第50話 小さな女王蜂
その頃のチャッタが暮らしていたのは、この国の端とも呼ばれる辺境の町だ。砂色の日干し煉瓦でできた住居が密集し、百にも満たない数の住民がそこで暮らしている。
踏み固められていない道は歩くたびに砂塵が舞い、フードを目深に被っていなければ目や口に入ってしまう。
風が強く吹くことも多い土地だったので、強風の日は外を歩けないほどだった。
そんな町にある一軒の住居。調度品など何もない、ただ薄い絨毯を敷き詰めただけの部屋に人が集まっていた。
決して広くない空間にほとんどの住民が集まっているため、隣の者と肩と肩が接触するほどである。
老若男女が一様に目を輝かせ、部屋の一方を見つめていた。
そこは皆がいる場所よりも数段高くなっており、瑠璃色と黄金色で編まれた豪華な垂れ幕がかかっている。まるでこれから、演劇でも始まるような雰囲気だ。
いや、ある意味今から始まるのは演劇である。
それも、茶番という名の最低な。
垂れ幕の横に立っていた女性が、騒めきに紛れてひっそりと呟く。
「今日も大盛況ですこと」
彼女は黒にも見える藍色のマントを身につけ、小麦色の髪をゆるく一つに束ねている。深い蒼色の瞳には、どこか獲物を狙う鷹のような光を放っていた。
顔には丹念に化粧が施されており、美しいとも言えるが作り物めいた不気味さも伺える。
「皆さまぁ。大変お待たせいたしました」
彼女は芝居がかった調子で一礼し、その瞳と紅い唇を吊り上げる。
「今日もあの水の蜂の女王、つまり女王蜂さまが皆さまに水を分け与えて下さいますよぉ。美しいその御姿、しっかりと目に焼きつけて下さいなぁ」
甘ったるい声を上げるその人が、チャッタの母親だった。
彼女が天井から垂れ下がった紐を勢いよく引くと、少し軋んだ音を立てて幕が開いていく。
徐々に現れたその子を目にし、観衆は大きく息を呑んだ。
ゆるく波打つ絹の髪。
その肌は透けるように白いが、頬だけは果実のごとくほんのり色づいている。
長い睫に縁取られた瞳は、瞬きをする度に水面のように揺らめき、その輝きは大粒の翡翠を思わせた。
その子を着飾った銀の髪飾りも上質なケープも、その瞳の前では輝きを潜めてしまうだろう。
薄紅色の唇を引き結び、十にも満たないその子は玉座にも似た椅子に座っていた。
多くの視線に晒され、幼い瞳に怯えが走る。しかし笑みを浮かべる母親と目が合うと、慌てて居住まいを正し、にっこりと微笑んだ。
ため息が皆の口からもれる。住民たちはその子の美しさを讃える言葉を、口々に並べていく。恍惚とした表情で、幸せそうに。
「はーい皆さま、落ち着いてくださいませ! さぁ、女王蜂さまへの贈り物は、いつものように私のところへ。なんでも構いませんわ。お酒でも食べ物でも、宝石でも。皆さまのお気持ちが何よりの贈り物ですもの」
顔には笑みを貼り付けながらも、その子はバレないように拳をギュッと握りしめる。
「それと。女王蜂さまのことは、くれぐれも町の外でお話しなさらないこと。女王蜂さまの神秘性が失われ――水を生み出すことができなくなりますからねぇ」
母親は嬉々として贈り物を受け取っている。それを渡す町の人々も、自分を見上げる人々の顔も、みんな笑顔だ。
母親が水を渡すと、彼らの顔は一層眩しく輝く。
けれど。
心に暗く淀んだその感情を、その子、幼い頃のチャッタは上手く言葉にすることができなかった。
黄金色の
その顔が赤く見えるのは、燭台の明かりに照らされているからではないだろう。
彼女の向かいに腰かけた男が、呆れたような眼差しを送る。
「よく飲むねぇ。残り少ないんだから、程々にしておきな」
鼻の下の髭を撫でながら、彼は面白くなさそうにため息をついた。
「そうよぉ! 少ないのよ、兄さん」
チャッタの母が、身を乗り出して兄と呼ぶ男性に息巻く。
「女王蜂さまへの贈り物が、どんどん減ってきているのよ! 全く、何のためにチャッタにあんなことをさせたと思ってるのぉ」
「おい、声が大きいぞ!」
兄にたしなめられた彼女は、再び杯を満たそうと酒の瓶に手を伸ばす。
しかし、空であることに気づいて舌打ちをし、杯を指で弄びながらぼやいた。
「兄さんだって、贈り物で良い思いしてたじゃない。町長権限で、住民に水を配給する時にこっそり――なんて真似、しなくても良くなったんでしよう?」
この町では町長が住民全員分の水を受け取り、それぞれの家に配るのだ。
その為、いくらでも融通が効くのである。
「一文無しで転がり込んできたお前らを世話してやってるんだ。それくらいしてもらわないとなぁ。十年以上前に出ていった時は一人だったくせに、いつの間にかオマケがついてきてやがるしよ」
彼は髭を撫でる手を止め、苦々しく顔を歪めた。
「しかしお前の言うとおり、信仰心が薄れているのかもしれないな。慣れてきたのか、怪しまれているのか、前よりも熱意が感じられない」
「チャッタも最近、やる気がなくなってるみたいだしぃ」
苛立たしげに彼女は指で卓上を叩く。視界に入った手の甲にシミを見つけ、カッと顔に熱が集まった。
もう少し若ければ、自分が女王蜂となっていたものを。思わずシミに爪を立て、歯を食い縛る。
「そう言やぁ、水の蜂の学者がここらの町を旅してるって聞くじゃないか。もしこの町に立ち寄ることがあれば、ご教授願うってのも手じゃないか?」
「そうねぇ……」
彼女は赤くなった手の甲を撫でながら思案する。
考えてみれば、自分たちが水の蜂について知っていることは少ない。
一般的に流布している情報と印象だけで、「美しい女王蜂さま」という偶像を作り上げたのだ。
専門家から学べば、あの子はもう少し上手く女王蜂を演じることができるだろうか。
下手に動いてバレないようにと、信者はこの町だけに留めていたが、あわよくば、もう少し人数を増やせるかもしれない。
「じゃあその人が来たら、チャッタにお勉強させれば良いのね。誰に似たのか、あの子、頭が良いみたいだから」
美しく賢い息子を生んで良かった。そのおかげで自分は、面倒なことなど一切せずに甘い汁をすすれるのだから。
彼女はそう考えて、満足げに笑みを浮かべた。
「み、さ、ま……これは、なんて読むんだろう?」
膝の上いっぱいに「本」を広げ、チャッタはそこに書かれた文字を必死で読み上げていた。
窓から射し込む光芒が、彼の姿を淡く浮かび上がらせている。
彼が読む「本」は、九つの子どもが読むには難しい文字が使われている。しかも所々に穴が開きページも破れていた。
部屋の壁にある棚には、くるくると巻かれた「本」がいくつも積み上げられている。
それらとチャッタが座っている椅子、そして真四角の卓上があるだけの小部屋が彼の居場所だ。
窓が一つだからか部屋は日中でも薄暗く、ひんやりとした空気で満たされていた。
ふと、甲高い声が聞こえて、チャッタは顔を上げる。何人かの子どもがはしゃぐ声。恐らく外で誰かが遊んでいるのだろう。
確かめようにも窓のある位置は高く、椅子に上ったとしても外は覗けないのだが。
「チャッタぁ、入るわよぉ」
声がけと同時に扉が開かれ、顔を出したのは彼の母親だ。
チャッタは膝の上の「本」を丸めると、慌てて彼女の元に駆け寄る。
「かあさま! あのね、この文字――」
「チャッタ。あなたにお客様を連れてきたのよぉ」
言葉を遮り、母が息子を見下ろしてにんまりと笑う。その様子に胸を痛めながらも、チャッタは母の背後にいる人へ目を向けた。
「この方はねぇ、あなたの先生になって下さる方よ。前に話したわよね、水の蜂の学者様のこと」
「あ……」
小さく声を発すると、チャッタは勢いよく頭を下げた。すぐに顔を上げると、母親よりもずっと背の高い人が近づいてくる。
暗くて顔が見えづらいなと思っていると、その人は膝を折ってしゃがみ、チャッタと視線を合わせてくれた。
「初めまして。これからよろしくね」
それは女性だった。炭のような黒い髪に小麦色の肌。背筋をピンと伸ばして跪く姿は、物語の騎士様のように颯爽としている。
母親よりもだいぶ年上だろうと思うのだが、どこか子どものような親しみやすさも感じる。
その深い茶色の瞳が、楽しげに輝いているからかもしれない。
彼女はチャッタと目が合うと、刻まれたシワを更に深くして微笑む。
心の中をじんわりと温めてくれるような、そんな笑みだった。
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