第46話 助けたい

 おかしい。いつまで経ってもやってこない衝撃に、アルガンは意識を浮上させる。

 自分の体は倒れることなく、何かによって受け止められていた。

 その温かさと力強さを不思議に思って、重たい目蓋を持ち上げる。


 ムルという名の青年が、少しだけ眉を寄せて自分の顔を見つめていた。あの時もっと見たいと願った、星空のような双眸で。


「アルガン、酷い怪我をしてるじゃないか!」

 一足遅れて寄ってきたのは、やたらと綺麗な容姿をしたチャッタという人だった。

 痛ましげに顔を歪めると、その形の良い指をそっとアルガンの頬に沿わせる。少し冷たい指先が、熱を帯びた頬には心地よかった。


「ごめん。僕がこの遺跡を守りたいって言ったから、こんな無茶をしてくれたんだよね」

「アンタら、逃げろって言ったのに……なんで……?」

「チャッタ。アルガンと離れていてくれ」

 ムルはアルガンの体をそっと持ち上げると、チャッタの方へと差し出す。


「ムル? 一人で、戦うつもりかい⁉︎」

 チャッタに抱き止められながら、アルガンはムルの背に視線を向けた。


 自分とそれほど体格は変わらないはずなのに、彼の背中はどこか頼もしくて安心する。

 アルガン、と静かな声で、彼は自分の名を呼んだ。


「飲み込んだ宝玉。アレを吐き出せば、ヘビは元に戻るか?」

「は? いや、それは、分かんない、けど」

 考えたこともなかった。

 曖昧な返答だったが、ムルはどこか満足げに頷いた。


「可能性があるなら、十分」

 彼はマントの中に片手を入れる。ややあって取り出したのは、手のひらほどの透明な小瓶だ。

 先端にかけて細くなっていく形状は、香水などを入れておく香水瓶にも見える。


 ムルは小瓶の栓を捻ると、無造作に中身を宙へ撒いた。飛び散った水滴の一つ一つが、天井から差し込む光を反射させて輝く。

 きらびやかな光を放っているが、恐らくそれは香水などではない。


「水……?」

 ただの、しかしこの国では何よりも尊い、水のように見えた。

 アルガンとチャッタは、口を開けたままその行方を見守る。大蛇も何故かそれを、神聖なものであるかのように見つめていた。


 ムルが天に向かって片手を上げる。

 無秩序に散った液体が、まるで意志を持っているかのように彼の手の中に集まり、形を成していく。

 どんな刃よりも細く、そして鋭い。

 あの形は、まるで。

 チャッタが大きく息を呑んだ。


「怪我をさせられたアルガンは、いい気はしないだろうけど」

 ひとりごとのように言ったムルが、首だけでこちらを振り返る。

 巨大な化け物と対峙していながら、その瞳はどこまでも優しげな光を湛えていた。


「俺は、この子も助けたいから」

 彼の右手には、輝く一本の針が握られていた。

 



 ムルの言うように一刻も早く、自分はアルガンを連れて逃げなければならない。けれど。

 チャッタはこの場から、一歩も動くことが出来なかった。


 ムルの手の中に握られた、一本の針。

 二の腕ほどの長さをしたそれは、彼の手の中で澄んだ光を放っている。目の前で起きたことを信じるなら、それは水から形作られたものだ。


 水を操り、自らを象徴とする針を持つ。

 それはまるで、彼女たちのようではないか。


「ムル、きみは……」

「チャッタ、聞きたいことがある」

 そう問いかけてきたムルは、淡々としていて、何も様子は変わらない。先程のことは、恐らく彼にとって何でもないことなのだ。


「この遺跡に、水が残っている可能性はあるか?」

「え」

 突然何を言うのだろう。

 思考が止まるが、チャッタは瞬時に頭を切り替えると、この遺跡にあったものを思い浮かべる。


「今、目に見えている場所で挙げるなら……あの噴水かな」

 噴水が、ピンとこなかったらしく、ムルは少し首を傾げる。

「この下に置かれている、水瓶のことだよ。下に溜めておいた水を上に向けて噴き出す仕組みの、まぁ装飾だね。王都とか、水が豊富な場所にはあるって噂だよ」


 既に水が枯れてしまっている可能性も高いが、ここは水の蜂の遺跡。遺跡の保存状態からしても、確認してみる価値はあるだろう。

 ムルは一呼吸分間を開けて、軽く頷く。


「分かった。とにかく、下だな」

 そして彼は、大蛇目がけて跳躍する。


 向かってくるムルに気づき、大蛇も反応した。

 尾をくねらせて素早くムルの背後に回し、そのまま彼を抱き込むように動かす。

 その抱擁に囚われたが最後、全身の骨は砕け無惨な最後を遂げるだろう。


 ムルは針を持たない方の手を足下に向けると、さらに上へと跳躍して尾から逃れる。

 まるで宙に見えない足場があるような、奇妙な動きだ。大蛇の尾が何もない空間を抱きしめ、何故か水音と共に飛沫が上がる。


「なんで、あの場に水が……?」

 隙のできた大蛇に向かい、ムルは腕を回して逆手に持った針を突き立てた。

 頬の辺りを狙った一撃は、鱗に阻まれることなく半分ほど刺さったようである。

 彼は針を引き抜きながら距離をとった。


 大蛇は鋭く荒い息を吐きながら、怒りのこもった瞳でムルを見下ろしている。

 それを確認した彼は、踵を返し走り出した。


 足音がやけに大きく響いているのは、聴覚が優れているヘビにわざと聴かせているのだろう。

 彼の足は階段の方へ向かっていく。わざと大蛇を怒らせ、下へ誘導するつもりだったのだ。


 チャッタは彼と大蛇の動きを、ゆっくりと目で追う。思い出したかのように、心臓が激しく鼓動を刻み始めた。

 喜びなのか、驚きなのか。それが本当だとしたら、衝撃的過ぎて恐怖すら覚える。

 胸を強く手で押さえ、彼は激しく頭を振った。


 まさか、ムルがそうであるはずがない。

 きっと、元神官とかそのような存在だ。伝説の、滅びたとされている種族が、こんな所にいるものか。


「いや、ここは水の蜂の遺跡だし……奇跡が起こるってこともあるのか……? いやいや、そんなまさか! こんな簡単に出会えたら、そもそも滅びたなんて言われてないよ。何を馬鹿なことを考えてるんだ僕は」


「何ぶつぶつ言ってんだ、アンタ」

 呆れているのか傷が痛むのか、アルガンが顔を歪めつつ、チャッタの腕の中からスルリと抜け出す。

 そのまま階段の方へ進んでいくのを見て、チャッタは顔色を変えた。


「アルガン!? 休んでないと」

「俺は、まだ動ける! あんな針一本で、何ができるって言うんだよ」

「いや、それはそう見えるだろうけど……って、ちょっと⁉︎」

 油断していた隙に、アルガンは怪我人とは思えない速度で駆け出してしまった。

 焦ってチャッタも後を追う。



 階段を踏み外さないようにしながら駆け下りると、ムルと大蛇が激戦を繰り広げていた。

 現実味のない、まるで舞台上の演劇のような光景に、チャッタたちは呆気にとられ、立ち尽くす。


 床を滑るようにして迫る大蛇を、ムルが真上に大きく跳躍し避ける。大蛇の頭部に着地すると、彼はその体の上を駆けて尾の先端の方へ。

 手首を返すと、鱗に針を突き立てた。


 大蛇は不快そうにその身を震わせ、背後のムルに炎を吐く。彼はそれに捕まらないように、再び宙に身を躍らせた。


 連続で、首を振りながら広範囲に放たれる炎と、それを縦横無尽に跳びはねて避けるムル。

 彼の動きが、あまりにも無駄がなく洗練されている為、側から見ているとそういう曲芸のようなのだ。


 攻撃を避けている最中、ムルがふと視線をこちらへ向ける。

 少し驚いたように目を丸くした。


「なんで、下りてきたんだ?」

「うるさい、まだ俺は戦える! ソイツは俺の相手なんだよ!」

「無理は駄目だ、アルガン! ごめん、ムル、ちゃんと下がってるから」

 チャッタは今にも飛び出しそうなアルガンを、後ろから羽交い締めにして止める。


「放せよ! 運良く避けてるだけで、どう見たって不利だ!」

「だからって」

 反論しようとして、チャッタは口を閉じる。


 彼の言うように、このままではただの我慢比べだ。

 ムルが力尽きるのが先か、大蛇の炎が切れるのが先か。

 

 チャッタの額に、汗が滲んで流れていく。

 ひんやりとした清浄な空気が漂っていた遺跡は、大蛇の吐き出す炎によって熱せられていた。

 もうここは、諦めた方が良いのかもしれない。

 チャッタは奥歯を噛み締めると、ムルに向かって声を張り上げた。


「ムル! もう、遺跡は諦めよう! 今ならまだ逃げられ」

「チャッタ、アルガン。そこだ」

 被さるように、ムルの声が響く。

 チャッタが口を開けたまま固まっていると、ムルは人差し指である場所を示した。


「ニョンがいる、ふんすい」

 声を裏返らせ、チャッタが彼の指が示す方向を見ると、謎の毛玉ニョンが噴水の上に登っていた。

 何かを誇示するように、その場で激しく跳ねている。とっくに逃げたと思っていたのだが。


「チャッタの言った通りだ。その下に水があるらしい。悪いけど、その噴水だけは諦めよう」

「あ、え?」

 チャッタが戸惑っていると、顔の横を何かが通りすぎていった。続けて激しい音を立て、水瓶が割れて残骸と化す。

 小さな残骸が軽い音を立てて床にぶつかり、しばしの静寂。ムルが手に持っていた針を、投げつけたのだ。


 やがて水瓶が破壊され空いた穴から、光の糸が噴き出す。

 水だ。

 魔術が作用しているのか、それは自ら何かを編み上げるように絡み合い一つの球体となっていく。

 大蛇の頭部と同じくらいの大きさになると、吸い寄せられるようにムルの元へと飛んでいった。


 彼の傍らに浮いたそれは、まるで磨き上げられた水晶のよう。

 水球に片手を添えたムルの瞳が、眩しいものでも見るかのように細められる。


「大切に、使わせてもらおう」

「ムル。やっぱり君は、水の魔術が使えるのか……?」

 ひとり言のような呟きが聞こえたらしく、ムルがチャッタを一瞥する。

 意外そうに瞬きを一つすると、彼は頷いた。


「ああ。俺、水の蜂だから」

 あまりにも自然に告げられた言葉。

 チャッタは普段通りに相槌を打ちかけて、ふと違和感に気づく。

 今、彼は何を言ったのだろう。


「――――ん?」

「なんか、あの人、とんでもないこと言ってなかった?」

 同じく呆然と呟くアルガンの問いに、チャッタは答えるだけの気力を持ち得なかった。

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