第51話 綺麗、じゃない

 出会った日から早速、師匠せんせいの講義は始まった。時々休日を挟んでほぼ毎日、朝から夕方まで。

 講義が始まって早々、水の蜂に惚れ込んでしまったチャッタは全く苦にならない。本当に楽しくて、小部屋で読めない本に向き合うばかりだった日々は一変した。


 水の蜂と言う種族の特性、扱う魔術の効果、そしてその生命の在り方。

 知れば知るほど、彼女たちの世界に夢中になっていく。


 ひと月も経つ頃には、彼は師匠も驚くほどの知識を得ていたのである。


師匠せんせい! 水の蜂はそれぞれ針を持っているけれど、その長さや太さはみんな違うという説は本当かな!? もしかして、僕の背よりも長い針をもった水の蜂もいたのかなぁ!?」


「おや、その発想はなかなか面白いね! そうだねぇ。水の蜂は皆同じ体格でもないし、男性体も女性体もいたはずだから、私としても、個体差があるという説は賛成ね。まぁ、実際に彼らの針を見た人は少ないだろうし、立証は限りなく難しいだろうけどね」


「そっかぁ、針を見たってことは刺されたってことだもんね……。怪我や病気の治療に針が使われたという話もあるけど、詳しい記録は残ってないもんね。毒の話はちょっと恐かったけど、僕も刺されてみたいなぁ」


「その発想は恐いからお止めなさい」

 はぁい、と聞き分け良く返事をして、チャッタは舌を出して悪戯っぽく笑う。

 子どもらしい表情に、師匠は愛おしげに目尻を下げた。

「チャッタは、水の蜂のことが本当に好きなんだねぇ」

「大好き! だって」


 そこで突然、下を向いてしまったチャッタを見て、師匠は怪訝そうに眉をつり上げた。無言で言葉の続きを待っていてくれる彼女に、チャッタは弱々しい声で問いかける。

「師匠は、どうして僕に水の蜂のことを教えてくれることになったの?」

 

「――私は、水の蜂の痕跡を追って旅をしているところだったの。ちょうどこの町へ着いたとき、あなたのお母様と伯父様に頼まれてね。『身体が弱く人付き合いも苦手で、家に引きこもっている子どもの教師をしてくれ』ってね。まぁ、私も水の蜂のことを知ってもらえるのは嬉しいし、しばらく良いかと思ったのよ。急ぐ旅でもなかったしね」


 ああ、そういうことになっているのか。

 チャッタは落胆にも似た感情を抱いて、益々視線を下に向けた。

 下履きから除く足の爪は、母親の手によって化粧が施されている。そのつるりとした緑色は、まるで虫みたいだ。


「チャッタ?」

 心配そうな師匠の声に、彼は慌てて顔を上げる。穏やかだが芯の強い眼差しが自分の顔を凝視していた。


 いっそこの人に全て言ってしまおうか。そんな考えが頭を過ぎる。

 しかしすぐに母の顔を思い出し、唇を強く引き結んだ。

 代わりに、少し違うことを口にする。


「ねぇ、師匠。水の蜂は穏やかで優しくて、とっても良い人たちだったんだよね」

「そう言われているわね」

「やっぱりそういう人たちって、悪いことはしなかったんだよね。例えば――誰かを騙したりとか、嘘をついたりとか」


 ぎゅっと喉の奥が締め付けられた。心臓が痛いくらいに鳴っている。

 そうねぇと師匠は片手を頬に当てて、考え込むような素振りを見せた。


「騙したり嘘をついたりすることが、悪いことかどうかは分からないわ。でも彼女たちならきっと、誰かを苦しませたり不幸にしたりするようなことは、しなかったんじゃないかしらね」


 チクりチクりと、チャッタの胸に言葉が突き刺さる。心がジュクジュクと膿んだように痛んで、鼻の奥がツンとして、視界がぼやけて滲んでいく。

 彼女たちのことを知れば知るほど、自分との違いを思い知る。

 分かっていたことなのに、ここまで辛くなるのは何故だろう。


「チャッタ、え、あなた、大丈夫⁉︎」

 師匠は狼狽えながらも優しく背中をさすってくれた。

 薄い服ごしに少し硬い手の感触が伝わってくる。自分が知る中で、一番優しくて温かい手だ。

 幾分か落ち着いたチャッタは、乾いた喉を鳴らして声を出す。


「師匠、あのね……」

「まぁ、チャッタ、一体どうしたのぉ⁉︎」

 耳慣れた甘ったるい声に、チャッタの心臓は大きく跳ねた。背筋が凍ったように冷たくなり、小刻みに体が震え始める。


 師匠が声をかける前に、その声の主がパタパタと足音を立てて駆け寄ってきた。

 

「大変! 体調でも悪いのかしら? 明日は月に一度の大事な日でしょう? お勉強はこのくらいにして、今日はもう休みましょうねぇ。……そう言うことですから先生、今日のところは」


 母はそう吐き捨てるように告げると、チャッタの肩を抱いて部屋を出ていく。

 肩ごしに振り返ると、何か言いたげで心配そうな師匠の顔が見えた。

 




 母親にはたかれた白粉で顔全体がむずむずと落ち着かない。おまけにそれと肌に塗られた香油の香りが混ぜかえり、油断すると嘔吐えずいてしまいそうだ。

 月に一度の大事な日。

 チャッタは豪華な垂れ幕の後ろで、玉座のような椅子に座っていた。


 彼は父親を知らない。物心ついた時には、母と二人でありとあらゆる町を転々としていた。

 飢えや乾きに苦しんだことも少なくない。それでも母が自分を手放さなかったのは、自分への愛情があったからだと信じている。信じようとしていた。

 最近それが、よく分からなくなってきたのだ。


「さぁ、今日も女王蜂さまが水を与えてくださいますよぉ」

 垂れ幕の向こうから母の声が響く。


 この町に来て母の兄という人と会って、チャッタは女王蜂となった。

 今までも何度か、母に頼まれてちょっとした仕事をしたことがあった。母のためならばと、チャッタは嫌な気持ちを圧し殺してそれを引き受けていた、けれど。


『ねぇ、母様。僕、女王様じゃないよね? みんなに嘘をついて良いの?』

『しっ! そんなこと言うんじゃないわよぉ。これは悪いことじゃないの。だって、皆とっても喜んでいたでしょう? 母さんも皆の役に立てて嬉しいわぁ』


『でも、贈り物は? みんなの為なら、普通に水をあげれば良いんじゃないの?』

『あれは……皆を喜ばせてあげてるんだから、そのご褒美ってことで良いのよぉ! 余計なことは考えないで。町の人たちはあなたに会えるのを楽しみにしてるんだから』


 楽しみにしているのは、チャッタが女王蜂さまだからだろう。

 それに彼は知っていた。町のみんなから受け取った贈り物で、母と伯父が豪遊していることを。


 垂れ幕がゆっくりと開いていく。いつもの癖で、チャッタは顔に極上の笑みを貼り付けた。


 美しい「女王蜂」の姿が現れ、人々の顔が花咲くように赤く色づいていく。

 目を蕩かせて熱に浮かされたように、口から漏れるのは彼の美を賛辞する言葉だ。


「なんと美しい……」

 美しくなんかない。

 ひと月前は聞き流せていた声が、胸を抉った。


「この世のものとは思えないわ。やはり神秘の種族なのね」

 違う僕は。

 膝の上に乗せた拳をまとった服ごと握りしめる。

 この肌触りの良い衣服も、女王様を偽るためだと思うとボロボロの麻布のようがはるかにマシだと思う。


「綺麗……」

 僕なんか綺麗じゃない。

 比べることすら烏滸がましい。

 外見をいくら飾り立てて美しく見せたって、こんな偽物が、みんなを騙して嘘をついている自分が、美しいものであるはずがないのだ。

 ああ。


「きもちわるい」


 やけに大きく響いた声に、チャッタは我に返った。

 目や口を大きく開いて自分を見上げる住民たち。周囲から一切の音が消え、耳が聞こえなくなったのかと思うほどだった。

 部屋に立ち込めていた熱も霧散し、日中とは思えないほど冷え切っている。

 正にそれは、夢から覚めた様な光景だった。


「も、申し訳ございません! ちょっと今日の女王蜂さまはご気分が優れない様子。本日はお引き取り下さいませ!」

 青白い顔をした母が声を裏返して狼狽えている。目の前でスルスルと幕が下ろされて、ややあって住民たちの騒めきが聞こえてくる。

 それを遠くに聞きながら、チャッタはどこか冷めた気持ちで椅子に腰かけていた。

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