第68話 針
「にょ」
耳元で聞きなれた奇声が聞こえ、アルガンは顔を上げる。目の前いっぱいに広がった薄紅色の体毛に驚き、大声を上げて飛び退いた。
「ニョン! まだ危険だよ。ちゃんと隠れてないと」
チャッタのマントから、柔らかい毛玉が顔を覗かせていた。この不思議な生物はどうやら、チャッタと共にいたようである。確かにムルの傍にいたら、今頃洒落にならない状況だったかもしれない。
そんなことを思いながら、アルガンはニョンを見つめる。黒胡椒のような瞳と目を合わせていると、じわじわと例えようのない羞恥心に見舞われてきた。
誤魔化すように袖で涙を拭っていると、ニョンがアルガンの頬の辺りをぺしぺしと叩いてくる。
からわれているようで、非常に腹立たしい。
「この毛玉ぁ……! 言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうなんだよ⁉︎」
「にょー!?」
「落ち着いてアルガン! ニョンは喋れないし、そんなに力いっぱい押しつぶしたら可哀想だよ!」
「言われなくても分かってるよ!?」
アルガンはニョンを両手で挟んで、思い切り押しつぶしながら叫ぶ。程よい弾力と柔らかさがあり、確かにムルのお気に入りになるのも分かる。
悲鳴を上げるニョンから手を離し、アルガンは不味いものでも食べたように口の端を歪めた。
この不思議な生物が無事であったことを、自分は確かに安堵している。悔しいが、先ほど言った「みんな」には、この毛玉も含まれてしまっていたらしい。
意地でも口には出さないが。
そう言えば、とアルガンは違和感に気づく。
ムルが黙ったままだ。ニョンを手荒に扱っていると、必ず文句を言ってくるはずなのに。
アルガン同様、チャッタも不思議に思ったのか、俯いたままの彼に声をかけている。
「ムル、大丈夫かい? さっきから様子が――まさか、約束を破って無理をして、怪我が悪化したんじゃ」
珍しく驚いたように肩を震わせ、ムルは顔を上げた。数度瞬きをすると、いつも通りの態度で首を横に振る。
「大丈夫だ。無理はしてないし、怪我も悪化してない」
「本当だね? ちょっとでも悪くなっていたら、怒るからね」
ムルが僅かに視線を逸らしたことに気づきアルガンが苦笑していると、自分の作った卵殻の向こう側が透けてきていることに気づく。周囲を包み込んでいた業火が、弱まってきているのだ。
「やっと、か。くっそ、この火力どうなってんだよ」
「そうか……そう言えば、イミオンらしき人物がここにいたよね。何故彼がここに?」
チャッタの問いに、アルガンは卵殻の向こう側を観察しながら答える。
「なんか、炎の疑似魔術器官に適合したとかで、偉い人に有効活用されたみたいだな」
「そ、そうなのか。だから、ムルは炎に囲まれてたんだね。……だったら、この炎の中でも、無事である可能性が高いよね。同じ炎の使い手なんだから」
チャッタの言う通りだろう。少しでも消耗してくれていると良いのだが。
「そうだ、アルガン。僕、ずっと気になっていたことがあるんだけど」
チャッタが少し言いづらそうに、首を傾げる。
「アルガンは、その……最強にして最高傑作、なんだよね。炎の魔術を使う存在として」
「あー、まぁ、確かにアイツは俺のことをそう呼んでたな」
だったら。
そう呟いて、チャッタは周囲をぐるりと見まわす。
「この力の差はどういうことなんだろう? 正直、この状況だけを見れば、リムガイが最強と称されるべきなんじゃないか」
言われてみれば、と、アルガンは違和感を覚えた。
本気でないから勝てないのだと思っていたが、過去の自分も正直、ここまでの火力は出ていなかったように思う。
リムガイが敢えて、アルガンを過大評価して持ち上げていたのか。いや、自分たちに力を与えたアブルアズも、アルガンの力を評価していたようだった。
だとしたら、確かにこの差は不自然だ。
「――ねぇ、これはただの思いつきなんだけど」
チャッタの言った言葉に、アルガンは目を丸くした。
炎が鎮火していくのに合わせ、アルガンが自分たちを囲った卵殻を解いていく。
戦いは終わっていない。今は目の前の敵に集中しなければ。ムルはうるさい鼓動を落ち着かせるために、大きく息を吸い込んだ。
卵殻が崩れると視界が一気に開ける。リムガイの炎は、僅かに残った柵や瓦礫すらも燃えつくし、元集落だったそこは、ひび割れた大地が広がるばかりだった。
随分と小さくなった炎の向こうに、肩を上下させるリムガイたちの姿が見える。
こちらの姿を確認すると、忌々しげに舌打ちをした。案の定、余力を十分残しているように見える。
「はぁ? ここまでやっても、駄目なのか……!? さっさと灰になってよ、鬱陶しいな」
「貴様、私までも巻き込もうとしたな……⁉︎ 咄嗟に身を守れたから良かったものを、そうでなければこの貴重な存在を失うところだったのだぞ!?」
「お前はうるさい! はー、なんでこんなの連れてきちゃったんだろう。本当に、イライラする」
リムガイが地団太を踏む勢いで苛立ち、髪の毛をかき回している。乱された細い白銀の髪の毛は、そのままさらりと肩に乗った。
「ムル」
アルガンがリムガイを睨んだまま、小さく声をかけてくる。
「本当に、行けるのか? その……針だって」
「問題ない。水もチャッタに補充してもらった。それに」
まだ勝算はある。
自信ありげに頷いて見せると、アルガンは驚愕の表情を見せた後、首肯した。
彼にはリムガイとの戦いに集中してほしい。その為に、自分がイミオンを倒すのだ。
ムルは数歩前へ出て、自分の敵に正面から向かい合う。
「あれだけやられて、まだ立つか。貴様の攻撃の要はあの針、だろう? 刺しただけで人を昏倒させる、その仕組みは分からんが」
鼻で笑ったイミオンが、顎に手を当てて呟く。
実は彼もその針を受けたことがあるのだが、毒の効果でその記憶は消えてしまっているのだ。だからこそ何も知らずに、興味深そうな眼差しをムルに向けている。好奇心と言うには、
「どういう仕掛けがあるのか、気にならん訳でもないが。まぁ、そこは動かなくなった貴様を調べても良いしな。それよりも、その要である針を折られた今、どう私に挑むと?」
「は……針が、折れて……? まさか、ウソだろう……?」
背後でチャッタが息を呑んだ。震えた声から、酷く衝撃を受けていることが分かる。水の蜂の学者である彼は、知っているのだ。
針は水の蜂の象徴、折れてしまえば二度と再生することはないのだと。
「チャッタ」
できる限り彼を安心させられるように、ムルは一字一句丁寧に言葉を紡いだ。
「約束しただろう。すぐ終わらせるから、待っていてくれ」
彼は魔術を使い、手の中に針を作り出す。強く握ってみたが、どこか収まりが悪い。触った感じが異なると言うか、やはり、象徴たる針とは勝手が異なる。
しかし今は、これでやるしかない。
つま先に力を入れて大地を蹴飛ばし、ムルはイミオンに向かって行った。
体勢を低くして、下から潜り込むような形で敵に接近する。速度を上げて、このまま敵の懐へ潜り込むのだ。
「させん!」
イミオンが叫び、大きく腕を振う。ムルの接近を阻むように、薙ぎ払うような斬撃を放ってきた。威嚇のような攻撃に足を止めると、すぐに反対側から二刀目が襲い来る。
イミオンの武器は二刀。一撃を避けても、すぐに別の刃が襲ってくる。ムルはその場で跳躍し、刃を飛び越えるようにして回避した。
束の間、頭上から空気を裂く音がして、咄嗟に針を掲げる。澄んだ金属音が響く。ムルの針は、イミオンの大剣を防いでいた。
即座に反応できなければ、真っ二つになるところだった。
手の中で何かが軋むような音がする。嫌な予感がして、ムルは身を捩り敵の刃を受け流す。
大剣を受け止めていた針が、彼の手の中で粉々に砕け散った。水の粒に変わり、乾いた空気に触れてあっという間に消えていく。
やはり、この針だと脆い。
ムルは敵の斬撃を避けつつ、もう一度距離を取る。五本の指の間にナイフを作り出しては、次々にそれを投擲した。
イミオンがそれを叩き落としている隙に、再び距離を詰めていく。
「小賢しい!」
叫んだイミオンが大剣を振るうと、炎が生まれて水のナイフを消し去った。炎が波のように地を這い、これ以上近づくこともできない。
ムルはやむを得ず跳躍しつつ、後退していく。
「このような粗悪な武器……手数で押す、ということか? 愚策だな! どう考えても、先に力尽きるのは貴様だ」
ムルは緊張の糸を切らさぬよう、息を細く吐く。自分の間合いはもう見切られていて、接近をかなり警戒されているようだ。
しかし、それが好機。
イミオンが大剣を両手に携え、地を駆ける。彼の大剣も、ましてやムルの針など到底届かないほど、二人の距離は遠く開いている。
ここだ。
ムルは膝を曲げ、腰を落として構える。水が渦を巻き、彼が思い浮かべた武器へと形を変えていく。彼を知るものであれば、既視感があったかもしれない。
ムルの両手の中に、身の丈以上もある長剣が現れた。
「何……⁉︎」
イミオンの瞳が驚愕に見開かれる。しかし、咄嗟にその足は止まらず、数歩ムルとの距離を縮めた。
これならもう、届く。
ムルは右腕を後ろへ引き、息を吸う。
集中しろ。あの時、戦った敵を、習った技を思い出せ。
息を吐き出すと同時に、大きく片足を踏み込む。同時に腕を、刃を前へ突き出した。刃は空を貫いて、真っ直ぐイミオンへ向かっていく。
このまま、いけるかもしれない。ムルはそう思った。
「――残念だったな」
イミオンが片足を引いて身を翻し、体の向きを変えた。
確かに不意をついたはずの攻撃。しかしムルの長剣は、相手の手首を浅く引っかけ、何もない空間へと抜けていく。
痛みが走ったのか、僅かにイミオンが片方の眉を上げる。だが、それだけだった。
「はっ! 急拵えの武器など、この程度よ!」
イミオンが嘲笑う。下から跳ね上げるような一撃が、ムルの長剣を弾き飛ばした。
宙に浮いた白刃は、元の水へと戻って砕け、飛沫がムルの頬に飛び散る。水飛沫の冷たさに目を細めながらも、彼は振り返りざま後ろへ飛び退く。
しかしイミオンは、予想を遥かに超える速度で間合いを詰めてくる。いつの間にか、彼の大剣が一本に変わっていた。それで、速いのか。
イミオンが左腕の剣を両手で握り、振りかぶっているのが見えた。唇を歪め、瞳は爛々と輝き、今こそ
「これで、終わ……っ」
大剣が彼に向かって下ろされる瞬間、不自然にイミオンの言葉が止まった。
振りかぶった大剣を振り下ろすこともできず、全身が大きく痙攣し、両手から武器がこぼれ落ちる。
「な、なぜ……だ……」
イミオンの目蓋が落ちて、体が前のめりに倒れこむ。重い音を立てて砂を巻き上げ、それが夜風に散らされた後も、そのまま動くことはなかった。
彼の武器が炎に包まれ、何もなかったように消えていく。
しばらくその姿を見つめ、ムルはため息混じりに呟いた。
「俺は、少しでもお前に傷を負わせられれば、それで良かったんだ」
前にも似たようなことを言ったな。そんなことを思いながら、ムルは倒れたイミオンの隣にしゃがみ込む。
意識のない彼の手首を取ると、そこからするりと何かを引き抜いた。ムルの指に摘まれていたのは、親指ほどの長さの小さな針。
「俺は針が折れただなんて、一言も言ってない」
これこそが、ムルの針の真の姿だった。
水の蜂の持つ、針の形状は様々。しかしそれは、針と呼ばれる武器そのものが思い思いの形をとっているわけではない。
針とは、水の蜂が扱う武器の核となるもの。核を元に、どのような武器を作り出すかは、その者次第。
『ムルは小柄だからな。速くて身軽で器用だし、短い獲物で戦う方がいいんじゃねぇか?』
昔、そんな助言を受けたので、ムルは偶然針で戦っていただけなのだ。
そのことを思い出したのは、つい先程のことなのだが。
「上手くいって、良かった」
長剣でイミオンを倒すことができればよし。万が一失敗したとしても、敵に僅かでも触れることができれば、そこに核となる針を打ち込む。
しかしそれは外れたら最後の、奥の手だった。
『はぁ、俺みたいに長剣を使った戦いを習いたい? そりゃまぁ、できなくはねぇが、そうだなぁ』
頭の中で声が聞こえる。以前よりも明瞭に、その言葉を発した人物の姿も思い浮かべることができた。
『ムルが実戦でそれを活かせるとしたら、不意をついてからの、一発勝負! って感じだろうな』
「本当に、一発勝負だった。けど、教えてもらった甲斐はあったよ」
父さん。
懐かしい背中が脳裏に浮かんで、ムルはその場に膝をついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます