第52話 「彼」の始まり

「どういうつもりなの⁉︎」

 金属を引っかいたような声を上げて、母親が叫ぶ。腕を乱暴に掴まれて小部屋に放り込まれたチャッタは、尻もちをついたまま母を見上げた。


 いつも丹念に作っている美しい顔が、堪えがたい怒りで歪んでしまっている。

 一瞬怯んだチャッタだったが、目元に必死で力を入れて母を見上げた。


「もう、もうやめようよ母さま! こんな事してたら駄目だよ!」

「何が駄目なのよ!?」

「僕を水の蜂の女王さまにして、町のみんなを騙すことだよ! 母さまはみんなを喜ばせてるって言うけど、そんなワケないじゃないか⁉︎ みんなを苦しめるだけだよ、こんなの……」


 女王蜂への贈り物。見るからに高価なものや、お酒、滅多に手に入らない果物もあった。

 豪華で美麗な衣服をまとった自分や母、伯父と比べて、町の人たちの格好は質素である。

 これの意味することなど、深く考えずとも分かる。

 しかし母は鼻を鳴らして笑うと、チャッタを見下ろして言い放つ。


「騙される方が悪いのよぉ。悪い人間なんていくらでもいるんだから、自分の身は自分で守らないと、あっという間に全部奪われてしまうの! 恋人もお金も、命もね。それにしたら、私たちは優しい方よ。ちゃあんと、皆にあげているんだから。だから、ちょっとくらいイイ思いしたって良いのよ」


 母は唇の端を吊り上げて、笑う。生まれてからずっと傍にいた母親なのに、とても醜悪で悪魔のような笑みだった。


「でも、でも、僕は水の蜂にはなれないよ。師匠から聞いた水の蜂と僕。比べたらすぐに違うって分かるもの」

 それでもなんとか思い止まって欲しくて、チャッタは細い糸を手繰り寄せるように言葉を紡いでいく。

 しかし、母親の口から出てきたのは、重いため息であった。


「全く、あの女。余計な知識まで与えて……。追い出しておいて正解だったわねぇ」

 聞き捨てならない言葉を聞きつけ、チャッタは小さく声を漏らす。


師匠せんせいは……?」

「ああ」

 面白くなさそうに呟いて、母は赤い唇を歪めた。


「お勉強はもう十分できたでしょうぉ? それよりこのままだと、あなたに悪影響が出てしまうと思ってねぇ。もう教師は断ってしまったわ。今頃もう、町を出て行っているんじゃないかしら? あなたは体調が悪いからって言って、別れの挨拶も断ってしまったから」


 殴られたような衝撃が、チャッタを襲った。

 次いで暗い穴の中にどこまでも落ちていくような絶望感に襲われる。師匠との日々は、自分にとってキラキラと輝く大切な日々だったのに。

 俯くチャッタの耳に、母のねっとりとした声が響いた。


「だから、あなたはあなたの役目に集中しなさいなぁ。皆には上手く言っておいたから、明日は仕切り直しよ。今日の続きをお願いね」

 ああ。

 プツリと、チャッタの中で何かが切れた音がした。


 母は自分を愛してなどいない。ずっと前から便利な道具だとしか思っていなかったのだ。

 自分もそれに気づかないふりをしていただけだ。


「もう、いやだ……」

 震えるほど強い感情が、体の中から沸き上がってくる。全身が燃えるように熱かった。


「僕は、僕はもうこんなことはやらない、絶対に嫌だ!」

 立ち上がって、床を思い切り蹴って走り出した。母の体を突き飛ばして、部屋の外へと駆け抜ける。


「なんだ、なんの騒ぎだ⁉︎」

 顔を真っ赤にした伯父が駆け寄ってきて、咄嗟にチャッタの腕を鷲掴む。その腕に噛みついて、怯んだ所を脱け出してさらに走った。


「チャッタぁ‼︎」

 母親の声も伯父の怒号も、何もかもを振り切って、チャッタは夜闇に包まれた家の外へ飛び出した。





 日に焼けた土と砂の香りがする。

 大きく口から息を吸うと、乾いた喉にひっかかり、痛みでむせてしまう。

「起きたのね」

 少し掠れた声が耳元で優しく響く。口元に水袋が差し出され、チャッタは吸いつくように中身を貪った。

 再び大きく咳き込んだ彼の背を、彼女は優しく撫でてくれている。


「……せんせい?」

 優しい茶色の瞳と目が合う。

 恐る恐るチャッタが周囲を見回すと、今自分は師匠の腕の中にいて、ラクダの背の上で揺られていることに気づく。


「どうして?」

「昨夜。寒そうな格好で町を走るあなたを見つけてね」

 寒そうな格好。

 そう言えば、女王蜂を演じるための格好のままだった。あの格好は夜の寒さにも日中の暑さにも堪えられない。

 今の自分は焦茶のマントですっぽりと覆われている。師匠の物なのだろう。安心する匂いがした。


「師匠、僕は……」

「あなたは全部、話してくれたわ。あなたの母親と伯父が何をしていたか、あなたに何をさせていたか。何度も何度も『ごめんなさい』って謝りながらね」


『ごめんなさい。町のみんなを騙して、ずっと苦しい思いをさせて……! 師匠せんせいやみんなが大切にしている水の蜂をけがすような真似をしたんだ! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!』


 朧気だが昨夜の記憶がよみがえる。

 額を土に擦りつけるようにして、師匠にすがりついて、自分は何もかもを吐き出したのだ。

 自分の体から土の香りがするのは、そのせいもあるのかもしれない。


「本当はね、そういう噂があるって最初から分かっていてあの町にきたの。『女王蜂さまが生きていて、人々に水を与えている』ってね」

 師匠が人の口に戸は立てられないものだと、呟いて苦笑している。


「私としても、可愛い教え子があんなに苦しんでいるのを見ちゃったらね。町の人には話をして出てきたから、もう大丈夫よ」

 そうか、そうだったのか。

 少しだけ、胸につっかえていたモノがとれた気がして、チャッタは強ばっていた体の力を抜く。まだ指がしびれてじんじんしていた。


「伯父さまや、母さまは……?」

 首を横に振り、彼女は淡々と告げる。

「分からないわ。然るべき罰は与えられているとは思うけれど……」

 それを聞いても、チャッタはもはや何の感情も湧かなかった。愛想が尽きたのか。それとも、あまりの事態に感情が追いついていないのかは分からなかった。


 一定の間隔で歩みを進めるラクダと、密着した師匠の温もりに再び瞼が重くなっていく。

 顔を出したばかりの太陽も、熱ではなく暖かさを与えてくれていた。


「あなたは私の知人に声をかけて、どこかの町で引き取ってもらおうと思っていたんだけど」

 一気に覚醒したチャッタは、弾かれたように顔を上げた。

 気遣うような、しかし何かを決意したような師匠の瞳が彼を覗き込んでいる。


「チャッタ。あなたは……どうしたい?」

「僕?」

 こんな自分が、希望を言ってもいいのだろうか。

 一瞬戸惑ったチャッタを察してか、師匠はまるで勇気づけるように背中を軽く叩いてくれた。

 したいこと。彼は胸に手を当てて、考える。

 本当に希望を口にしても良いのであれば。


「――水の蜂って、本当に綺麗な人たちだよね。見た目だけじゃなくてさ、なんていうか、生き方そのものが綺麗だなって思うんだ」

「ええ、私もそう思うわ」


 じゃあ、と一呼吸おいて、チャッタはラクダの歩く先を見据える。

 見渡す限り砂ばかりの大地。吹きすさぶ風で砂が巻き上げられ、また別の場所で積み上がっていく。

 植物が根付くことのない、限られた命しか生きられない、寂しくて枯れた大地。


「そんないい人たちが、何故いなくなってしまったのかな?」

「そうね」

 遠くを見るように目を細めて、師匠が言った。


「美しい、とても優しい人々だったからね」

 それ以上、師匠は何も言わなかった。

 なんとなく彼女が言いたかったことを察してしまって、チャッタは反論するように声を強める。


「でも、水の蜂が滅びたって証拠はないんだよね? だったら、どこかで生きてる可能性もあるよね?」

 チャッタは空を見上げた。一点の曇りもない青色が、目に眩しく映る。

 少年らしくない凛とした表情で、しかし未知なる世界に瞳を輝かせて、彼は言った。


「僕は水の蜂を探したい。もし見つからなかったとしても、せめて、どうしていなくなってしまったのか、その理由が知りたいんだ」


 自分の肩を抱く力がにわかに強くなったのを感じ、チャッタは視線を落とす。

 かさついた小麦色の手を見つめて、その手の主の顔へ視線を向けた。

 師匠は何故か目尻に光るものを湛え、力強く頷く。


「分かった。じゃあ私は、そのお手伝いをしなくちゃね」

 彼女は、口元の皺を深くして笑った。

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