第44話 ただの学者
「の、飲んじまった……?」
「ど、どうすんだ?」
なんとも気まずい雰囲気がその場を支配する。
ところがアルガンだけは、強張った表情で歯を食いしばり、小さく声を漏らした。
「これは……やばいかもしれない……」
「え?」
チャッタの疑問の声に被せるように、鼓膜を貫くような奇声が響き渡った。
それを上げたのは、あの小さなヘビだ。激しく身をくねらせ、小さな牙が見える口元から唾液をそこら中に撒き散らしている。毒でも飲み込んでしまったかのような苦しみようだ。
ムルが慌ててそのヘビの元へ駆け寄るが、やがてヘビは完全に動きを止めてしまった。その身が僅かに、ピクピクと痙攣しているだけである。
「し、死んじまったのか?」
「喉に詰まったとか?」
「いやいや、ヘビは喉に獲物が詰まって死ぬってことはねぇはずだぜ」
ムルが片膝を折り、小さなヘビの体に両手を伸ばす。
「――離れろ⁉︎」
アルガン鋭い声に反応し、ムルは大きく後ろに跳んだ。
死んだかと思われたヘビが、ゆっくりと頭を持ち上げる。その身体が徐々に、高熱に炙られた鉄のように赤く染まっていった。
信じられないことだが、大人の腕ほどもなかったその体が徐々に大きく膨れ上がっていく。
ヒツジ、ウマ、ラクダ、どの生き物よりも大きくその体は巨大化していき、とうとう見上げるほどの大蛇へと変貌を遂げてしまった。
鱗の一つ一つは手のひらよりも大きく、針のようだった牙もまるで兵士の持つ槍のようである。
全身の鱗はすっかり赤橙色に染まっており、牙の間を繋ぐ涎も溶けた鉄のようにどろりと糸を引いていた。
正にその姿は、化け物と称すに相応しい。
「な――」
三人組は恐怖で身を寄せ合い、ガタガタとその身を震わせている。大蛇が彼らへ顔を向け、身を大きく後ろに反らす。
まるで、何かをする構えのような。
ムルとニョンが瞬時に彼らの元へ駆け寄り、彼らに思い切り体当たりをする。
熱を凝縮した一本の帯が、先程までハリムたちが立っていた場所へ放たれた。
大蛇が勢いよく口から噴き出したのは、その身と同じ色をした炎である。
床にぶつかり、うねり、周囲に絨毯のように広がっていく。
頬が熱を感じてチリチリと痛み、その感覚でチャッタは我に返った。
「これは、一体……? 魔術? いや、それにしたって、炎の魔術だなんて……」
炎で空気は熱せられているはずなのに、背筋は凍りついたように冷えていた。
大蛇がチャッタの方に目を向ける。赤橙色に染まった鱗の中で、その瞳だけが穴のように黒い。
睨まれていると、闇に呑まれてそのまま消えてしまいそうだ。
「おいっ⁉︎」
チャッタの脇腹に、何かが勢いよくぶつかった。それと共に吹っ飛んだ彼の横を、間一髪で炎が通り過ぎていく。
どうやらアルガンが、咄嗟に助けてくれたようだ。
「あ……ありがとう」
アルガンに倒される形で転倒し、チャッタは左腕を床に打ちつけた。痺れるような痛みが、却って恐怖で支配されていた思考を明快にしていく。
「アルガン。君は、こうなることを知っていたのか? だから必死で、宝玉を追って……?」
アルガンは背後を気にする素振りを見せ、素早く身を起こす。
そして、チャッタの腕を引き、並んだ柱の影へと身を隠した。大蛇の吐き出した炎が、柱に当たって二つに割れていく。
「そう、だな。流石に、ただのヘビがこんな事になるとは思ってなかったけど」
胸元をその拳が震えるほど強く握りしめて、彼は小さな声で告げる。
「俺がいたのは、その――変わった擬似魔術器官を研究する場所で、あの宝玉はアンタの予想通りのモンだ。ヘビがあんな風になったのも、アレの影響だろうな」
チャッタは息を呑む。
彼にとって擬似魔術器官と言えば、神官たちが使う神聖で便利なものだ。
製造法に関しては疑問もあるが、それを使う神官が時折、『水の蜂』と呼ばれているのが少々不愉快。
だが、それだけである。
「どうして、あんなことに……?」
「その仕組みは俺にも分かんねぇよ。ただ、絶対に人の手に渡しちゃいけないもんだとは思ってた」
アルガンが柱の影から顔を出し、様子を伺う。
大蛇がしゅるしゅると舌を出し入れしながら、向かってくる。赤い絨毯がその都度巻き取られているようだが、まるで優美さはない。
幸いあまり視力の良い個体ではなかったためか、チャッタたちの姿を捉えきれていないようだ。
「とにかく、アイツがまた俺たちを見つける前に逃げるぞ! アンタ、あの大蛇を相手にできるほど強いわけでもないだろ?」
「当たり前じゃないか! 僕はただの学者で、兵士様でも何でもないんだから」
チャッタは小声でそう返す。
アルガンは頷き、再び大蛇の動きに集中する。大蛇の頭部が柱を通り過ぎたのを見計らって、二人はそこから飛び出し階段の方へ向かう。
未だに残る炎を避けて走っていくと、ムルとニョンの姿が見えてきた。彼らは壁に寄りかかった三人組を庇うようにして立っている。
ムルはチャッタたちの姿を見て、軽く頷いた。
「良かった。無事だった」
「ムル! どうしたんだい? 先に逃げれば良かったのに」
近寄って声をかけると、ムルは困った様子で眉を顰め、背後を見やる。
「三人とも気絶してしまって、俺とニョンだけでは運べなくて」
チャッタは状況も忘れ、額を押さえて思い切り顔を顰める。通りで、やけにぐったりしていると思った。
「あー、もう! このおじさんたち面倒しか起こさねぇな⁉︎ もう置いていったら良いんじゃない?」
「そう言う訳にも……」
「あー! おい、さっさと起きろよ!?」
アルガンがハリムの肩を掴み乱暴に揺するが、彼は低い呻き声を上げるだけで目覚める気配はなかった。
背後から再び、大蛇の声が響く。悲鳴のようにも聞こえ、反射的にチャッタは背後を振り返る。
大蛇が巨大化したその身を捩り、尾を鞭のように床へと叩きつけていた。断続的に口から炎を吐き出し、まだ何かに苦しんでいるように見える。
大蛇の動きを目で追いかけていたチャッタは、突然顔色を変えて走り出した。
「オイ⁉︎ 何やってんだ⁉︎」
アルガンが呼び止める声も耳に入らない。
チャッタの視線は、暴れる大蛇によって破壊されていく、遺跡に釘付けだった。
太い尾が床の幾何学模様を抉る。吐き出した炎が柱を炙り、その表面を溶かしていく。
そして大蛇は徐々に、玉座の方へと近づいている。
チャッタは炎を避け、瓦礫を飛び越え、でたらめに暴れ狂う大蛇へと向かっていく。
「アンタ、バカか⁉︎」
少し裏返った声が聞こえ、彼の腕は乱暴に掴まれる。
腕の付け根に鋭い痛みが走り、チャッタは動きを止められてしまう。
何をするんだと振り返れば、アルガンが怒っているような驚いているような表情で睨んでいた。
「離してくれ! このままじゃ遺跡が……」
「はぁ⁉︎ アンタさっき自分は『ただの学者だ』って言ってただろうが⁉︎ ――死ぬ気かよ?」
一呼吸置いてから発せられた低い声が、死という言葉の重みを強調しているかのようだった。
しかし、チャッタは唇を強く噛み締め、感情をぶつけるように叫ぶ。
「僕だって死にたくないよ! でも、少し前まで、僕は何も得られずに、砂漠で倒れて虚しく死んでいくんだと思ってた! それをムルに助けてもらって、ずっと憧れだった水の蜂の遺跡を、やっとこの目で見ることができたんだ。それなのにこの遺跡を、今の時代まで残っていてくれた僕の大好きな場所を――こんな形であっさり壊されたくはないんだよ!」
チャッタは、真っ直ぐアルガンを見つめた。
「このまま逃げるなんて、絶対にできない。無理を言ってるんだってことは分かってる。でも僕はこの遺跡を、守りたいんだ!」
君たちは先に逃げてくれ。
そう言ってチャッタは背負っていたクロスボウを手に取ると、大蛇向けて矢を発射させた。
目を狙ったつもりだったが僅かに外れ、硬い鱗へと弾かれて矢は落ちる。
しかしそれで大蛇は、チャッタの方に狙いを定めたようだ。黒々とした瞳が彼へと向けられ、大きく口が開く。喉の奥で紅蓮の炎が渦を巻いていた。
吐き出された炎が、チャッタの身体を飲み込もうと迫る。
思わず目を閉じた彼の腕が、再び強く引かれ、床に尻餅をついた。
熱く、ない。
不思議に思ったチャッタが、恐る恐る目を見開く。
炎で真っ赤に染まった視界の中に、小さな背中が映っていた。
アルガンがチャッタと炎の間に立っている。
正面に向かって突き出した彼の両腕で、炎の進行が阻まれていた。
まるで見えない盾があるかのような、いや、良くみると彼の手のひらからも、深紅の炎が生み出されている。
二種類の炎がぶつかり合い、拮抗し、結果的にその進行を阻んでいるのだ。
アルガンが扉をこじ開けるように腕を振るうと、燃え盛っていた炎が、弾けて霧散した。
彼の両手には未だ、チロチロと燃える炎が宿っている。
何が起こったのだろうか。頬を流れる汗が、チャッタにはやけに冷たく感じられる。
何故アルガンは無事でいられるんだ。
それに、この光景は、まるで彼自身が炎を操っているようではないか。
「分かったよ」
アルガンが何かを決意したような、力強さがこもった声で呟く。
彼は顔を上げて、目の前の大蛇を見据えた。
「炎なら、俺が専門だ! ここは――俺がやる!」
チャッタは、後ろから誰かに腕を掴まれた。
振り替えるとムルがいて、立ち上がれとでも言うように軽く腕を引かれる。
「行くぞ。なんとか、ナージャが目覚めてくれた」
「あ、ああ!」
チャッタはアルガンの背を一瞥すると、ムルに支えられて身を起こす。
後髪を引かれつつも、彼はアルガンに背を向けて駆け出した。
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