第60話 奇妙なことばかり
月が明るい夜は、動きやすくて有難い。シルハはそう思いながら、夜闇に慣れた目を細めた。
水の檻は半透明で、月光を遮ることなく淡く光を反射している。
半円状に覆われた大地、周囲にはラクダの瘤のような岩石が露出し、枯れた大地に影を落とす。
その中心で敵と対峙していると、まるで闘技場の中にいるような気すらしてくる。観客が端に身を固めたラクダだけというのは、あまりにも締まらないが。
シルハは構えを解くことなく、岩影に佇む
水の魔術を使うということは、この男は元々神官だったのだろうか。しかし、現役の神官と言えど、ここまで水の扱いに精通している者は少ない。
だとしたら、一体何者だ。
敵に囲まれているにも関わらず、青年は表情を変えることなく立っている。影が落ちた
夜空に散った星屑、または日光を受けて輝く水面のようで、罪を犯した者とは到底思えない清浄な輝きだ。彼は本当に罪人なのだろうか。
浮かんだ疑念を、シルハは歯を食い縛って胸の奥へと追いやった。
「一人だからと言って油断するな! 取り囲み、反撃の隙を与えぬままに、一気に攻めろ!」
シルハの言葉に応え、部下たちが青年に飛びかかっていった。
いち早く駆け寄った兵士が、
しかし、青年はあっさり針で受け止めると、兵士の鳩尾当たりに足裏を叩き込む。勢い良く吹き飛んだ相手を見届けることなく、彼は振り返り様、片足で大きく跳躍する。
そして背後にいた兵士の首筋に、針を突き立てた。
大きく体を痙攣させ、その体がゆっくりと倒れていく。
仲間が倒れた姿に、部下たちが怯んだのは一瞬。すぐに別の者たちが二人、左右に分かれて青年へと切りかかった。
それでこそ、多くの兵の中から厳選して、戦える者を連れてきた甲斐があったというものである。
あくまで冷静に、青年はそれぞれの刃を受け止め、後ろに流す。彼の横でふわりと何かが宙を舞い、兵士たちの体に絡みついた。
「うおっ!?」
青年が腕を強く引くと、兵士たちの体が引き寄せられていく。体勢を崩した彼らに向かい、青年は針を一閃。
脇腹を刺された兵士たちは、力なく地に伏した。
彼らの体に巻かれていた布のようなものが、飛沫を上げて崩れていく。
「水……また魔術か……!?」
魔術を使う敵と戦った経験のある者は少ない。短く息を吐き、シルハは剣を構えたまま駆け出した。
これ以上被害が増す前に、自分が出る。
体躯を活かした大きな歩幅で、一歩、二歩、一気に青年との距離を詰めた。
通常の剣であれば刃の届く間合いの外、そこからシルハは右腕を後ろへ引き、一息に突き出した。
シルハの腕の長さ、そして通常よりも長い刀身が、予想を遥かに超える速度で青年へ肉薄する。
異変に気づいた青年が振り返るが、遅い。その夜空のような瞳に、迫る剣の切先が映る。
この一撃は決まると、シルハは確信した。
何かを引っかけ破いたような軽い音が響く。
シルハの刃が捉えたのは服の端のみだった。青年が素早く体を捻り、剣の一撃を避けたのである。
「な――」
尋常ではない反応速度。面食らったシルハだったが、すぐに腕を引き戻し刀身の角度を変える。
そして再び前へ踏み込み、刃を大きく青年へ突き出した。
青年は持った針を刀身にぶつけて、切先をいなす。その拍子に体勢が崩れ、彼の片膝が地についた。
好機とばかり、シルハはもう一度突く。首の辺りを狙って繰り出された切先が、青年の髪を数本切り裂いた。早くも青年は体勢を整え始めている。
攻撃の手を休めるな。
眉間に力を込めると、シルハは連続して剣を振るう。
シルハが繰り出す連続した突きを、青年は針で受け止めて弾き続ける。しかし長剣とただの細い針では、そもそもの重さが違いすぎるのだ。
致命傷を上手く交わしているが、徐々に服の袖は切り裂かれ、頬には赤い筋が走る。足はじりじりと後退していく。
その隙に、背後から別の兵士が駆け寄った。
素早く青年の脇に腕を回すと、その体を羽交い締めにする。
「シルハ様! 今です!」
卑怯とも言える行動に、シルハは一瞬、状況を忘れて怒りの表情を浮かべた。しかし、自分の任務は罪人の捕縛、それが何より優先されるべきこと。
シルハは剣を振りかぶり、身動きの取れない青年に向かって振り下ろした。
割り込むようにして、視界に何者かの顔が映る。鷲色の両目が僅かに見開かれたそれは、
思いがけない出来事に、その剣が僅かに速度を落とす。少し遅れて、白銀の刀身が自分の顔面を真っ二つに裂いた。
血飛沫にも似た音が響き、水が大地に降り注ぐ。
「これも、魔術……!?」
揺れの少ない水面は鏡のようであると聞く。シルハが大きく瞬きをすると、地面に倒れ伏した部下の姿が見えた。
捕らえていたはずの、青年の姿はどこにもない。
シルハは焦り周囲を見回した。視線を遣った範囲には、同じく忙しなく首を動かす部下たちの姿のみ。
あの青年は、一体どこへ。
「この中にいることは明白。岩影に潜んでいるかもしれん。冷静に気配を探れ!」
「は――うわぁ⁉︎」
返事をした部下の声が、途中で悲鳴に変わる。
咄嗟に剣先をそちらに向けるも、倒れた部下がいるだけだった。襲った相手は、再びどこかに身を潜めたようである。
離れた場所で、再び悲鳴が上がる。即座に視線を遣るも、またもや敵の姿はない。兵士たちの間に動揺が走った。
不味い。
恐らくあの青年は、遮蔽物に身を潜め、各個撃破を狙っている。シルハを含めた複数人を、同時に相手取るのは不利と悟ったのだろう。
心臓の音が邪魔だった。シルハは心を落ち着かせ、耳に神経を集中させる。
背後で何かが擦れるような音が聞こえた。
「そこか⁉︎」
剣で岩の背後を突く。シルハの気迫を込めた一撃は、何かを貫くことなく空を穿つ。
そしてまた、別の場所で兵士が倒れる音がした。
青年は一人ずつ着実に兵士の数を減らしていく。
兵士たちもなんとか青年の気配を追い、食らいつこうとするが、間に合わない。味方の数が減るごとに増す恐怖心が、兵たちの動きを鈍らせていった。
今やその場は、完全な青年の独壇場であった。
「ぐぁっ……!?」
シルハのすぐ隣で、くぐもった部下の悲鳴が聞こえる。間髪入れず、シルハは部下の背後に突きを繰り出した。
しかし、何も手応えを感じることなく、再び刀身は空を貫いた。
部下は重い音を立てて崩れ落ちる。
いつの間にか、立っているのはシルハのみとなっていた。
静寂の戻った空間を、冷えた夜風が吹き抜けていく。青年はまだどこかに潜んでいるのだろう。
ずっと監視されているような居心地の悪さが、シルハの体にまとわりついた。
冷静な思考と判断力、この気配の殺し方。あの青年ただものではない。
やけに戦い慣れている。
「全く、奇妙なことばかりだ」
シルハは口元を歪め、腰を深く落として剣を構えた。
思えばこの任務を受けた時から、ずっと、何かがおかしかったのである。
「どういう、ことだ……⁉︎」
凶徒を取り逃がした叱責を受ける覚悟で、シルハたちは王都にあの事件の報告を入れた。
被害の状況、犯人とおぼしき者たちの特徴。そして、怪しい人物を取り逃した責任を取り、自分たちが彼らを追跡したいという旨を添えて。
連絡用の鷹を飛ばし、返答を待ったのである。
早々に返ってきた王都からの指示、その内容は驚くべきものであった。
手配書を出し件の者たちを捕らえることとする。
また、シルハたちには希望通り、その者たちを追うことを命じる。
ここまでは良かった。
しかし追う相手は二名。しかも、最も怪しい炎の魔術を扱う黒髪の少年が除外されていたのである。
混乱したシルハは、思わず理由を問う鷹を飛ばしていた。
それへの返答も、余計なことは考えずとにかく命に従うべしと、有無を言わせぬものであった。
おまけに、『生死は問わない』と目を疑う一言が付け加えられている。
確かにあの者たちは怪しい。だが、ろくに調べも弁解もさせず命を奪ってしまって良いはずがない。そんなことを、国がして良いはずがない。
シルハは部下に指摘されるまで、その司令書を握りつぶしていたことに気づかなかった。
しかし、あくまで自分は王に、そして国に従う者。その命に逆らえる訳もない。
現状他に、剣の腕を活かせる職などないのだから。
構えを解くことなく、シルハは気配を探る。
青年の針という武器とあの動き、体格から見ても腕力はそこまでではない。
自分が出てきた時点で騙し討ちに切り替えたところを見ても、一対一、小細工なしのぶつかり合いなら、むしろこちらに利があるのではないだろうか。
しかし、ヤツには魔術が。
そこでふと、シルハは思う。
何故青年は、攻撃に魔術を使わないのだろうかと。
確か、神官たちが水の魔術を使う時は、体に隠し持っていた水を使っているようだった。
しかし青年の場合、この檻に使っている水を使えば、いくらでも攻めることができる。それをしないと言うことは、即ち。
シルハはわざと声を張って、この場のどこかにいる青年へ呼びかけた。
「小細工ばかりに魔術を使うものだと思っていたが、貴様、魔術を使わないのではなく、使えないのだな!」
使えるならば、もっと簡単に決着がついていた。一旦檻を形作ってしまった水は、どういう理由かは知らないが崩せないのだろう。
攻撃に転じるだけの
檻を壊せば攻撃の手段は増えるかもしれないが、壊れた瞬間、シルハは迷わずもう一人の罪人を追う。
それは青年も予想しているはず。
であれば。
「俺は逃げも隠れもしない! かかってこい!」
シルハの声が朗々と響く。
風が砂塵を巻き上げて、背後から砂利を踏む音が聞こえた。
振り返ればそこに、針を携えた青年が立っている。
「正解。俺の武器はこれだけだ」
諦めているのか、それとも馬鹿正直なだけか。青年は淡々と告げると、手のひらの中で針をくるりと回した。
改めて見れば、すぐに折れてしまいそうなほど細く繊細な得物である。
シルハは口の端を持ち上げ、青年に飛びかかっていった。
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