第47話 水を操る者
ムルは息を吐くと、自身の両手を勢いよく合わせる。空気を含んだ破裂音が響き、一つだった水球が弾けた。大小様々な大きさに分裂すると、彼と大蛇を取り囲むように飛び散っていく。
そして、彼が床を蹴って走り出したのが、開戦の合図となった。
大蛇が身を反らせて、口から炎を放つ。対するムルは足裏に力を込めて急停止し、左腕を振るう。水球の一部が彼の元へと集い、形を変えていった。
先端が尖り刃のようになった水は、炎の帯に向かっていく。衝突した瞬間から煙が上がり、たちまち周囲は白いもやで覆われた。
チャッタが目元を覆っていた腕を避けると、ムルと大蛇は静かに睨み合っていた。
「これじゃ、駄目だな」
言葉とは裏腹に、どこか納得するようなムルの声が聞こえる。
大蛇の炎は確かに消せたが、得られた水は決して多くない。真っ向からぶつけていくのは愚策だろう。
しかしムルの攻撃を警戒したのか、大蛇は炎での攻撃を止めて口を開け、彼の頭上へと覆いかぶさった。
鋭く尖った牙が床に突き刺さり、周囲に砂礫が飛び散る。
「ムル!」
食べられてしまったようにも見え、チャッタは悲鳴混じりに叫んだ。
しかし、砂塵が散った後で目を凝らすと、ムルが何もない空中に平然と立っているのが見える。
いや。足下にできた透明な足場に、彼は立っていたのである。
「そうか。あの時も水で足場を……」
先程、階段の上で大蛇の尾に捕まりそうになった時。その時も彼は、こうして水で足場を作ったのかもしれない。
大蛇がムルを叩き落とそうと、尾を鞭のように振るう。
彼は足場から跳躍すると、右腕を大きく横に振りはらった。水球が集まって一本に連なり、彼の行く道を作っていく。
できた水の道を駆け抜けて、ムルは素早く大蛇の背後へ回った。
「ちょっと、我慢しててくれ」
そう呟いた彼の手元には、いくつかの水球が集まっていた。
そろえた指を水球に当て、宙へ線を引くように滑らせる。水が指の動きに合わせ、形状を変えていった。
薄く平らに引き伸ばされた水が、一枚の長い布のように変化していく。後ろが透けて見えるほど繊細な布は、淡い青色を帯びて揺らめいている。
その
彼はくるりと両手首にヴェールを巻き取り、水の道から飛び下りた。
空中で体を回転させるのと同時に、両腕を大きく回す。広がったヴェールが、ふわりと大蛇の尾に巻きついていった。
ヘビの鱗が青みがかってきたところで、ムルは布の両端を掴む。
拳に力を込めて思い切り腕を強く引く。大蛇の尾が彼に引かれてぐらりと傾いた。
ムルが床へと着地する。
ニョンが浮いてしまうほどの地響きを立て、大蛇の尾は床へと伏せられた。
「次だ」
布の端から手を離し、ムルは大蛇から距離をとる。見ると太い針が楔のように打ち込まれ、遺跡の床にヴェールをしっかりと固定していた。
水でできた布は、見た目よりもかなり丈夫なようである。
金切り声を上げて怒りを露にした大蛇は、ムルへ向かって炎を吐いた。
彼は再び水球を足場に飛び上がり、水で作った刃を放つ。瞬時に炎を消すと、足場にしていた水を再び薄布へ変化させる。
大蛇は大きく身を捩るが、尾を拘束されている為、逃げることはできなかった。
「ごめん。あと少しだけ」
あくまで優しげな動作で、彼は大蛇の体にヴェールを纏わせていく。
回転しながら宙を舞う様は、祭事で披露される踊りのごとく神聖でしなやかだ。時間さえも、ゆったりと流れているような錯覚すら覚える。
チャッタの口から、感嘆にも似た声が漏れた。
「こんなに、水を自由に操れるものなのか……?」
もちろん、疑似魔術器官を宿した神官たちも、水を操る魔術を使っている。
しかし、それはせいぜい水を集めて固めて持ち運びができるようにしたり、多少圧縮させて大きさや重さを変化させるくらいだ。
中には、水を武器のように操る神官もいると聞くが、剣や槍といった形にして金属製の武器の代用として使うのが一般的である。
本来の水は、特定の形を持たない。
それを痛感するほど、ムルが操る水は変幻自在に姿かたちを変えていく。
チャッタの隣で、アルガンもムルの動きを目で追っていた。僅かに輝いているその瞳を見るに、恐らく彼もチャッタと同じ気持ちなのだろう。
二人がその動きに魅せられている間に、ムルは大蛇を大人しくさせてしまったのである。
軽く息を吐くと、ムルは床に這いつくばった大蛇と目を合わせた。
顎を床につけたヘビは、ぽっかり空いた黒い瞳を向けて声高に咆える。身を震わせ最後の力を振り絞って頭をもたげた。
口を開いた途端、赤い舌が素早くムルへと伸ばされる。
「ムル!」
しかし彼へと届く前に、舌の動きが不自然に止まる。しゅるしゅると舌が収納され、大蛇の全身が大きく跳ねると、赤橙色の鱗が僅かに黒ずむ。
声も上げずに力なく顎を床に打ちつけ、そのまま大蛇はぴくりとも動かなくなってしまった。
「ようやく効いたか」
安堵だろう。ため息混じりに呟いたムルに、アルガンが恐る恐る尋ねる。
「どういう、ことなんだ?」
「俺の針には毒があるんだ。蜂、だからな」
「毒⁉︎ え、じゃあ、コイツ死んで」
「――死に至らしめるようなものじゃない。一時的に体を麻痺させたり意識を混濁させたりするもの。そして、人に使うと前後の記憶を失う。だろう?」
チャッタの問いに、ムルは首肯した。目を剥いたアルガンが、不思議そうにチャッタとムルを交互に眺めている。
何故チャッタには毒の効果が分かったのか、そんな表情だ。
その理由は、彼が水の蜂の学者だからである。彼女たちの使う毒の効果は、いくつかの文献に記録されていたから。
基本即効性があるものだったと思うが、きっと今回はヘビの体が大きく、毒が回るのに時間がかかってしまったのだろう。
「そうか。やっぱりムルの針には毒があるんだ」
呟いたチャッタは思わず頭を抱えた。
これでは益々、ムルがそうであると認めざるを得なくなるではないか。どうすれば良いんだ。
ずっと滅びたとされていた種族が、目の前で生きている。
ここで歓喜の叫びを上げられるほど、彼の頭は単純ではなかった。
何かもう少し、確固たる証拠があれば。
「そうだ、ムル! 突然だけど、魔術で水を生み出すか、もしくはアルガンの怪我の治療を」
チャッタが顔を上げると、ムルは大蛇の目と鼻の先まで近づいていた。
そして何を思ったのか、無遠慮に上顎を両手で掴み、口を大きく開かせる。彼はつま先立ちをして、限界までその顎を持ち上げていた。
「ん? ちょっと、え、何をするつもりだい?」
突拍子もない行動に、チャッタが戸惑いつつも声をかける。
ムルは大蛇の口をこじ開けたまま、こちらを振り返った。
「中に入って、あの宝玉を取ってこようかと」
「は――」
ちょっとした段差を超えるような仕草で、ムルは片足を上げ大蛇の口内へ入っていく。
チャッタの心臓は、蟻のように縮みあがった。
「な、え? ば、そ、だぁぁぁめぇぇぇ――っ‼︎」
自分でも信じられないくらいの大声を上げながら、チャッタはムルに向かって突進した。
「あのね! 自分が何をしようとしてるか分かってる⁉︎ 君、自分からヘビに食べられに行ってるの! 何、え、どういう発想なの⁉︎」
「この方法なら、ヘビの体を傷つけないと思って」
「君の方が危ないでしょうが⁉︎ 毒で動き自体は麻痺してるんだろうけど、胃酸なんかは普通に機能してるの! 宝玉がどの辺りにあるかも分からないのに、見つける前に消化されちゃったらどうするの⁉︎」
「いや。実際にいる大きなヘビでも、俺くらいの大きさの獲物を消化し切るのに
「急に理論的っぽく言っても駄目! とにかく! 僕の心臓に悪いから止めてくれるかな!?」
ムルを慌ててヘビの口元から引き剥がし、それからは怒涛の説教である。どこか不満気見えるムルを見下ろし、チャッタは額を押さえた。
誰が目の前で、人がヘビに食われる場面を見たいと思うのか。
「君が、ヘビのことをなるべく傷つけたくないのは分かった。それならもっと別の方法を考えようよ。こう、外側から衝撃を加えて吐き出させるとか……」
普通、喉に物を詰まらせたら、背中などを強く叩いて吐き出させるものだ。それと同じ要領で上手く吐き出してくれないものだろうか。
「でも、どの辺りに宝玉があるのか分からないだろう?」
「あー」
「だからやっぱり、中に入って」
「その方法は絶対に駄目‼︎」
「痛っ! な、なんだよ、この毛玉!?」
そこで声を上げたのは、アルガンだった。
彼の頭の上にはニョンが乗っている。そして何故かその毛玉に、ペシペシと頭を叩かれていた。
奇妙な状況にチャッタは眉を潜めたが、ムルは合点がいった様子で軽く頷く。
「アルガン、なんとかできないか?」
「お、おれ……?」
「にょにょ!」
言いたいことが伝わった、とでも言うように、ニョンがどこか嬉しそうに奇声を発した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます