第61話 武人と蜂
金属がぶつかり合い、澄んだ音を響かせる。ムルは針を真横に掲げ、振り下ろされた刃を受け止めていた。
予想通り、重い。
痺れが指先から肩の方へ上がってくる。
シルハはそのまま重心を前に移動させ、ムルに覆い被さるかのように力をかけていく。膝にまで痺れと痛みが走った。
このままでは押し切られてしまう。
ムルは針を斜めに傾け、相手の切先を滑らせた。同時に体を横にずらし、シルハの脇を抜け離脱する。
「逃がさん!」
しかし、シルハは即座に身を翻し、刃を下から上へ振り上げた。伸び上がる斬撃がムルの後を追う。ムルは咄嗟に体を捻り、上から針をぶつけた。
反動で腕が跳ね、危うく
体を仰け反らせて回転し、ムルは後ろに大きく跳び下がった。
シルハの剣が届く間合いの、僅かに外。
靴裏が砂を巻き上げ、大地に土色の軌跡を描く。
刺すような冷たさを持つ夜風が、頬の傷をピリッと撫でた。
ムルは膝に力を込めると、地を蹴りシルハに向かう。一息に距離を詰め、腕を振った。
逆手に持った針が狙うは、シルハが身につけた鎧の隙間。
シルハが剣を垂直に立て、針を受け止めた。
力のままに押し返され、ムルの体は後ろへ吹き飛ばされる。シルハがこちらへ向かってくるのが見えた。
靴底が地に触れたと同時に、ムルは再び地を蹴る。なぎ払うような刃をかいくぐり、懐へ潜り込んだ。
「させん!」
シルハは足を後ろへ引くと同時に、剣を上から振り下ろす。間一髪でムルの目先を刃が掠めていく。
大きく後ろへ跳んで攻撃を躱し、ムルはシルハとの距離を開けた。
心臓の音がうるさい。ムルは軽く息を吐き出し、敵の武器を凝視する。
あれだけ長い剣だ。懐に潜り込むことができればと思っていたが、そこはシルハも警戒しているようである。
「全く、よく動けるものだ」
呆れたような感心したような口調で、シルハは剣を正眼に構える。
鋭い眼光は真っ直ぐムルを射抜いていた。鷲のように獲物を見据える鋭い眼光、その光には全く覚えがない。なのに、どうして。
胸を破いて、飛び出してきそうなほど高鳴る鼓動。戦いの緊張や恐怖ではない、喜びにも似た高揚感で心が満たされている。
どこか懐かしくて寂しい、この感情は何だ。
思わずムルは口を開く。
「あなたは、俺に、会ったことがあるか?」
「会ったことがあるも何も、私も貴様たちもあの夜、あの場にいただろう⁉︎」
シルハは眉間の皺を濃くして、嘲笑する。馬鹿なことをと、その表情が雄弁に語っていた。
ならこれは、この胸を満たす感情は一体、どこから来たのだろう。
不意に聞こえる空気を裂く音。気づけば目前に、白刃が迫っていた。
シルハが大きく腕を突き出し、ムルの左胸へとその凶器を伸ばす。
「――っ」
避けなければと思う前に、ムルは体を捻っていた。左肩の傍を刃が抜けていった、かと思えば、すぐに引き戻されていく。
耳の傍で風が鳴る。右頬ギリギリを掠め、次の攻撃が通り過ぎていった。
シルハは攻撃が避けられたと見るや、すぐに腕を引き、次の攻撃に転じていたようである。
避けられたのは偶然か、それともこの剣と戦ったことがあるという、奇妙な既視感のせいなのか。
ムルはわざとその場に片手をつくと、なぎ払うような回し蹴りを放つ。狙うは敵の脛の部分。
しかし目標を失ってその足は空を蹴る。シルハは脇を締めながら剣を戻し、身を後ろへと引いた。
二人の間合いが再び開く。しかし息をつく間もなく、互いに駆け寄り刃を合わせる。ぶつかって押し合い、反発したように離れ、また組み合う。
繰り返す攻撃の合間を縫って、シルハが声を張り上げた。
「貴様ら、何が目的であんなことをした⁉︎ 兵たちを生きたまま燃やすなど、人間のすることではないぞ!」
「俺がやったわけじゃない」
二人は得物を合わせて競り合う。長剣と一本の針が隔てた至近距離で、ムルはシルハの顔を見上げた。
怒りで燃えたぎる瞳の中に、人形のような自分の顔が映っている。
それが相手の逆上を誘ったのだろうか、シルハの怒りは熱量を増して、殺気がチリチリと頬を焼く。
「ああ、そうだな! 貴様の仲間がやったのだったか⁉︎ 悪魔の力を持つ、あの少年は何者だ⁉︎」
固く結んだ唇の奥で、ムルは強く歯を食いしばる。
悪魔なんて、そんな風に言うな。
あんな悲しい悪魔がいるものか。
「俺たちの誰もやってない。アレをやったのは別の人だ。それに」
片足を上げ、シルハの手首を蹴り上げる。僅かに相手が怯んだ隙を狙い、迫り合いから抜け出した。
風が止み、ムルの凜とした声が一層強く響く。
「彼はただの、優しい人だ」
シルハが息を呑む音が聞こえてくる。
「優しい、だと……⁉︎ 何を」
「優しいよ」
ムルは僅かに隆起した大地を利用し、天高く跳躍した。ハッと目を見開いたシルハは、あてもなく視線をさ迷わせている。ムルの姿を見失っているようだ。
「優しいから、あんなに苦しむんだ」
振り下ろしたムルの針が、シルハの頬に赤い線を描く。咄嗟に避けられてしまったか。これでは、十分な毒の効果は得られない。
ムルは着地と同時に距離を取る。
しかし、この場面で、シルハに隙ができたということは。
突破口が開いたかもしれない。
「――随分と長引かせてしまったな。互いにそろそろ、決着をつけたいところではないか?」
シルハは長く息を吐くと、唇の端を軽く歪めた。
「そうだな」
ムルが応えるとシルハは腰を深く落とし、剣を顔の横で構える。恐らくまた突きがくる。
ムルは針を手の中で回すと、逆手に持ちながら足を肩幅に開く。
風が二人の間を吹き抜けた時、先に動いたのはシルハだった。
気迫を込め一瞬でムルとの距離を詰め、白刃を前に突き出す。岩をも貫く凶刃は、弓矢のように真っ直ぐムルの喉元を狙う。
ムルは駆け出した。真っ直ぐ自ら貫かれに行くかのように。
シルハの眉が上がり、切先がブレて一瞬動きを止めた。その一瞬があれば、十分。
ムルは身を屈め、針を刃の
目線を僅かに上げ狙うは、その一点のみ。
右手の針を逆手に持ち替え、ムルはシルハの脇腹に針を突き立てた。
「……はっ」
相手が怯んだ瞬間、ムルは針を引き抜き、素早く背中へ回る。そして首の後ろへもう一刺し。
シルハが両膝をつき、砂埃が白く砂漠に舞った。
「何故、向かってきた……? 死ぬつもりだったか……?」
地面に這いつくばり、全身を小刻みに痙攣させながらも、シルハは問う。初めてその顔を見下ろし、ムルは淡々と告げた。
「俺と話をした後、あなたには明らかな隙ができた」
大罪人であるはずの男から発せられた優しいという言葉、シルハは明らかに動揺していた。
「あなたは俺を、本気で斬ろうとしていなかっただろう?」
シルハの両目が見開かれた。気づいていなかったのか、言い当てられてしまったことに驚いたのか。
悔しそうに息を漏らし、シルハは枯れた大地に爪を立てた。
もうとっくに動けなくなっていてもおかしくないのに、シルハは剣を支えに膝を立て、ゆっくりと立ち上がる。
「俺の甘さが原因だとはな。しかし、これでは死んだ部下に申し訳がたたん。まだだ。もう少し、付き合ってもらうぞ……!」
ムルは僅かに目を丸くする。
もしその死んだ部下が、この空間に横たわる兵士たちのことを言っているのであれば。
申し訳なくも少し愉快な気持ちになって、ムルはゆっくりと首を横に振る。
「誰も死んでいないから大丈夫。少しの間、眠るだけだ」
だから安心してくれ。
訪れた沈黙。風に混じり複数の規則正しい息遣いが聞こえてくる。この場に複数の命が息づいている証だ。
シルハは思わず絶句する。
「そっ……それは、どういうこ」
緊張が解けた瞬間、一気に毒が回ったのだろう。
言葉を最後まで発することなく、シルハはその場に倒れ伏した。
彼が手を差しのべると、強固だった檻が形を崩していった。耳の奥を優しく擽るような音を立て、星屑のように光りながら、徐々に大地へと降りてくる。
手のひらに収まるほどの球体となったそれを、彼は大切そうに懐へ閉まった。
ムルは岩影に視線を向ける。彼はそこに倒れたシルハたちを移動させていた。
傍らには兵士たちが乗っていたラクダを繋いでいる。一頭だけ借りてしまったが、まぁ良いだろう。
彼は傍に立つラクダの体を優しく撫でた。
シルハたちが目覚めるのは、早くとも明日の昼以降。日差しを少しでも避けられる場所でないと干からびてしまう。
そして目覚めた彼らは、ここでムルたちと出会ったことを忘れているはず。
十分、時間は稼げた。
ムルはラクダに飛び乗ると、チャッタの後を追って駆け出す。
カンデウの場所は西。チャッタはどのくらい進んでしまったのだろうか。自分も急がなければ。
幸いラクダは、大人しくムルの指示を聞いてくれている。力強く地を蹴り風を唸らせ、砂漠の夜を駆けていった。
シルハという人が、善い人で良かった。ムルはそう思ってため息をつく。
正直、新たにできた細かい傷はピリピリと痛むし、リムガイに斬られた場所もひきつったような痛みが走っている。魔術も十分に使えない状況で、本気で向かってこられていたら危なかったかもしれない。
ムルはシルハの姿を思い浮かべる。
細身とは言え、身丈の半分以上もある剣を操る武人。自分も体格に恵まれていたら、あんな風に戦ってみたかった。
呑気にそう思った時、柔らかくも力強い声がよみがえってくる。
『ムルにはムルの得意なことがある。それを見つけていけばいい』
「あ……」
そうだ。確か、自分にそんなことを言ってくれた人がいた。
一体、誰だろう。
頭が割れるように痛み、ムルは額を抑えた。ぐらりと視界が揺れて、体を前かがみに折り曲げる。
何か、何かを思い出しそうな。けれどまだ、足りない。
荒い呼吸を整え唾を飲み込む。
ぼやけた視線に、深い藍色に染まる地平線が映った。夜明けまで、まだ時間がある。
「少し、休もう」
ラクダに身を任せ、ムルはふっと両目を閉じた。
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