第57話 助っ人はあの人
「でもムル、約束して。怪我が治るまで絶対に無理はしないこと! まだ完治した訳じゃないんだからね」
チャッタの念押しに、ムルは素直に頷く。仕草だけなら聞き分けの良い子どものようだが、あのムルのことだ。油断はできない。
チャッタは、彼から目を離さないようにしようと決意した。
「さて、アルガンを追うと決めたからには、準備をしないとね」
リムガイは、満月の夜にカンデウという集落で仕事だと言っていた。カンデウは集落の名前だろうから、次の標的なのだろうか。
次の満月まで五日、いやもう四日だ。のんびりしている暇はない。
「リムガイが言葉通りに行動を起こすとは限らないしね……」
その時、控えめなノックの音が部屋に響いた。
「ごめんなさい、チャッタさん。今、良いかしら?」
扉の向こうから聞こえたのは、ネイラの声である。
「ネイラさん! ああ、ちょうど良かった。僕もお話をしたいと思っていたところだったんです」
チャッタが声をかけると扉が開き、ネイラが緊張した面持ちで顔をのぞかせた。
「ごめんなさい。二人きりにして欲しいって言われてたのに――って、ムルさん⁉︎ 目が覚めたの?」
平然と立つムルを目に止め、ネイラは目を丸くした。彼女はすぐに彼の全身へ視線を巡らせ、長い息をつく。
「良かった……起き上がれるくらいになったのね。あ、でも無理はしちゃダメよ?」
「平気だ。チャッタと同じことを言うんだな」
「当たり前だろう。心配してくださってたんだから」
チャッタが苦笑すると、ネイラが我に返って短く声を発した。
「そうよ。それより、大変なことになってるの!」
強張った顔のネイラが、チャッタに近づく。彼女の手には、目の粗い紙が一枚握られていた。
「まずは、読んでみて。実際に見てもらった方が良いと思うから」
意味深な言葉に首を傾げながらも、チャッタは紙面に目を落とす。
そして、ギョッと目を剥いた。
大きく書かれた「指名手配」の文字。
そして身に覚えのない罪状と、身に覚えのありすぎる身体的特徴が書かれている。どうやらリムガイがやったことが、チャッタたちのせいにされてしまっているようだ。
彼は手配書の文章全てに目を通し、そこで思わず眉を顰めた。
「なんで、僕とムルだけ?」
挙げられている罪人の特徴は、二人分。書かれている内容からして、恐らくムルとチャッタのみだ。
何故かアルガンが除外されている。
「シルハさんたちに目撃されたのが、あの状況だったからね。手配や冤罪自体は多少の覚悟はしてたけど……。でも、何故アルガンの事が書かれていないんだろう? むしろ彼が一番目立っていたはずなのに」
チャッタがふと顔を上げると、口を開けたままこちらを見つめているネイラと目が合った。
「いえ、あの、意外と冷静なんだなって思って」
「ああ。まぁ、ここまで悪い方に事が運んでいると、逆に冷静になれると言うか……。不可解なこともありますし」
手配書に書かれた「生死を問わず」という物騒な文言は、一先ず見なかったふりをする。
何か言いたげなネイラに、チャッタは柔らかい笑みを浮かべた。
「でも、最悪の事態は防げたみたいですね。ネイラさんが無事で良かったです」
ムルがその言葉に同意するように頷く。ネイラは申し訳なさそうに目を伏せた。
暗くなってしまった空気を切り替えようと、チャッタは彼女に声をかける。
「ところで、この手配書はどこで?」
「あ、それは商業区の広場に貼り出されていたらしいの。この通り、おばあちゃんが回収してきてくれたけど、別の区画でも貼り出されているかもしれないわ。情報が広まるのは時間の」
意外な人物の登場に、チャッタは思わず話を遮った。
「え、ちょっと、待って下さい。ネイラさんのお婆様?」
「そうだね。少し失礼するよ」
嗄れ声と共に、小柄な人物が部屋に入ってきた。手に持った杖が床をつき、コツコツと音を立てている。
「おばあちゃん……」
「もう手は出してしまったし、ついでに口も出させてもらおうかと思ってね」
そう言って彼女は、唇の端を吊り上げて笑う。
髪は綿のような白髪。重く下がった目蓋の間からは、炭のように真っ黒な瞳が覗く。年齢を重ねていることもあってか、顔の作り自体はネイラとあまり似ていない。
しかし笑い方や、まとった雰囲気がよく似ている。話し方も仕草も、年齢よりずっと若々しく見えた。杖をついているのに、腰があまり曲がっていないせいもあるのかもしれない。
彼女はチャッタとムルの前までくると、腰を折り深々と頭を下げた。
「初めまして、だね。私はこの子のばあさんで、ミレイナと言うんだ。孫とうちの猫が迷惑をかけたみたいで、本当に申し訳ない」
「いえ! むしろ僕たちの方が、彼女に迷惑をかけてしまったんです。大切なお孫さんを危険な目に遭わせて、申し訳ございませんでした」
恐縮して、チャッタも慌てて頭を下げる。ムルも気にしないで、とばかり首を横に振った。
「それよりも、手配書のことありがとうございました。その、大丈夫だったんですか? 剥がして、持ってきて下さったんですよね」
ミレイナは鼻を鳴らして、チャッタの心配を一蹴する。
「何、杖をついた老人が、ちょっとよろけた拍子に偶然手が当たっただけのことだよ。念の為、適当なものとすり替えてはおいたけど、単なる時間稼ぎにしかならないだろうね」
「もう、おばあちゃんったら……。それ、
「元案内人だよ。これはただの隠居の嗜みさ。世の中何が役に立つか、分からないからねぇ」
孫の指摘にも、ミレイナは悪びれもせずに平然としている。
そう言えば彼女は若い頃、勝手にオアシスの壁を乗り越えていたと宿の主人が言っていた。
どうやら噂に聞くように、かなりクセのある人物のようだ。
「ええー、僕たちはとにかく、この手配書が広く出回る前に、リペの町から脱出した方が良いですね」
「そうだね。ちなみにネイラから聞いたが、お前たちもう一人ツレがいたんだろう? 事情は知らないが、その子を追うってことで良いのかい?」
ミレイナは平然とした態度でそう尋ねた。
ネイラには、ただアルガンとは別れたと告げていたので、彼女の認識としてもその程度なのだろう。
少し前なら躊躇っていたであろう言葉に対して、チャッタは力強く頷いた。
「ええ。そのつもりです。とりあえず、彼はカンデウという場所に向かっていると思うのですが」
ご存知ですか、と尋ねようとしたチャッタは、ミレイナの様子を見て思わず口を閉じる。
その名を出した途端、彼女の表情に驚愕と疑念が浮かんだのだ。
ミレイナは沈痛な面持ちで、首をゆっくりと横に振る。
「カンデウねぇ……それはおかしな話だ。その集落は数日前に、全て燃え尽きたって聞いたよ」
チャッタは顔色を変えて息を呑んだ。ネイラは思わず声を上げ、ニョンも奇声を発している。
「な——本当なの、おばあちゃん?」
「おやおや。元リペ一番の案内人の情報網、甘くみるんじゃないよ。確かな筋から聞いた情報さ。……残念なことにねぇ」
得意げにも聞こえる台詞とは裏腹に、彼女の表情は暗い。燃え尽きたとは恐らく、言葉通りの意味だろう。
チャッタの頭に、リムガイが引き起こした悪夢が蘇る。
「本当に、アンタたちのツレはそこに行くと言ったのかい?」
「ツレがと言うか、彼が追っている人物がそこにいると言っていたものですから」
どう言うことだろう。
チャッタはてっきり、リムガイたちが満月の夜にそのカンデウを襲うのだと思っていた。それが既に燃え尽きている。
「もしかして、いや、もしかしなくても、カンデウに集まって何かをする気なのか……?」
唇に手を当て呟くチャッタの顔を、ムルが覗き込む。
「とにかく、カンデウという集落に行くのか?」
「ああ、現状手がかりはそこだけだしね」
何か恐ろしい計画が動いている気がしてならないが、とにかく今はアルガンと合流することが先決だ。チャッタはムルと目を合わせて頷く。
その様子を見ていたミレイナは、軽く微笑んだ。
「そうかい。じゃあ、カンデウ周辺の詳細な地図と食料と水を」
彼女が言いかけたその時、部屋の扉が荒々しく叩かれた。
返事を待つのも惜しいという様子で飛び込んできたのは、宿の主人のカジである。
「大変だぞ、お前ら!」
「カジおじいさん、どうしたの慌てて」
手配書のことは聞いてるな、彼はそう前置きした上で、緊張した面持ちで喉を鳴らす。
「お前たちの手配書、もうかなり出回ってるみたいだぞ。ウチの周りでお前たちを見たって奴等がいて、さっき町の兵士が訪ねてきたんだ」
彼の言葉を聞いたミレイナは、舌打ちでもしそうな表情で吐き捨てた。
「参ったね。もう少し粘れると思っていたよ」
「いいえ。ありがとうございました。僕たちは一刻も早くこの町を出ます」
正直、ムルが目を覚ますまで時間が稼げただけでも有難い。
チャッタは感謝の意を込めて、頭を下げた。
しかし、今すぐ出るとは言ったものの、きっと町の出入り口は封鎖されている。正攻法では出られない。
変装をした所で、すぐに見破られてしまうだろう。
「いっそ夜の方が良いのか? いや、当然警戒されているよね。どうにか見つからずに脱出する方法を考えないと」
「ネイラ」
その時、ミレイナが毅然として孫の名を呼んだ。
彼女は杖を鳴らしてネイラに近づき、真正面からその目を見据える。
ネイラの瞳は揺らぎ、まるで自分の身を守るように、拳を胸の前で強く握っていた。
「怖い目に遭ったってことは分かるが、そろそろ気持ちを切り替えな。お前は
ネイラはハッと息を呑んだ。
不安定に揺らいでいた瞳が、徐々に確かな光を帯びていく。
「まだまだ経験も知識も少ないお前だが、小さい頃、よく迷子になっていただろう? この町の道は複雑だ。ひょっとして、私も知らない妙な場所に迷い込んでたりはしてないかい?」
ネイラは少し俯き、指先を顎に当てる。自分の頭の中にある記憶を、必死で探っているようだ。
やがて彼女は顔を上げ、唇の端を吊り上げて笑う。
「――ありがとう、
ネイラは、頼もしい案内人の顔をしていた。
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