幕間2

優しい君の傍にいる

 もう自分の、ホントウの姿のことは覚えていない。多分トビネズミとか、それに近い生き物だった気がする。


 赤茶色のひび割れた大地に、上から叩き割ったような断面の岩山がそびえる。時折黒い点のような虫が視界を横切り、僅かに生えた草の周囲を飛び交う。

 そんな虫や植物の種子を食べ、は群れの中で細々と生きていた。


 ある満月に近い夜のこと。その子は食べ物を探し、何匹かの仲間と共に大地を蹴って移動していた。

 突如、背後から何かが覆い被さって視界が塞がれる。夜に行動する生き物とは言え、そこは僅かな明かりすらも見えない異質な空間。

 狭くて怖くて息苦しくて、暴れるたびに周囲からガサガサと音がする。


「――っ!」

 全身を射抜かれるような低く鋭い声を浴びせられて、その子は総毛立つ。空間に僅かな光が差し込んだかと思うと、そこから太くてツルツルのが入り込んでくる。

 この前足は、ヒトという生き物のモノではなかったか。


 そう思った瞬間、体に何かが突き刺さった。

 痛みはそれほどない。しかし猛烈な眠気に襲われ、視界が霞んでいく。

 その子は抗うこともできず、ゆっくりと目を閉じた。





 気がついた時、は砂漠の真ん中で立ち尽くしていた。

 所々瑠璃色に見える夜空に、白い宝玉のカケラのように光る星々。自分が踏み締めている砂地は、空からの明かりを返して発光している。

 それ以外、そこには何もない。仲間も、自分を捕らえたであろう何者かも。


 天に輝く月は大きく欠けている。以前はもう少し丸に近い形をしていたから、もしかしたら何度か夜を明かしたのかもしれない。

 寒さを感じて身を震わせ、顔を洗うように前足を持ち上げた。


 そこで目に入ったモノに驚いたその子は、何度かそれを上下に動かす。

 自分の意志で思った通りにが動く。間違いなくそれは、自分のものだ。

 恐る恐る、自分の全身をそれで触って確かめていく。


 これは、本当に自分の前足なのか。

 岩山の断面のように、鋭くて大きなツメがついている。ラクダよりも太い前足だ。

 いや、そもそも、何故自分は後ろ足だけで立っているのだろうか。

 

 視線を下げる。目線がやけに、砂地から遠いことにも驚いた。

 これは自分の後ろ足なのか。食べていた虫、いや、大地を駆けるサバクアシドリですら、簡単に踏みつぶしてしまえそうじゃないか。


 顔に触れる。

 これは自分の口なのだろうか。前に大きく突き出ているし大きく開くし、中には触れたらとても痛い鋭いキバが生えている。


 何度も何度も確認した。

 やがてその子は理解する。

 自分が今までの自分とは似ても似つかない生き物に変わってしまったことを。

 すっかり変わり果ててしまった自分の姿に、その子は恐怖で身を震わせる。

 冷たい空に、悲鳴のような声が響いた。

 



 いつもより長い夜が明ける。

 その子は砂漠をあてもなく彷徨い始め、自分の置かれた状況を思い知っていた。


 今までよりも遠くが見渡せ、今までよりも周囲の音はよく聞こえたが、それがなんだと言うのだろう。

 以前自分の側で草を食んでいたはずの生き物が、自分の姿を見た途端、声を上げて逃げていく。

 自分よりも大きかった生き物にも怯えたように威嚇され、時には攻撃されることもあった。

 異常なまでに固くなってしまった皮膚には、痛くはなかったけど、胸の辺りがとても痛い。


 そういえば、他のみんなはどうなったのだろう。自分がこんな姿になってしまったのだ。

 もしかしたら他のみんなも。


 そう考えたら、自然と足が止まった。なんだか前の自分よりも、色々なことがよく考えられるようになった気がする。

 それが良いことか悪いことかは分からないけれど。


 自分をこんな目に遭わせたのは、何者なのか。

 その子はゆっくりと後ろ足を動かし、砂漠を彷徨いながら思い出す。


 あのツルツルの太い前足。確か自分をどこかに押し込めたのは、ヒトという生き物ではなかったか。

 彼らが何かしたのか。彼らが自分の体と群れの仲間を奪ったのか。


 こんな体いらなかった。何もかも切り裂けそうなツメも、命を踏み潰してしまいそうな足も、岩さえ噛み砕けそうなアゴもキバも。全部要らない。

 要らないから、返して欲しい。

 元の体に戻して。

 元の姿を、仲間たちを返して。

 返して。


 そうして砂漠を駆け抜ける内に、その子はヒトに出会った。

 その何人かのヒトは、自分から全てを奪った者と別人なのだと分かるはずもなく。その子はただ自分の体を返して欲しくて、目の前のヒトに近寄った。

 ところが彼らは大きく目を見開き、臀部を砂地につけて悲鳴を上げる。転がるようにして、自分から逃げていく。

 待って、そう縋った前足に何かがぶつかった。固い岩石だ。

 思わず動きを止めたその子に、鋭い言葉が突き刺さる。


「化け物」


 それは、自分のこと?

 その隙にと逃げていくヒトたちを、その子は呆然と見送る。ダラリと垂れ下がった前足を、震わせながら顔の位置まで上げた。


 化け物だというのは恐らく、みんなに恐怖を与えるような姿のモノのことを言うのだろう。

 化け物だって。自分が?

 望んでこんな姿になった訳でもない。無理矢理捕らえられ、勝手にこんな姿に変えられただけだ。

 それに自分をこんな姿にしたのは、だろう。


 その瞬間、その子の中に炎が生まれた。ゆらりと体の中心で揺らいで、それは次第に体中を焦がして燃え広がっていく。

 それの熱が全身に行き渡った時、その子は咆哮した。


 何もかもを壊してしまえそうなこの体、だったら、全てのヒトを壊してしまえばいい。

 自分をこんな風にしたのは、彼らなのだから。そうだ、自分にはその力があるのだから。


 名前をつけるとしたら憎悪だろう。その感情が心の中を真っ黒に染め上げる。

 激情に駆られるまま、その子は砂漠の砂を踏んで跳躍した。



 思い切り砂漠の地を駆ける。信じられないくらい速く景色が過ぎ去っていく。

 思うがまま、衝動のままに力を振るうと決めてしまえば、なんと気持ちがいいのだろう。


 足だけ別の生き物になったみたいに、ひたすら前に進み続ける。

 やがて先の方に、黒い塊を発見した。

 夜の真っ白な砂の中に、ポツンと落ちた一点の汚点。

 ヒトだ。


 長い舌を出して、口元を舐める。興奮して涎を滴らせるその子は、正しく獲物を見つけた獣だ。

 ヒトが背後に何かを感じたのか、こちらを振り返る。

 構わずその子は一気に距離を詰めて、憎き敵の目前に飛び出す。

 正にその体を引き裂いてやろうと前足を振り上げたところで、ヒトが自分の懐に飛び込んできた。


 ふわりと頭に柔らかな感触があって、思わず動きを止める。

 静かな声が耳を優しく震わせた。


「ふわふわで、気持ちがいいな」


 襲おうとしたヒトが前足を伸ばし、自分の頭を撫でている。静かで抑揚のない声だったのに、今まで浴びせられてきたどんな言葉よりも温かい熱を孕んでいた。

 頭を撫でる手つきは、どこまでも優しくて。心についた傷を塞ぐように、じんわりと染み入っていく。

 水のように、それはその子の全身を満たした。


 その子はゆっくりと視線を落とす。自分を見つめる彼の瞳と目が合った瞬間、黒く塗りつぶされていた感情が真っ白に塗り替えられていく。

 身を焼き切る熱が、泣きたくなるほどの温かさに変わっていった。


 前足を下ろして、砂漠に膝をつく。目の前のヒト、はずっと自分の頭を撫で続けていた。その星空のような瞳には、自分に対する怯えも恐怖もない。

 ただどこか、嬉しそうな輝きを放っていた。






 その子、ニョンは小さな両目を開いて目を覚ます。目の前に死んだように眠る大切な人を見つけて、毛をゾワリと立たせて、耳を側立てる。

 規則正しい寝息が聞こえてきて、ニョンは体の力を抜いた。


 この人はいつもそうだ。

 誰かのために、自分の身を顧みず突っ込んで行ってしまう。ちょっとした困り事でも、多くの人が争う中へでも、果敢に飛び込んで行ってしまうのだ。


 今回のこともそうだ。

 あの、アルガンというヒトが自分と同じだと言うことは、出会った時からなんとなく感じ取っていた。

 そしてこの町に着いてから、ずっと悪い予感がしていたのだ。きっと、アルガンも本能で何かを感じていたのだろう。

 気になって傍にいるようにしていたが、結局、こんなことになってしまった。


 アルガンは大丈夫だろうか。そして、もし彼がいなくなってしまったのであれば、優しいこの人はきっと酷く傷ついてしまうのだろう。

 自分があの時の力を保持できていたなら、また何かが変わったのだろうか。


 ムルと共に何度も夜を明かす内、ニョンの体は徐々に萎んでしまった。

 何故かは分からない。力を使い果たしてしまったのか、それとも彼の温かさが徐々に自分を変えていったのか。

 長い前足も強靭な後ろ足も、鋭い牙もなくなって。化け物になる前の姿とも、恐らく別の姿に変わってしまった。


 彼はこの姿を『撫でやすくなった』と喜んでくれた。自分もこの、毛の塊のような姿は意外と気に入ってはいる。

 でもこの体では、戦うことはできない。

 それが時に歯痒くて、悲しい気持ちになる。


 眠っていたムルが、少しだけ身を捩った。慌ててニョンは彼の顔を覗き込む。

 まだ日が昇るまでは時間がかかる。もう少し眠っていて欲しい。ニョンは自分の温かさを分け合うように、その身を頬にくっつけた。

 彼は再び、穏やかな寝息を立て始める。


 今の自分に戦う力はない。

 けれど、それでもずっと、彼の側にいると決めたのだ。ずっと、この命が尽きるまで。


 誰よりも優しい彼が、少しでも安らげるように。

 どうか、自分を温かく満たしてくれたこの人が、幸せでありますようにと。


 ニョンは自分の体をムルの頬に寄せて、もう一度目を閉じた。

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