第37話 彼の家

 改めて自己紹介をすると、その青年はムルと名乗った。ニョンと呼んでいる謎の生物は、彼にも正体が分からないそうである。


「極上。触るか?」

 ムルがニョンを撫でながら言うので、恐らくその感触がだろう。先が細かいその体毛は、光の具合によって限界まで水で薄めた紅色にも見える。


 チャッタが恐る恐る手を伸ばすと、予想よりも遥かに優しく柔らかいものが、ふんわりと手のひらを受け止めた。

 確かにこれは、気持ちが良い。


「うわぁ……これは確かに……! ますます気になるね、一体この子は何者な」

 話しながら顔を上げると、ムルの顔が思ったよりも近くあって驚き、言葉が途切れた。

 何故か彼はチャッタの髪を撫でている。


「あの……」

「チャッタの髪も、ふわふわでとっても良い」

「あ、ありがとう?」


 なんだろう。命の恩人ではあるのだが、とても不思議な青年だ。

 今のところ悪人には見えないが、出会った時から全くと言って良いほど表情も口調も変わらない。

 そう言うたちなのだろうか。


「そうだ。改めて、助けてもらったお礼がしたいんだけど、あいにく何もあげられるものがなくて」

 むしろ相手の貴重な水を飲んでしまった。どうしようかとムルの顔へ視線を送る。

 ちなみに、自己紹介の時に敬語はなしで良いと言われ、今のチャッタは口調を崩していた。


「水のことは気にするな。お礼も別に良い。ふわふわの髪を触らせてもらったからそれで十分だ」

 いや、そんな訳がないだろう。とても吊り合わない。

 気を遣われているなと思いつつ、チャッタは悩ましげに眉を潜めた。


「……近くに町でもあれば、まだ何とかなるんだけどな」

 ひとりごとのように呟くと、それを聞いたらしいムルが首を少しだけ傾げる。

「行きたいのか? 案内、するか?」

「え?」

 チャッタの返事を聞く前に、ムルは立ち上がり荷物をまとめ始めた。



 どうやら行き倒れた場所は、目的地の近くだったらしい。

 ムルはその町に住んでいるわけではないが、時々そこに立ち寄るのだそうだ。

 お礼をするつもりが、また恩を受けてしまうとは。

 チャッタは情けない気持ちになりつつも、有り難く案内してもらうことにした。


 目指す町ジテネには、どうしても立ち寄りたかった訳があるのである。




 ムルが案内してくれたジテネは、決して大きな町でも、目立つ特色のある町でもなかった。むしろ規模で言えば小さいくらいだろう。

 日干し煉瓦の積まれた住居、時々砂塵が巻き上げられるが、歩きやすいように砂が踏み固められた道。

 道の端では、日除けのスカーフを被ったご婦人たちが話に花を咲かせている。実に平和な光景だ。


「あらぁ、ムルちゃん」

 立ち話をしていたご婦人の一人が、ムルを見つけて嬉しげな声を上げる。

「この前は荷物を運んでもらって助かったわ。ウチの人も私ももう年だしねぇ。また何かあればお願いね」

 彼女は少し曲がった腰をさすりながら言った。

 その様子を見ていたのか、今度は別のご婦人がムルに声をかける。


「ああ、ムルじゃないか。この前言ってたウチの窓がついに壊れちまってね。手が空いた時でいいから直してくれないかい?」

「おお、ムルか。ニョンも元気そうだな。今度二人で飯でも食ってけよ」

 通りすがりの老人までもが彼に一声かけていく。

 随分と慕われているようだ。

 チャッタは、相変わらず無表情なムルに視線を向ける。


「あら?」

 するとご婦人が、改めてチャッタの存在に気づいたような声を出す。驚いたよう目を丸くして、彼の姿をまじまじと見つめた。


「あなたは……」

「僕は」

 チャッタがまともに言葉を発する前に、ご婦人は少女のように頬を染めて歓声を上げた。


「ムルちゃんは、年上の女性が好みだったのねぇ!」

「違います!」

 正直女性に間違われるのは慣れっこなのだが、この勘違いは早急に正しておかなければ。

 チャッタは自分は男性であることと、ムルとはほぼ初対面であることを、迅速にかつ丁寧に説明した。


「そうだったのね。ごめんなさいねー、ムルちゃんってばこんなに良い子なのに、誰とも噂にならないんだもの。私があと何十年か若かったらねー」

 ムルはあまりこう言った話題に興味がないのか、チャッタの横でニョンと戯れていた。


 彼にも関係することなのだから、説明を自分に任せないで欲しい。

 チャッタは恨みがましい目で彼の横顔を見つめた。


「それよりもあなた、こんな辺鄙な町まで一体どうしたの?」

 ご婦人の言葉に、チャッタは手を打って我に返る。


「そうだ! 実は僕、この町の近くに遺跡があると聞きまして、それを調べたくてここまで来たんです」

 遺跡、と呟きながら、彼女は少し首を傾げた。畳みかけるように、チャッタはご婦人へと尋ねる。


「ご存じありませんか? この辺りにあると言う、水の蜂が遺した遺跡を」

 この遺跡は規模が小さいとの噂もあり、師匠も敢えて調査をしていないのだと言う。

 そう言う場所にこそ、何か隠された事実が見つかるかもしれないと考えたのだ。


 チャッタは固唾を呑んでご婦人の返答を待つ。

 しばらくして彼女は、両手を合わせて明るい声を上げた。

 何故かムルに視線を向けながら。


「――ああ! そこって確か、ムルちゃんが住んでいるお家じゃなかったかしら?」


「…………は?」

 今、何を。

 思考を停止させていたチャッタの耳に、あっさりと頷いたムルの声が響く。


「住んでる」

「……えっと、ムル?」

 穢れなき瞳とは、このような眼差しを言うのだろう。ムルは真っ直ぐ、チャッタを見上げてくる。


「君の家が、えっと、何だっけ、水の蜂の遺跡?」

「ああ。俺、家がなかったからな」

 その言葉で、チャッタの感情は正しく、爆発した。


「な、ん、で!? 水の蜂の、遺跡だよ!? 水を司り、水を生み人々に寄り添い傷を癒したあの美しき神秘の種族、水の蜂だよ!? そんな彼女らが遺した貴重な遺跡に、住んでる!? え、住んでるって……住んでる? 生活してるってことだよね? ――どうして!?」


 最後の言葉は最早、悲鳴のようだった。

 その思いが通じたのかどうなのか、ムルは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、口を開いた。


「水の蜂のもの、ちょうど良いかと思って」

 なんだその理屈は。ちょうど良いってなんだ。

 怒りも何もかも通り越して、チャッタは目眩を覚えて思わずその場に膝をついた。


「ちょっとあなた、大丈夫? 心配しなくてもムルちゃんなら、別に乱暴なことなんかしてないわよぉ。前に眠っている所を見たけど、死んでるんじゃないかと思うほど動かなかったし」

 謎の慰め方をしてくれるご婦人に、ムルが思い出したように声をかける。


「そう言えば、チャッタは砂漠で倒れていたんだ。水は飲ませたけど、食事はとってない」

「あらそうなの? 大変! それならお腹が空いたのね? 大丈夫よ、私がお腹いっぱい食べさせてあげるから!」


 そうではない。

 しかし空腹なのも事実で。

 チャッタはしばらく反論する気力もなく、その場で項垂れていたのであった。

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