第38話 記憶喪失?
「へぇ、水の蜂の事を調べてるのねぇ……」
ご婦人のご厚意に甘えて、チャッタは食事をご馳走になった。若い人には物足りないかも、と言いながら提供された料理は、優しく懐かしい味がする。
「そうなんです。この町は遺跡も近いようですが、何か水の蜂に関する伝承などをご存じありませんか?」
ようやく腹も満たされたところで、チャッタは入れてくれたお茶を飲みながら尋ねた。
香草と砂糖のたっぷり入ったお茶で、口の中に広がる清涼感が内側から身体を冷やしてくれるようだ。
「そうねぇ。知っているのは、有名なおとぎ話くらいね。あとは、私の友人のお祖父様のお婆様だかが水の蜂と結婚していた、なんて話は聞いたことがあるけど」
「ああ。数はそれほど多くないですが、そう言ったお話は僕も聞いたことがあります」
水の蜂は人間と関わりが深かった種族だ。その力や基本的な性格などは、おとぎ話として人々の間で語り継がれている。
水の蜂の人体構造は、ほとんど人と同じだと言う。美しい種族だ。真偽のほどは定かでないが、そういう仲になったという話が出るのも頷ける。
学者の中には、『水の蜂は人間との婚姻によりその数を減らし、やがていなくなったのだ』と言う者もいる。
「人と恋仲になった水の蜂も……まぁ、いたのかもしれません。いたとしても、ごく少数でしょうね。伝わっているモノがなさすぎますから」
水の蜂が滅びたとされる原因は、むしろ。
頭にある考えが過り、思わず口をつぐむ。
同業者たちの間で語られている、水の蜂が滅びた原因とされる一つの説がある。
そのことを考えると、チャッタの心臓は刺されたように強い痛みを覚えた。
彼は自分の頭を軽く小突き、首を大きく横に振る。
そこでふと、隣に腰かけていたムルと目が合った。彼はじっと、食い入るようにチャッタの顔を見つめていたのである。
その横でニョンは、ムルに出されたお茶を盗み飲み、体毛を総毛立たせていた。小動物にとっては刺激が強すぎたのだろう。
「ムル? あ、君は水の蜂について何か知ってるかい?」
そう問いかけると、彼は眉をひそめて僅かに首を傾げた。
「知っている、と言えばそうだし、知らない、と言えば知らない」
「ん?」
謎かけのような、なんだか妙な言い回しである。
「つまり、水の蜂について一般的な知識だけはある、と言うことかな?」
チャッタがそう問いかけると、少しだけ間があった後、ムルはぎこちなく頷いた。
その間はなんだろうとも思うが、これ以上追求しても困らせるだけだろう。ムルは口下手なようだし。
それよりも彼は、ムルに言いたかったことがあったのだ。
「そうだ、それよりも! 君がとってもとっても貴重な遺跡に住んでいる件なんだけど! 他に適した住居はなかったのかな!? 僕としてはすぐに引っ越して欲しいんだけど」
そう口にすることで、とある疑問が浮かぶ。
何故ムルはわざわざ町の外に住んでいるのだろうか。家族はいないのか。町の住人には慕われているようだが、何故この町に住まないのか。
命の恩人で悪人には見えないが、チャッタの中にムルに対する疑念が浮かんでくる。
「ムル。君は……何の為にそんなことを? 快適に過ごすなら、この町にでも住めば良い。敢えて町の外で、貴重な水の蜂の遺跡に住む理由があるのかい?」
ムルは無言のまま、チャッタを見上げている。何か人に言えないようなことがあるのだろうか。
糸が張ったような緊張感が漂う中、助け船を出してくれたのは炊事場に立っていたご婦人であった。
「ムルちゃんはねぇ、今までの記憶が全くないらしいのよー」
彼女から告げられた言葉に、チャッタは目を丸くした。
「記憶、喪失ってことかい?」
「俺が目覚めた場所がその遺跡だったんだ。だから、そこにいれば何か思い出すかもと思って」
「……なるほど」
確かにその話が本当なら、遺跡にこだわる理由も、まぁ納得できるか。
チャッタは改めてムルを眺めた。彼のどこか地に足がついていない雰囲気は、記憶を失っていることに由来するのかもしれない。
記憶喪失を語って何か利益があるとも思えないので、本当の話なのだろう。
「そうか。君も色々あったんだね」
沈痛な表情を浮かべてチャッタが呟くと、炊事場から出てきたご婦人が満面の笑みを浮かべる。
「重ねて言うけれど、ムルちゃんはとってもいい子よ。力仕事だったり、ちょっとしたおつかいだったり、この町の住人はみんな何かしら助けてもらっているわ」
ねぇ、ムルちゃん。彼女が声をかけると、ムルは頷き口を開く。
「その代わり水と食料と、何か良い触感を紹介してもらっているんだ」
「どう言うこと⁉︎」
「ムルちゃんは、手触りが良いものが大好きなのよねー」
叫んだチャッタにお茶のおかわりを注ぎながら、ご婦人がのんびりとした口調で言った。
その言葉で、チャッタは自分の髪の毛をムルに触られたことを思い出す。
まさか、お礼は髪を触らせてもらったから要らない、などと言っていたのも、気遣いなどではなかったのだろうか。
本気でそれが、お礼だと。
「まぁ、ムルちゃんがあの遺跡に住み続けるかどうかは置いておいて、ひとまずチャッタさんを遺跡まで案内して差し上げたら? 専門家の方に見ていただけば、何か新しい発見があるかもしれないわよ」
ご婦人はまるで母親のような目線で、ムルを見つめ微笑んだ。彼は表情を変えずに彼女の顔を見て、視線をチャッタの方へ戻す。
「特に珍しいものはないかもしれない。良いか?」
「ああ、それはもちろんだよ!」
強い口調でチャッタが頷くと、ムルは残りのお茶を飲み干し、即座に立ち上がった。
遺跡はこの町の東北に位置するのだと言う。足場が悪い道のためラクダも使えないが、のんびり歩いても一時間ほどで辿り着けるらしい。
チャッタはムルの案内で、その遺跡へ向かっていた。
行く道には錆色の巨大な岩山が連なり、壁のようにそびえ立っている。長い年月をかけて風にさらされてきた岩肌は、地層を露出させ縞模様を描いていた。巨岩は足下にもあり、それを乗り越えて進まなければならない。
これではラクダに乗るのは、却って危険かもしれない。
「そう言えばムル。ちょっとした疑問なんだけど」
チャッタは少し息を切らせながら、先導するムルの背に話しかけた。
マントの中でニョンが張り付いているらしく、その背は巨大な瘤があるようにこんもりしている。
「あの町で、全くと言って良いほど若い人の姿を見なかったんだけど、何か理由があるのかな? ああ、もちろん無理に言わなくても良いんだけど」
気になりはしたが、その町にはその町の事情がある。好奇心のまま下手に首を突っ込むと、妙なことに巻き込まれる原因にもなるのだ。
それで何度か痛い目を見ているチャッタは、最後の言葉を濁した。
ムルは一瞬振り返ると、少し間があって口を開く。
「元々若者が少ない町だったらしい。けど確か、他の土地へ出稼ぎに出ていると聞いたことがある」
「はぁ、出稼ぎ」
小さな町だ。裕福な暮らしができるとも思えないので、大きな町に職を求めて出て行く者もいるのだろう。
チャッタは自分を納得させるかのように、立ち止まって大きく頷く。
顔を上げると、ムルが積み重なった岩の向こうに消えていく所だった。
「ちょ、ちょっと、ごめんムル! もう少しゆっくり歩いてくれない、かな?」
一人で旅をしているため、チャッタもそこそこ脚力はあるつもりだが、それでも彼の足には追いつけない。
度々この道を越え、町へ通っているからなのか。
チャッタが慌てて後を追い岩を越えると、向こう側でムルが待ってくれているのが見えた。
「ごめん。気がつかなかった」
「ああ、うん。僕こそごめんね。僕の速度に合わせていたら、到着まで時間がかかっちゃうかな」
追いついたチャッタが眉を下げて謝ると、ムルは先の方を見つめながら言った。
「いや、足場が悪いのはここまでで、後はもう」
言葉を切って、ムルが突然駆け出した。
ゆっくり歩くことをお願いした矢先の行動。呆気に取られたチャッタは、呆然と彼の動きを見守ってしまう。
我に返った頃には、ムルの姿は人差し指ほどの大きさになっていた。
「え、ムル!? 一体何があったんだ!?」
聞こえるかは分からないが、チャッタは叫び、慌てて彼の後を追った。
ムルは膝を折って下を向き、何かを見つめているように見える。こちらに背を向けているので、正面に何があるのかは分からなかった。
「いきなり、どうしたの? ゆっくり歩いてって、言ったのに……」
ようやく追いついた。膝に両手をつけ、肩で大きく息をしながらつい非難めいた言葉をかける。
ムルは振り返ることなく、ポツリと呟いた。
「今日はよく、人を拾う日だ」
「え? 何を言って……」
ムルの正面に回り込んだチャッタは、息を呑む。
彼の腕の中には、まるで炎のような髪を持つ少年が、力なく横たわっていたのだった。
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