第67話 本当は、ずっと。
それは、楽器の音を思わせる、流麗な響きを持った声だった。次いで鋭く空気を裂く音が聞こえ、何かがアルガンの頭上を超えて行く。
ちょうどムルたちの真上で破裂音がして、大量の水飛沫が地面へ降り注いだ。
「なっ……⁉︎」
飛沫の勢いは凄まじく、イミオンは両腕で顔を覆い、離れた場所にいるアルガンの頬にも冷たい滴が散ってくるほどだった。
思わず閉じてしまった目を開くと、ムルは肩で息をしているものの、無事にイミオンの包囲から抜け出していた。
炎で囲まれていた場所には、皮袋のついた一本の矢が刺さっており、湿って色を濃くした砂地が広がっている。
アルガンは恐る恐る、先程の声の主へ視線を向けた。
「は……」
喘ぐように短い声が、彼の口からこぼれる。声の響きでそうではないかと思っていたが、間違いない。
絹の糸のような髪と、翡翠を思わせる輝きの瞳。細くしなやかな肢体は、戦いの場にはあまりにも不釣り合い。
しかし、肩を大きく上下させながらも、その人は尚、凛として立っていた。
手にはクロスボウが握られており、彼があの矢を射ったことが分かる。
リムガイたちも驚いているのか、ただ呆然と彼を見つめるばかりだ。
「どうして」
絶対、ここにいてはいけない人なのに。ムルに続いて何故、彼もこんな所に。
アルガンは唇を震わせて、その名を呟いた。
「チャッタ」
「アルガン。やっと、追いつけた……」
チャッタの声は震えていて、泣いているようでもあった。喜びに溢れた温かい声に、アルガンの胸がじわりと満たされていく。
チャッタはクロスボウをマントの中へ収めると、形の良い眉を潜め、ムルに視線を送った。
「ごめん、ムル。先に到着しているはずだったのに、少し寄り道をしてしまって」
「大丈夫だ。水、助かった」
元々ムルが魔術で作ってくれていた仕掛けだよ。そう言ってチャッタは、すぐに表情を引き締めた。
白磁の肌が、リムガイたちの炎を反射して朱い色に染まっている。夜闇にも負けず、彼の瞳は強い光を湛え、鮮やかに輝いていた。
「へぇ……」
リムガイが短く息を吐き出して、硬直から抜け出す。新たにやってきたのが、戦闘員ではないことが分かったのだろうか。
どこか馬鹿にしたような口調で、リムガイはチャッタに声をかける。
「もう一人の兄さんのツレだよね、キミも来たんだ? 何もできないくせに出しゃばって、何様のつもり? それに、さっきなんて言ったっけ? 『まだ何も奪われてなんかいない』だっけ、何言ってるの? キミにはあの炎が見えないのかな」
彼は人差し指を立てて、それを地平の彼方へ向けた。夜の闇が深くなるにつれて、その下の光が激しさを増しているようだ。
「この周辺には、まだまだたくさんの集落があるからね。それも全部燃えたら、もっと夜空は赤く綺麗に輝くよ。……ちょうど良いや。この場でキミたちも始末して、集落を燃やした罪人は、住民と一緒に心中したってことにしちゃおう!」
嬉々として語るリムガイに対し、チャッタは呼吸一つ乱すことなく立っていた。普段の柔らかな雰囲気は形を潜め、夜の砂漠よりも冷えた眼差しをリムガイに注いでいる。
こんな冷たい雰囲気の彼は、今まで見たことがなかった。
「ああ、やっぱりそんな計画で僕らを手配したのか。心中ね……。それはさぞ、君たちにとっては便利だろうけど」
チャッタは自身の顎に指を当て、小首を傾げてみせる。
「もぬけの殻になった集落を燃やすことが、君たちの言う仕事で良かったのかな?」
「はぁ? 一体何の話だよ。もぬけの殻、なんて」
鼻で笑ったリムガイの瞳が、次第に大きく見開かれていく。彼は息を呑み、弾かれたように地平の彼方を見つめた。
チャッタは目を細め、にっこりと微笑む。
その表情で背筋に悪寒が走り、ようやくアルガンは気がついた。
チャッタは未だかつてないほど、怒っているのだと。
「この辺りに住む人々は全員、とっくの昔に避難してるよ。今頃は、リペの夜を思う存分満喫しているんじゃないかな?」
優秀な
彼はその様子を思い浮かべたように、口の端を持ち上げる。
リムガイは酷く苛立った様子で、歯を食い縛った。声を荒らげ、余裕だった口調が崩れていく。
「どこかで情報が漏れたのか……? いや、それはない。そんなヘマはしない。つまりお前が、この辺りの人々を避難させたってことか? それこそあり得ない! お前たちは、凶悪犯として手配中なんだぞ⁉︎ そんな罪人の言葉なんて誰も信じるわけが」
「そうか。君は知らないんだね」
それは憐れむようでもあり、
彼の指が乱れた自身の前髪に伸びる。金糸のような輝きをこぼしながら、彼は髪をかき上げ極上の笑みを浮かべた。
「僕、得意なんだ。初対面の人にお願いするの」
一瞬、呆けた顔をしたリムガイの表情が、次第に変化していく。眉を吊り上げ歯を剥き出しにして、怒りで表情を歪ませていく。
彼の纏った熱が増して、夜の砂漠を熱していった。
いけない、このままでは。
アルガンは我に返ると、自身の足首へ視線を向けた。拘束されたままだったが、リムガイが怒りで我を忘れている今なら。
自らの炎をぶつけ、アルガンは枷を破壊する。
「僕を馬鹿にして……! ああ、目障りだ! 兄さんも、お前も、全部、何もかも燃えちゃえよ!」
「――ムル、チャッタ‼︎」
アルガンは二人の名を呼び、駆け出した。
同時にムルがチャッタの方に向かって動く。
リムガイが両手で剣を掴んで振り上げ、地面へと突き刺した。鳥が飛び立つため翼を広げるように、炎の塊が膨張して広がり周囲を包み込んでいく。
それが仲間たちを飲み込んでしまう前に、アルガンは両腕を広げて炎の前に立ち塞がった。
「させるか……っ」
両手を前へ突き出す。口を開けたままにしていたら、喉が焼けてしまいそうだ。
奥歯を噛みしめ息を止め、アルガンは力を解放した。
熱い、が、命に関わるほどではない。上手くいっただろうか。
アルガンは閉じていた両目を、そっと開く。体に馴染んだ熱が、周囲を取り囲んでいることに安堵する。
「二人とも、無事か……⁉︎」
アルガンは叫ぶように言って、振り返る。チャッタからは何の反応もなかったが、彼の傍らで跪いていたムルが力強く頷く。
アルガンが展開した火の壁は、卵殻のように三人を包み込んでいた。
「あ……」
チャッタは両膝を折り、その場に尻餅をついた。彼の腕と膝は、小刻みに震えている。
「あれ? はは、気が抜けちゃったかな。慣れないことはするもんじゃないね……」
眉を下げて情けなく笑ったチャッタは、いつもの優しげな雰囲気に戻っていた。
炎に囲まれた空間は、昼間のように明るい。
改めてチャッタの姿を見たアルガンは、さっと顔色を変えた。
彼の腕に走った傷、頬に辺りに残った跡、まるで何かにぶつかったか、ぶつけられたような。
「アンタ、その怪我……」
「え? ああ……ちょっとね。大したことはないよ。こんなものすぐに治る」
何故だ。ムルだけじゃなく、チャッタまでも。
傷ついて欲しくない人たちが、こんなにも傷ついてしまって。
何故放っておいてくれない。どうして、自ら危険に飛び込むような真似をする。
悲しみと怒りがない交ぜになって、アルガンは声を張り上げた。
「なんで、なんでそんなになってまで、俺を追ってきたんだ!? ……俺は、こんなこと望んでなかった! 俺と一緒にいたら、アンタは死ぬって、もう夢を、水の蜂を追えないって言ったはずだろ⁉︎」
「アルガン!」
アルガンの言葉を遮って、チャッタが叫ぶ。
「ごめん。僕、勘違いしてた!」
「は? 何が」
チャッタは意を決したように、大きく息を吸った。
「アルガンは」
そして畳みかけるように、彼の口から言葉が紡がれていく。
「ちょっと生意気で、びっくりするくらい大食いで。色々と面倒くさがっちゃう時もあるけど、しっかりしたところもあって頼りになって、いつも僕を助けてくれる僕の大切な友達だ」
それが全て自分に関することだと、アルガンが気づいたのは、チャッタが潤んだ瞳で自分を見上げてきた時だった。
「悩むことなんてなかった。僕にとって君は、それだけで良かったんだ」
胸が締めつけられて、息ができない。
アルガンは左胸の上で拳を握った。
「何を、言ってるんだよ。俺は炎の悪魔って呼ばれてて、それで」
「——こう言った方が、良かったかな」
チャッタがそう呟いて立ち上がり、アルガンの両肩を掴んだ。
さっきまで震えていたとは思えないほど力強い感触に、アルガンは驚き顔を上げる。
見上げた翡翠色の瞳から、大粒の雫がこぼれ落ちた。
「君がいなくなったら、僕はもう二度と、楽しい旅なんてできないんだよ……!」
楽しい旅。
チャッタが、旅をするのは楽しいと言っていたことを思い出す。
みんなで色々な所を巡って、様々な人と出会って、何故か戦うことにもなったりしたけど、最後には皆で笑い合って。
今までしていた旅は、確かにそんな『旅』だった。
「僕が楽しい旅ができるかどうかに、君の過去は関係ない。だったら、追いかけるに決まってるだろう? 僕はそういう根性だけは、あるみたいだからね」
目を細め冗談っぽく笑った拍子に、また彼の目から涙が溢れた。
以前の自分であれば、目を逸らしてしまっていたかもしれない。
アルガンは、彼の頬を伝う雫を見つめながら思う。
ずっと自分はここにいてはいけないのだ、と。そう思っていたから、口にしたことはなかったけれど。
本当はアルガンも、みんなで旅をすることが楽しくて堪らなかった。
彼らなら自分がいなくても、楽しい旅を続けられると思っていたけれど。そこには自分が必要だと、不可欠なのだと言ってくれているのか。
視界が滲んで、チャッタやムルの顔がぐちゃぐちゃになってしまう。
本当は、ずっとそれを望んでいた。許されるならば、このまま。
胸の奥をこじ開けて、そこに閉じ込めていた『願い』を口にする。小さなアルガンの声は、頼りなく震えていた。
「俺、みんなと一緒にいてもいいのかな……?」
他の人からすれば、あまりにもささやかな願い。けれど、彼にとっては一生分の勇気を振り絞った問いかけだった。
滲んだ視界から、チャッタの幸せそうな笑みが浮かぶ。
「むしろお願いしたいくらい。僕たちはアルガンが必要なんだから、もう一人にならないで」
彼はアルガンの両手を取った。繊細だと思っていたチャッタの手は、想像よりも力強くて頼もしく、温かかった。
「あ……」
どうしよう。まだ敵の攻撃は続いているのに。危険な状況に変わりないのに。
アルガンはチャッタの手を握ったまま、崩れ落ちるように膝をつく。
彼の口から嗚咽が洩れ、次第に大きくなっていく。
やがて、幼い子どものように声を上げ、アルガンは泣いた。
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