第五章

第55話 さよなら

 冷静になれと、チャッタは頭の中で何度も繰り返した。目の前ではリペの町医者が、怪我をしたムルの治療に当たっている。使い物にならないチャッタの代わりに、ネイラと宿のご主人、カジがランタンを掲げて医者の手元を照らしていた。


 寝台に寝かされたムルを見ると、どうしても彼がリムガイに斬られた瞬間のことを思い出してしまう。


「にょ……」

 足下に何かの感触を感じて、チャッタは現実に引き戻された。ニョンがまるで自分を気づかうように、足下にそっと擦り寄っている。特徴的な鳴き声もどこか覇気がなかった。

 チャッタはニョンをそっと抱き上げる。ムルがいつも褒めていたニョンの毛並みは、少しだけ心をおだやかにしてくれた。


「大丈夫。ムルは、きっと……」

「終わりました」

 医者が顔を上げ、額に滲んだ汗を拭いながら告げた。

「酷い傷と火傷でしたが、幸い内臓器官は無事でした。安静にしていれば、いずれ完治もするでしょう」


 その言葉に、ネイラが脱力してムルのベッドの脇に座り込む。彼女の顔は花が咲いたように綻んでいた。

「良かったぁ」

 絞り出すようにチャッタも安堵の言葉を告げる。すると、喜びのあまり力が入ってしまったらしく、腕の中のニョンが苦しげに抗議の声を上げていた。


「ご、ごめんね、ニョン。でも、本当によかったねぇ、アルガ」

 言葉が不自然に途切れる。チャッタの後ろにいたアルガンは、ムルの無事を聞いても表情を変えることなく、ただじっと足下を見つめていた。伏せられた赤色の瞳が益々その色を深くしている。

 チャッタの心臓は、恐ろしい物を見たかのように大きく跳ねた。


 アルガンが僅かに顔を上げ目が合った瞬間、チャッタは思わず視線を逸らしてしまう。


「ムルが……? あぁ、良かった……」

 微かに紡がれたアルガンの言葉に、チャッタは違和感を覚える。今までの彼ならもっと、別の言葉を言う気がする。

 僅かに生まれた沈黙を割って、カジが静かな声で告げた。


「まぁ、なんだ。突然血相変えてネイラと一緒に飛び込んできた時は肝を冷やしたが、無事で良かった」

「申し訳ありませんでした。巻き込んでしまって」

 こちらのことなのに、すっかり任せきりにしてしまった。チャッタは慌てて宿の主人やネイラに向き直り、深々と頭を下げる。


「気にするな。ネイラから聞いたが、厄介事を持ち込んだのはこっちなんだろ? 全く、変なところがミレイナに似ちまったな」

 ネイラの表情が曇ったのを見て、カジはしまったと頭をかく。やや合って彼は、彼女の頭に優しく手を置いた。


「悪かった、大丈夫だ。どっかの誰かのおかげで、厄介事の対処なんて慣れちまったよ。ネイラもお前たちも今夜はウチでゆっくり休め。……追っ手がどうなってるか、分からねぇんだろ?」

 家に連絡するついでに町の様子を見てくる。カジはそう言って、皺を深くして微笑んだ。


 チャッタはもう一度カジに向かって頭を下げ、後ろのアルガンに視線を向ける。

「アルガン、君、その……」

 どうしたら良いのだろう。今までどんな風に、彼と話をしていたのかが思い出せなかった。

 頭の中に途切れ途切れに浮かぶ言葉が、声になる前に霧散して消えていく。何が言いたいのかも何を言うべきなのかも、何も分からない。


「疲れた。ムルもしばらく安静なんだろ? アンタもさっさと寝ろよ」

 ため息混じりなアルガンの声は、酷く掠れた弱々しいものだった。

「そう、だよね。明日からのことはまた話をしよう」

「ああ……」

 チャッタの提案にアルガンは、酷く曖昧な動作で首を動かした。



 



 地平線の向こうが薄らと白んでくる頃、チャッタはふと目を開けた。こめかみの辺りが痛み、体は石になったように重い。彼はうんざりした様子で額に手を当てた。


 寝台の上で仰向けになったまま、怠慢な動作で首だけを動かす。右隣ではムルとニョンが寄り添い、穏やかな寝息を立てていた。

 チャッタは口元を緩ませると、何気なく反対側にも目を向ける。


「え……」

 何度か瞬きをしてもその光景に変わりはなかった。彼は瞬時に上半身を起こす。

 左隣の寝台に誰もいない。そこに寝ていたはずの、アルガンがいない。


 見間違いではないかと寝台から滑り出でて、部屋中をぐるりと見回した。部屋の隅の絨毯の上に、旅の荷物をまとめている。

 ちょうど一人分の荷物がなくなっていた。


「アルガン……」

 名を呼んでも応える者はいない。早朝の刺すような空気に体がどんどん冷たくなっていく。

 予感はあったのに、どうしてアルガンを放っておいてしまったんだ。

 いや、そんなことは良い。探しに、行かないと。

 防寒のマントを羽織る余裕もなく、彼は衝動的に部屋を飛び出した。




 

「――アルガン!」

 目に飛び込んできた後ろ姿にチャッタは声を張り上げた。半ば落ちるようにして幅の狭い階段を駆け下り、宿の受付に使われるカウンターに肘をつく。


 幸いアルガンは、まだ宿を出ていなかった。玄関エントランスの扉の前で足を止めている。

 息を整えたチャッタは、彼の髪が見慣れた深紅に変わっていることに気づいた。


「その髪……」

「一番バレちゃいけないヤツにバレたんだ。染め続ける理由はないだろ」

「そ、そうだよね」

 一体、何の話をいているんだろう。チャッタはアルガンの背に視線を注ぐ。もうあと数歩前に出れば、彼は扉を開けて外に出ていってしまう。

 それなのに、これ以上アルガンとの距離を詰められずにいた。


 渇いた喉になけなしの唾液を飲み込んで、チャッタは声を絞り出す。


「アルガン。君は、どこへ行くつもりなんだ?」

 彼は何も答えない。分かりきったことを、とでも言うようなその態度に、チャッタは焦りを覚える。

「リムガイの所、なのか?」

 微動だにしない、何も言わないアルガンに苛立ち、責めるような言葉が口から飛び出した。

「どうして⁉︎ あんな、あんなことをした彼の元にわざわざ行くなんて、そんなの」


「分かってるよ。どうせ勧誘か罠だろ」

 割り込んできた言葉に、チャッタは押し黙る。一呼吸置いて喉を鳴らし、努めて冷静な口調で問いかけた。


「だったら、どうして?」

「弟だって言ってただろ? 俺とアイツは同じなんだよ。だったらこれ以上馬鹿なことをする前に——俺が止めないと」

「な、どうして、君がそんなこと」

 このまま放っておけばいいのに。

 一瞬頭に浮かんだ考えを、チャッタはすぐに否定した。

 無理、なのだ。アルガンはだから。それにリムガイはきっとアルガンを逃さない。絶対に、アルガンを追ってくるだろう。


 大きくゆっくりと首を振ったチャッタは、置いていかれる子どものような眼差しでアルガンを見つめた。


「一人で、行くのか……?」

「俺はな、アンタらに会う前にも研究所一つ潰してるんだよ。そこにいた奴らの命ごと全部。そうでなくても俺は、あの悪名高い炎の悪魔そのものなんだぞ」


 鞘も柄もない抜き身の刃物のような言葉だった。聞かされているチャッタも、口にしているアルガンも傷つけてしまうような。

 アルガンが肩越しに振り返る。


「アンタはそんな俺と、今まで通り一緒にいれんの?」

「そ――」

 当然だと、そう言うべきだと思うのに言葉が出てこない。アルガンの紅い瞳が、暗く深い色を湛えて自分を見つめている。チャッタの背筋が凍りつく。


 分からない。アルガンが背負うこの暗く重いモノを、共に支え切れるのか。なんの力も持たない、彼に守られるだけだった自分が。


「そ、それでも、一人で行くなんて、危ないだろう?」

「だから着いてくるって? アンタが?」

 嘲笑のような短い笑い声が、アルガンの口から漏れる。

「ムルでも敵わなかった相手だぞ? アンタに、何ができるって言うんだよ。アンタはただの学者だろ」


 そうだ。アルガンの言う通り、自分はただの学者だ。

 チャッタは俯き、悔しさで手のひらの内側に爪を立てた。

 アルガンが息を大きく吸う。


「俺と一緒にいたら、死ぬぞ。ムルもアンタも」


 喉元に冷たい刃を突き立てられたようだった。全身が熱を失って、ガタガタと震える。

 アルガンがいたのは、行こうとしているのは、場所なのだ。


 無理だ。そこに自分はいけない。

 彼の抱えるものは、重すぎて背負えない。


「そもそもアンタの目的は、水の蜂の痕跡を追ってアイツらがいなくなった理由を探すことだろ? 死んだらそれもできなくなる。アンタの夢も、ムルの記憶探しも、何もかもそこで終わり。だったらどっちを取るべきか、賢いアンタなら分かるだろ?」

 チャッタは唇を震わせて、それでも何かを言おうと口を開く。

 けれど何も言えずに、喘ぐような呼吸だけが辛うじて口から吐き出される。

 アルガンがもう一度大きく息を吸う。


「元々、駄目だと思ったらお互いすぐに別れるって、決めてたんだ。それが今日だったってことだろ」

 彼は視線を逸らして、再び背を向けた。あまりにも呆気なく、アルガンはその言葉で幕を引く。


「じゃあ、な」

「待――」

 アルガンとの距離が開いていく。縋るように腕を伸ばすが、足がその場から動かない。


 駄目だ。アルガンを止めないと。

 リムガイは危険だ。彼だって、どうなるか分からない。

 それに、こんな形で別れるなんて、嫌だ。

 

 けれどチャッタの心の中で、もう一人の自分が言う。

『無理だ。だって僕は、何もできないから』


 精一杯伸ばした右腕が、力を失って体の横に垂れ下がる。アルガンと繋がっていた細い糸が、プツンと切れた音がした。


 彼が扉を開けて、その向こう側に消えていく。


 チャッタは膝から崩れ落ちた。胸がえぐり取られたように痛い。けれどその痛みは、自分が引き起こしたものだ。

 結局自分は、自分と大切な友人を秤にかけて、自分をとってしまったのだから。


 口を手で覆う。涙が溢れて頬を伝って、床に暗い染みを作っていく。


 どうして自分は、こんなにも弱いのか。ずっと彼に助けてもらってきたくせに、いざとなると自分のことばかりで何の力にもなれない。

 それどころか、心のどこかで『仕方がない』とさえ思ってしまっている。


 自分の両肩を抱いて、思い切り爪を立てる。

 これほど自分を、自分の立場を、弱さを、嫌悪したことはない。


 声とも呼べない音を発して、チャッタは冷たい部屋で一人慟哭した。

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