や鎧には見覚えがあった。
その中の一人が大きく一歩前に出て、月明かりがその顔をくっきりと浮かび上がらせる。
「まさか、こんな所まで逃げおおせていたとはな」
「え、シルハさん――え、どうして」
このやり取りには既視感があった。記憶にある光景をそのまま再現されているような、不思議な感覚に襲われる。
次に、シルハの口から出るのはきっと。
「まさか、虫も殺せないような風貌をした貴様が、大罪人だったとはな。分かっていれば、あの時捕らえていたものを」
やはり、一字一句あの時と同じ言葉だ。一体これはどういうことだ。困惑しているチャッタの背で、ムルが僅かに身動ぎをする。
そこで、合点がいった。
「そうか、ムルの針で記憶の一部が」
水の蜂の毒の効果で、チャッタたちと出会った記憶を失っているのだ。彼らにしてみれば、ずっと追いかけていたチャッタたちに、今ようやく追いついたところなのだろう。
しかし本来、水の蜂の毒を受ければ、数日は意識が朦朧として動くことなどできないはず。鍛え方が違うのか、彼らの任務を果たそうという執念なのか。
「ま、待ってください、その」
今は戦える者がいない。襲いかかられたら、終わりだ。シルハが武力行使をする前に、説得でも何でもしてこの場を切り抜けなければ。
チャッタは頭を必死で動かす。誤解だといくら訴えたところで、以前のように一蹴されるだけ。ならば。
「――手配されているのは、僕とムルだけですよね? ここにもう一人いるこの子、彼はどうするんですか?」
チャッタはアルガンに一瞬、視線を送りながら問う。話をしたのは一時だけだが、シルハは恐らく悪人ではない。この状況に疑問を持っていてもおかしくないのではないだろうか。そこに賭ける。
「彼も捕らえますか? でも彼は手配なんかされてないですよね。そもそも、おかしいとは思いませんか? 貴方はこの子が僕たちと一緒にいるところを見ているはず。なのに、彼だけが捕縛の対象とされていない」
「俺が炎の魔術を使ってるところ、アンタも見たんだろ?」
チャッタを後押しするように、アルガンがシルハを見据えて問いかける。
動揺が見えたのは、シルハではなく彼の周囲にいた二名ほどの男たちであった。上司の判断を仰ぐように、横目でシルハへ視線を送っている。
そうか、彼らはリペの夜、シルハについてきていた者たちか。彼らもこの状況に疑問を抱いているのだ。だったら、いけるかもしれない。
祈るような気持ちで、チャッタはシルハと目を合わせる。鷲色の瞳は相変わらず鋭い光を放っていた。唇を引き結び、眉一つ動かさないその表情からは、何の感情も読み取ることができない。チャッタは思わず喉を鳴らす。
やがてシルハは眉を寄せ、どこか吐き捨てるような口調で告げた。
「――関係ないな。命令を受けているのは、お前と、その背にいる者を捕らえることだ。その間、そちらの少年には、大人しく待っていてもらうだけだ」
「そんな!? 貴方の部下だって、貴方だって、この状況をおかしいと思っているんでしょう? それでも貴方はただ上の命令へと従うんですか?」
片眉を上げて、シルハが僅かに身じろきをする。しかし次の瞬間、その手を動かして掴んだのは、剣の柄だった。
「それが、俺の仕事だ」
「くそっ!」
「アルガン待って! 無理しちゃ駄目だ」
身構えたアルガンを声で制しながら、チャッタは奥歯を噛みしめる。
シルハは怪我人を乱暴に扱う人ではないはず。ならば敢えて捕まって機を待つか。いや、恐らく上がそれを許さないだろう。他に何か、説得できるモノは。
シルハが剣を鞘から引き抜く。ぬらりと沿うように白い光が煌めき、その刃の鋭さがうかがえた。
彼はそれをチャッタたちの方へ突きつけると、鋭く声を発する。
「捕らえろ!」
「おーおー。相変わらず頭が固いのぅ。お前らしいと言えばらしいがの」
突然響いた第三者の声に、チャッタだけでなくシルハも大きく肩を震わせた。
砂を踏みしめる音は間隔が開いており、相手のゆったりとした歩みを想像させる。
シルハが唇を震わせ、背後を振り返った。
次第に、声の主の姿が露わになる。
歩いてくるのは一人の老人だった。
腰が少々曲がっているものの、鍛錬を積んできたことを思わせるしっかりとした体躯。灰色をした髪と口ひげが闇夜にぼんやりと浮かび上がり、どこか飄々とした瞳は少年のようでもある。肩には何故か大きめの皮袋を背負っていた。
その姿を認め、チャッタは思わず声を発する。
「
確かこの周辺にある集落の一つ、そこの代表ではなかったか。チャッタの説得により避難したはずの彼が何故ここに。
そんな彼の疑問は、次にシルハが発した一言で吹き込んでしまう。
「ワーフィブ
「え?」
今度はチャッタたちが目を丸くする番だった。老人を師匠と呼んだのはシルハである。
ワーフィブ師匠と呼ばれた老人は、呆れたように鼻を鳴らすと、マントを風になびかせながら彼の下へ近づいていく。
「お前が村を出てから……十年ほどか。久しぶりだのぉ。図体ばかりでかくなりおって」
老人はシルハの胸の高さほどしかないにも関わらず、どこか大きく見えてしまう。頭が上がらないとはこの事だろうか。
シルハの部下も突然のことに驚き、口を開いたまま成り行きを見守るばかりだ。
「は、いえ、その……。何故、師匠はここに?」
「何、ワシはそっちの彼に預かりものを返しに来ただけじゃよ」
ワーフィブはチャッタに視線を向け、ゆっくりと近づいてくる。
「え、僕、ですか?」
「お前さんの大事なものなんじゃろう? 疑って、すまなかったな」
チャッタの下まで来た彼は背負った皮袋を両手に持ち替え、深々と頭を下げた。
そうか、この中身はあれか。彼は気づくと同時に、目を丸くする。
「そんな……わざわざ持ってきて下さったんですか? 軽い物ではなかったでしょう。そのまま持っていて下さっても良かったのに」
「あの時の非礼も兼ねてな。お前さんのおかげで、誰一人命を落とすことなく朝を迎えられそうだ。本当に、感謝してもしきれんよ」
「チャッタ。これ何なんだよ?」
会話の合間を縫って、アルガンが不思議そうな顔をして問いかけてくる。疑問に思うのも当然だろうが、さて、どう伝えたものか。
「んー、なんて言うか、人質の代わりというか」
「彼が言ったんじゃよ。『もし自分の言っていることが取り越し苦労で、この集落が襲われなかったら、預けた荷物は全部好きにしてくれ』とな。中身は確か、水の蜂の記録じゃと言っておったかの?」
ワーフィブの言葉に、アルガンは息を呑む。
普通の人にしてみれば、それはただの紙の束だ。しかし、アルガンは知ってくれている。それがチャッタにとってどれだけ大切で、血の滲むような努力でかき集めた物であるかを。
「アンタ、なんでそんなこと……?」
けれどそれを、敢えて他人に『人質の代わり』として託した意図は分からないだろう。アルガンの視線が咎めるような色に変わり、チャッタは気まずくて目を逸らした。
そのやり取りで何かを察したのか、ワーフィブは一つ大きく頷く。
「そうか。お前さんが彼の大事な友人か」
「え……」
「い、今、そのお話は良いじゃないですか⁉︎ それよりもえっと、貴方はシルハさんの師匠、なんですか?」
頬に熱が集まり、チャッタは慌てて話題を逸らす。あの時は必死だったとは言え、少し、いやかなりアルガンに聞かれるのは恥ずかしい話なのだ。
「おお、此奴はあの村の出身でな。幼い頃からワシの下で剣の腕を磨いておったわ。それが実を結び王宮に勤めるまでになったわけじゃが……真面目というか固いというか、融通が利かんのは相変わらずのようじゃ。そんなんだから昔から……おお、今その話は余計じゃな」
ワーフィブはそう言って、首だけで背後のシルハを振り返る。彼はまだ長剣を抜き放ったままだったが、まとっていた殺気は完全に消え去っていた。
「師匠、その、彼に救われたというのは」
「文字通りの意味じゃよ。ワシらの村は襲われた。炎の魔術を使う集団によってな」
「な――」
シルハたちの間に動揺が走る。彼らの間では、炎の魔術を使って人々を襲っているのは、チャッタたちだと言うことになっているのだから。
「安心せい。話したように、それを予見した彼によって、村人は全員避難して無事じゃよ。聞けば、周辺の集落も同様に襲われたが、彼の事前の説得によって村人の命は助かったのだと言うのぉ。さて」
ワーフィブはシルハたちにぐるりと視線を巡らせると、しわがれた声を張り上げた。
「詳しく事情を知っているわけではないが、元々この手配には不審な点が多いそうじゃな。だったら一度武器を収め、話をしても良いのではないか? 彼らはもう既に、疲労困憊のようじゃし」
シルハの視線が再びチャッタとかち合う。射抜くようだった視線は、幾分か柔らかくなっていた。
そしてシルハは、戸惑うように視線を、チャッタの背にいるムルへ移動させる。
幾分か温かく感じる風が、沈黙を埋めるように吹いていく。シルハが深く長いため息を吐いた。
「――分かった。話を聞こう」
「あ、ありがとうございます!」
いつの間にか星々たちは身を潜め、紺碧の空が薄いヴェールを纏い始めている。
それを目にして、チャッタは肩の力を抜く。
長い夜が、ようやく開けるのだ。
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