第56話 それが君の強さ
アルガンが出ていってしまって、どのくらいの時間が経っただろう。
「『駄目だと思ったら、お互いすぐに別れるって』、なんでそんな風に決めちゃったんだろうね」
チャッタの震えた声に反応したのは、ムルの傍で眠っていたニョンだった。黒胡椒のような目でチャッタを見上げ、悲鳴を上げる。
泣いている彼に驚いたようだ。
「あ、ニョン。ごめんね、心配かけて」
その時、ムルの睫毛がふるりと揺れた。そしてゆっくりと、両の目蓋が持ち上がる。チャッタは慌てて濡れた頬を拭った。
開かれたムルの瞳が、何かを探すように彷徨っている。
「にょにょー!」
ニョンがいち早く喜びの声を上げ、彼の頬に擦り寄った。
「あ、ムル、その……良かった! 目が覚めたんだね。どこか痛むところはある? えっと、覚えてるかな、あの後、君倒れちゃって……、あ、ここは泊まるはずだった宿だよ。ネイラさんがご主人と交渉してくれて……そうそう、ネイラさんはちゃんと無事だから安心してね!」
脈絡のない話し方だった。ムルに話す隙を与えたくなくて、チャッタは思いつくまま言葉を発する。
こんな事をしても無駄なのに、ムルに何かを言われるのが堪らなく怖かった。
ムルが首を持ち上げて、それからゆっくりと上半身を起こす。僅かに眉を顰める姿を見て、チャッタは慌てて椅子から腰を浮かせた。
右肩から胸の辺りにまで巻かれた包帯が痛々しい。
「ムル⁉︎ 駄目だよ、まだ寝てないと傷が」
「チャッタ」
彼の澄み切った瞳がチャッタを見つめる。こちらが抱えた罪悪感をも見透かされてしまいそうだ。
視線を逸らす間もなく、ムルが彼の名前を口にする。
「アルガンは?」
ああ。
胸に刃を突き立てられたような痛みが走った。力なくチャッタは椅子に腰を下ろす。
ムルの視線から逃れるように俯くと、膝の上で拳を強く握った。
「アルガンは、その――」
言い訳を探して思考を巡らせた。しかしムルの瞳は嘘をつくことを許さない雰囲気がある。チャッタは喉を鳴らして、諦めたように告げた。
「リムガイを、追うって」
「一人でか?」
ぐっと息を詰まらせて、チャッタは押し黙る。自分の不甲斐なさに体が強張って、それきり何も言えなくなってしまった。
沈黙を破って、寝台が軋む音が響く。ムルが何も言わずに立ち上がり、棚の上にまとめていた衣服を手に取った。彼は早々に衣服をまとうと、扉の方へ向かっていく。
チャッタは慌てて顔を上げた。
「ムル、君は――」
「アルガンを追う」
ああ、やっぱり。チャッタの胸に生まれたのは、そんな想いだった。ムルなら絶対にそうするだろうと思っていた。
全身が冷たくなっていく。何の躊躇もなくそうやって決断ができるムルが羨ましく、とても恐ろしい。
「だ、駄目だ! 君は怪我をしてるんだよ⁉︎ それにアルガンを追えば必ず、リムガイともう一度戦わなければならない。その怪我を誰に負わされたのか、まさか忘れた訳でもないだろう!?」
チャッタは立ち上がり、ムルの元へ駆け寄る。
思わず彼の肩を掴みそうになったところを、寸前で思い止まった。
「アルガンは、自分がリムガイを止めるって言ってた。だったらもう、彼に任せよう? 無理に僕たちが着いて行ったって、きっと……邪魔になるだけだよ」
そうだ、そうに違いない。心の中の自分が叫ぶ。
チャッタの唇に、嬉しくもないのにうっすらと笑みが浮かんだ。
「そうだよ。わざわざ危険なことをしなくても良いんだ。僕たちは、今まで通り水の蜂を追いかけよう! それに、リムガイとの一件が片付いたら、きっとアルガンだって戻って来てくれるかもしれな」
「チャッタ」
ムルがこちらを振り返る。眉を寄せ、痛々しいものを見ているような視線を向けて、チャッタに問いかける。
「アルガンは本当に、戻ってくると思うか?」
思わない。
瞬時に出した答えに、チャッタは口を閉じた。
例え目的を遂げたとしても、アルガンはもう戻ってこないと、そう確信していたからこそ、必死で止めたのだから。
ムルが腕を伸ばして、チャッタの肩に手を置いた。
「俺だって、アルガンの強さを信じてないわけじゃない。でもリムガイと会った時のアルガンは、酷く震えていて今にも消えてしまいそうだった。やっぱり、一人になんてしておけない」
「そんなこと分かってるよ、僕だって‼︎ でも、どうしようもないじゃないか!?」
耳を突く鋭い音が静かな部屋に響いた。ムルの手を振り払って、チャッタは声を荒らげる。
「僕だって止めようとしたんだ! だけど、アルガンの背負うものは重すぎるし、僕には戦う力もない! それにもしも死んでしまったら僕はもう、水の蜂の謎を追う夢を諦めなければいけない! そうアルガンに言われて、それが怖くて、僕は――」
八つ当たりだ、これは。アルガンを止められなかった自分の不甲斐なさを、ムルにぶつけている。
情けない、悔しい。
ここから消えてしまいたい。
枯れ果てるまで流したはずの涙が、次から次に溢れて止まらない。
もう頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。
「チャッタは、アルガンがいなくなっても、今まで通り笑って旅を続けられるか?」
「え……」
荒れ狂っていた水面に、水が一滴落とされたようだった。そこから波紋が広がって、感情が静かに凪いでいく。
チャッタは黙ったまま、激しく首を横に振った。
「俺は、顔に出して怒ったり泣いたり、笑ったりできないから。アルガンやチャッタの感情に合わせて変わる表情が好きで、よく見てたから分かるんだ」
ムルは大きく息を吸った。その後の言葉を強調するように。
「俺たちと一緒に旅をしていて、アルガンは本当に楽しそうだった」
アルガンの表情がチャッタの脳裏に浮かぶ。感情のままに笑ったり怒ったり、揶揄われて照れたり、少し不貞腐れていたり。
チャッタがよく知るアルガンの顔だ。
「もしもアルガンが本当に望んで俺たちと別れたなら、それでも構わない。でもそうじゃないんだろう? アルガンは俺たちのために一人で行ったんだろう?」
チャッタは下唇を噛んで、小さく頷く。
「だったら俺は、アルガンを追いかけたい。このままだとチャッタもアルガンも笑えなくなる。そんなの俺は嫌だから」
チャッタが視線を上げると、強い光を湛えたムルの瞳が視界に入る。
こんな時でも彼は、他人のことばかりだ。
確かにこのままだとチャッタも、アルガンも今まで通りに笑えないかもしれない。けれどそれで、ムルを犠牲にしてしまうとしたら。
傷ついても他人を気遣う彼を見ていると、どうしても、ずっと抱えている疑惑が確信に変わってしまうような気がして。
チャッタは思わずそれを口に出す。
「水の蜂はみんなそうなのかな? 自分のことよりも他人のことに対して必死になれる、そんな人たちばっかりだったのかな?」
彼女たちは優しい種族だったと聞いている。人を傷つけることはなく、ただ自ら与えるだけの存在だったと。
「ムル。君の優しさはとても眩しいし、尊いものだと思う。けど同時に、すごく不安になるんだ。君はそうやって人を助けるために動いて傷ついて、そしていつか、いなくなってしまうんじゃないかって」
そう、だって水の蜂は、人の悪意に呑まれて滅びたのだと言われているのだから。
世界は優しくない。水の蜂がみんな彼のようだったなら、その結末が容易に想像ができてしまうのだ。
人のために自分を犠牲にして、対して悪意を持った人に抵抗する手段は持たずに、そうして彼女たちは少しずついなくなって、滅びへと向かっていく。
そんな悲劇が。
「らしくないな、チャッタ」
少し眉を吊り上げたムルが、怒ったような口調で言った。
「俺も知ってたんだ。水の蜂はどんな生き物に対しても優しくて、それでいて他人を傷つける武器を持たないから、弱いから滅びたって言う人たちが大勢いるってこと」
ムルの表情はこんな時でもほとんど変わらない。けれどチャッタには、彼が必死で言葉を紡いていることが伝わってきた。
「俺でも知ってたことを、俺よりも水の蜂に詳しいチャッタが知らないはずがない。でもチャッタは一度だって、水の蜂は優しくて弱いから滅びたなんて言わなかった」
彼の声が次第に強さを増して、チャッタの胸に響いていく。
「チャッタも優しさが弱くて脆いってことを知ってる。それでも、水の蜂はどこかで生きているって、そうでなくても、いなくなってしまったのは別の理由があるはずだって、そう思ってずっと追いかけてくれてたのは」
ムルのいつになく真剣な光を湛えた瞳が、真っ直ぐにチャッタを射抜いた。
「悪意に負けない優しさもあるって、その強さをずっと信じて、信じようとしてくれていたからじゃないのか」
『でも、水の蜂が滅びたって証拠はないんだよね? だったら、どこかで生きてる可能性もあるよね?』
昔、幼い自分は確かにそう言った。
師匠が言った「水の蜂は優しい人たちだったから」という言葉の意図が分かってしまって、それを自分はどうしても、認めたくなかったから。
自分が焦がれて憧れた美しい人たちは、決して悪意には負けないと。
この世界にもまだ、綺麗なものが残っているのだと信じて、信じたかった。
「俺が誰かと交わした約束はきっと、俺の全てを賭けても果たさなければならないものなんだ。覚えてなくても、それだけは分かる」
ムルはゆっくりと首を振る。右手を胸の前で強く握っていた。
「だから、俺は負けないし絶対に死なない。アルガンも絶対に連れ戻す。チャッタも今まで通り、俺を信じていてほしい」
チャッタは長く息を吐いて、全身の力を抜いた。
ムルは本当にすごい。
いつだって真っ直ぐで。
けれどその輝きで、益々自分の影が浮き彫りになるようだった。
「でも僕は君みたいに、そんな風に強くて綺麗な生き方はできないよ」
思わず溢れた本音に、ムルは首を傾げた。
「まるで、そんな生き方がしたいって言ってるみたいだな」
俺の生き方が、チャッタから見て強くて綺麗かどうかは分からないけど。
ムルの指先がチャッタの指にそっと触れた。
「チャッタだってできると思う。だって、これだけ一つのものを信じて、ずっと追いかけていられる強さがあるんだから」
「――っ」
ああ、どうして。ムルはこんなに。
瞳から涙が頬を伝った。冷えた頬に温かい温もりを感じる一筋だ。
本当は、諦めたくなかった。自分の夢を追うことも、アルガンのことも、両方とも。
でも、どうしても怖くて、弱い自分にはそんなことはできないと、諦めていたのに。
チャッタはムルの片手を握った。いつも冷たいその手が、今はとても温かく感じる。
「今さら、僕がアルガンを追いかけて行ったら、何しに来たんだって、アルガンに怒られちゃうかなぁ……?」
「怒られるだけだろう?」
首を傾げて、ムルが大きく一つ瞬きをする。
それがどうしたと言うような、あどけない怖いもの知らずな表情に、チャッタの唇から笑みが溢れる。
「そうだよね……!」
正直言って、まだ怖い。けれど、欲張って、自分たちの力を信じて、今はただ進んでみても良いのかもしれない。
大分遠回りをしてしまったけれど、それが自分が一番望んでいることだったのだから。
ムルの手を握ったまま、チャッタはもう片方の手で頬の涙を拭う。
まだ不明瞭な視界で見たムルの瞳は、いつも通り星空みたいで、とても綺麗だった。
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