第59話 籠の中の蜂たち
太陽が地平の彼方へ沈み、
チャッタは肩を落とし、長く息を吐く。白磁のような頬を、焚き火が赤々と照らしていた。
彼らが夜営をしているのは、多くの岩石が存在する砂漠の中である。巨大な岩の影は、追っ手から姿を隠しやすい。反対に敵の姿も見えづらくなってしまうが、今夜は風の音すら密やかな夜だ。耳を澄ませていれば、きっと音が危機を知らせてくれるはず。
積み上げた薪が小さな炎の中で崩れていく。火の粉がかからないよう注意しながら、チャッタは巻いた羊皮紙を広げた。
リペと書かれた文字を確認し、羊皮紙を持ったまま腕を右に移動させる。岩山を表す絵をいくつか越えた先に、カンデウの文字が現れた。
「あと、どのくらいだ?」
水を一口飲み下して、向かいに腰を下ろしたムルが問いかけた。
「距離自体はそう遠くないよ。けど、この辺りは岩山が連なってる。乗り越えるか迂回するかで変わるけど、どちらにしても二日か三日はかかりそうだね。急ぎたいところだけど」
チャッタは地図から顔を上げ、月を見上げる。この調子だと、満月までに到着できるかどうかは怪しい。
急ぎたい気持ちはあるが、ムルは怪我をしたばかりである。今日だって、リペを脱出してから休まず進みつづけてきたのだ。
今後も彼の様子を見ながら、できる限り先を急ぐしかないだろう。
「俺の怪我のことは気にしなくても良い」
チャッタの表情を見てか、ムルがそう口にする。
「何言ってるんだ。心配して当たり前だろう? それに考えたくはないけど、アルガンの行く先にはリムガイがいるんだ。戦闘は避けられないだろうし、休める時には休んでおかないと」
「もう治った」
「いや、流石に嘘だよね⁉︎」
ムルもアルガンも体質的に怪我の治りは早いようだが、さすがにあり得ない。
即座にチャッタが指摘すると、ムルは口を真一文字に噤んだ。少しバツが悪そうなので、やはり嘘だったのだろう。
一呼吸置いて、彼はチャッタの瞳をじっと見つめた。
「その気持ちは有難い。けどそれで、間に合わなかったらどうしようもないだろう? 大丈夫、無理はしない。約束したからな」
その言葉が少し、いや、かなり信用できないのだが。チャッタは頭をかき、困った様子で笑った。
「分かったよ。リムガイの目的がはっきりしない以上、急ぐに越したことはないよね。少しでも早く到着できるように道順を考えるから、その間ムルは休みなよ。僕が見張りを」
「チャッタ」
小声で、しかし鋭く告げられた自分の名に、チャッタは体を硬直させた。乱暴にマントを撫でた夜風が、焚き火を揺らめかせる。
風に乗って微かに、大地を揺らす音が聞こえてきた。
「ごめん。少しだけ、無理をしないといけなくなりそうだ」
追っ手。その単語が浮かんだ瞬間、チャッタは目の前の火に砂をかけて消した。炎の明かりに慣れた視界が、真っ黒に染まる。
暗闇の中で、ムルの声が響いた。
「リペの方角から、かなりの人数が追ってきてる」
「な――急いで逃げないと!」
慌てて立ち上がったチャッタの腕を、ムルが強く掴む。視界が不自由だからか、彼はチャッタに顔を近づけた。
「反対側からも、誰か来る」
囁くように告げられた言葉で、チャッタは顔色を変える。
「しかもそっちにかなりの強敵がいる」
後ろからやってくる一行は、自分たちを追いたてる囮役も兼ねているのかもしれない。
かといって悠長にしていれば、まともに挟み討ちだ。
「それなら、前方の敵をなんとか迂回して」
ムルが黙って首を振った。無数の足音が、もう随分と大きくなってしまっている。追いつかれるのも時間の問題だ。
目が闇に慣れてきて、改めてチャッタはムルと目を合わせる。
ムルの瞳には揺るぎない決意と僅かな気遣い、そして申し訳なさが同居していた。
「俺を信じて、任せてくれるか?」
ああ、もう、本当にこの子は。
髪の毛をかき回したくなるような気持ちを抑え、チャッタはムルの肩に手を置いた。
「——分かった。けどこっちも、約束だからね?」
「ああ」
ムルは力強く首肯すると、内緒話をするように口元をチャッタの耳に寄せた。
荷をまとめ、マントのフードを被ったチャッタがラクダに
ムルはある場所から、その様子を見守っている。
チャッタが手綱を握ったところで、力強い足音と共にラクダの一団がやってきた。騎乗する人々はターバンで頭や口元を覆い、胸元には鎧、腰には湾曲した長剣を帯びている。恐らくリペの兵士たちだ。
その数は十数名、これが多いのか少ないのかは分からない。
一団から逃れようと、チャッタは咄嗟にラクダの頭を西へ向ける。
「逃がさん」
低い声が響き、新たに現れた者たちが、彼の行く手に立ち塞がった。
たった三名ほどだが、騎乗するラクダの毛並みが立派である。恐らく地位も実力も、こちらの方が高い。
月光を背負いながら、先程声を発した男が前に出た。
「まさか、こんな所まで逃げおおせていたとはな」
「シルハ、さん……!?」
チャッタが驚いた様子で声を発した。シルハと呼ばれた男は、無言でチャッタを睨みつけている。
獲物を射ぬくような鳶色の眼光。太い眉を怒りで吊り上げた形相は、正に戦いを生業とした武人だ。
「まさか、虫も殺せないような風貌をした貴様が、大罪人だったとはな。分かっていれば、あの時捕らえていたものを」
「違うんです! それは、誤解で」
「言い訳は牢の中で聞こう」
シルハはピシャリと言い放つと、ラクダに騎乗したまま剣の柄に手をかける。
他の兵士たちも、彼を取り囲むように散開し始めていた。チャッタを中心に円を作って、兵士たちは少しずつその距離を狭めてくる。
ここだ。
ムルは頃合いを見計らい、魔術を解き放つ。
兵士たちを取り囲むように、大地から水の柱が噴き出した。
「な――」
天を突くように上がった無数の柱は、まるで意思を持つように動き形を変えていく。水と水が合わさって格子状に編み上がり、チャッタたちごとこの場全体を覆っていく。
シルハたちの注意が逸れ、一瞬足が止まる。その隙にチャッタが二頭のラクダを一斉に走らせた。
一部の水が、ラクダたちの足下に集まっていく。それは長く伸びて道となり、彼らを空高く導いて。
チャッタはシルハたちを飛び越え、水の隙間から外へ飛び出した。
「うわっ」
着地の瞬間、チャッタは軽く悲鳴を上げたが、持ち直し砂漠の向こうへ走り去っていった。
彼らを導いた道は元の水へと戻り、通り抜けた隙間は瞬く間に塞がっていく。
そしてシルハたちは、檻の中に閉じ込められてしまった。
「水の檻……⁉︎」
「くそ、まさかこれだけ大量の水があったとは」
戸惑う兵士たちを眺めながら、ムルは潜んでいた岩影から姿を現す。
「少し気にいらない人の真似だけど、やっぱり便利だな」
ネイラに水をたくさん分けてもらえて良かった。そう思いながら、ムルは右手の針を強く握る。
シルハたちは彼に目を向け、驚愕で息を呑んだ。
「貴様……ここに残っていたのか……⁉︎」
ムルはシルハたちと同じく、水の檻の中にいたのだ。
「逃げても、どうせ追いかけてくるんだろう? ならここで片をつける」
それに自分が離れた途端、この檻は崩壊してしまう。少しでも長く追っ手を足止めするには、ここに残るしかなかったのだ。
「貴様、確か、負傷していたのではなかったか? それで我々を一人で相手取る、と。舐められたものだな」
シルハはムルの体に視線を巡らせ、憎々しげに吐き捨てる。
リムガイが去った後に現れたのは、この男たちだったのか。ムルは納得したように頷いた。
「怪我なら、もう治った」
そう淡々と告げて、彼は持った針を手の中でくるりと回す。
兵士たちが次々とラクダから下り、剣を抜き放つ。彼らの放つ殺気でムルの首の後ろが粟立った。
シルハも騎乗するラクダから飛び下り、剣の柄を握りしめる。
「悪いが、本気でいかせてもらう」
そう告げながら、シルハは腰に帯びた剣を滑らせるように抜き放つ。月光を反射して銀色に光る片刃の長剣。一般的な剣よりも刀身が細くて長い。
切るよりも突き刺すことを重視したような。
その刃を目にした瞬間、何故かムルの心臓は不自然に脈打った。
夜風を切り裂いて、二頭のラクダは渇いた大地を駆け抜ける。頬や耳が冷たさで痛みを覚えた。
チャッタの隣を走るラクダには、荷物やマントで人間に偽装したニョンが乗っている。ムルが一人、離れた場所に潜んでいることを悟らせないためのものだ。近くで見ればお粗末な出来だが、闇が味方をしてくれたようである。
追っ手が迫ってくる様子はないし、一先ず作戦は成功したようだ。
ラクダに揺られながら、チャッタはフードを少し持ち上げる。
まさか、かなりの強敵の正体がシルハだったとは。ムルは本当に大丈夫だろうか。
心配だが、今の自分がするべきことは、前に進むこと。そして、ムルの強さを信じることだ。
不安を振り払うように、チャッタは首を横に振る。進むべき方向を見定めるため、頭にカンデウまでの地図を思い浮かべた。
「あれ……?」
ふと覚えた違和感。チャッタは思わずラクダの足を止めた。隣のラクダに乗ったニョンが、奇声を発してラクダに止まるよう指示を出している。
チャッタは荷の中から地図を取り出し、広げた。
地図に描かれた集落はカンデウだけではない。地図上には多くの集落や小さな町が記されている。
何故、この中からカンデウは選ばれたのか。
彼は指で地図をなぞる。そして、気づく。
数多く存在する集落の、ちょうど中心に位置しているのがカンデウだ。
リムガイは、何と言っていただろうか。国の水を確保するため、集落を減らして回ってると言っていなかったか。
「まさか……⁉︎」
彼の頭に恐ろしい考えが浮かぶ。
どうする、誰かに相談するか。いや、そもそも相談するような人も時間もない。
悩んだのは、数秒だった。
チャッタは両目を閉じる。
これはあくまで自分の想像だ。けれど実際に集落が燃やされていて、凶徒たちはまだ近くにいる。
想像が正しければ、たった一晩で大勢の人が死ぬ。そんなことは絶対に許されない。
自分に何ができるかを考えろ。きっと、できることがあるはず。
チャッタは目蓋を持ち上げた。
「ごめん、ニョン。目的地変更だ」
彼はラクダの鼻先を西から少し北へズラす。
間に合うだろうか。いや、絶対間に合わせる。
決意と覚悟を胸に秘め、チャッタは手綱を強く振るった。
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