第四章

第36話 星屑を散らしたような

「ネイラさん……?」

 チャッタが呟くと、扉の前で俯いていた彼女が顔を上げた。顔色が良いとは言えないが、昨夜に比べると随分マシに見える。

 あの地獄のような光景を目にしてしまい、彼女は塀の向こう側で気を失ってしまっていたそうだ。


「ムルの様子はどうですか?」

「よく眠っているわ。落ち着いたみたい」

 彼女が、背後に視線を向けながら言った。

 チャッタは、胸のつかえが少しだけ取れたのを感じて、深く息を吐く。


「ありがとうございます、ネイラさん。宿のご主人との交渉からお医者様の手配まで」

「そんなこと! 元はと言えば私が、私の方が迷惑を……」

 彼の言葉に被せるように、ネイラは目を泳がせ、俯きがちに言葉を紡ぐ。


 もちろん彼女のせいであるはずがない。それどころか随分と世話になってしまった。

 しかしそれを言葉にして伝える気力はなく、チャッタは首を振って口角を僅かに上げる。


「部屋に、入ってもよろしいですか?」

「え、あ」

 彼女が体を横に移動させると、チャッタは彼女と目も合わせず、扉の取手に手をかける。


「申し訳ないんですが、しばらくムルと二人にして下さい」

 彼女の返事をも振り切るように、彼は部屋へと入った。



 太陽が顔を出してから数時間。万が一のことを考え、窓に羽目板を入れているため部屋は薄暗い。

 昨夜泊まるはずだった部屋、一番奥にある寝台でムルが眠っている。


 医者によると命に別状はないそうだ。安静にしていれば時期に完治もする。

 そして不思議と、昨夜のことが噂になることはなかった。

 シルハの動向が気になるが、彼はネイラの姿は見ていないはず。少なくとも彼女の存在は隠し通せたのだろう。


 切り抜けられたのはムルのおかげだ。それが目覚めた彼の救いになるだろうか。


 チャッタは隣の寝台に腰をかけ、ムルの顔に視線を注ぐ。

 両目が閉じられ眠っていると、本当に人形か何かのように見えてしまう。規則正しく聞こえてくる寝息は穏やかだ。


 視線を少し移動させると、ムルの頬に身を寄せて眠るニョンの姿が目に入る。ニョンは昨夜から、頑なにムルの傍から離れようとしなかった。


「ムル」

 返事はない。分かっていて、声をかけた自分は狡いと思う。


「アルガンを止められなかったって言ったら君は、僕のことを軽蔑するかな……?」

 口に出したのは自分なのに、胸の中がすっと空くような冷たさを感じる。


 何度も二人に助けられてきたのに、肝心な場面で自分は何もできない。

 チャッタは膝の上で強く拳を握る。


 仕方がないのだ。

 自分の目的は、水の蜂がいなくなってしまった理由を探ること。それが生きる目標と言っても良い。

 だから、どうしようもなかったのだ。

 胸の中でその言葉を繰り返す。


「『駄目だと思ったら、お互いすぐに別れるって』、なんでそんな風に決めちゃったんだろうね」

 瞳から滴がこぼれた訳は、悲しみのせいか悔しさのせいか分からなかった。





 大きな翡翠にも似たの双眸そうぼうが、長いまつげでゆっくりと見え隠れする。果実のように紅く色づいた頬が、染料を一滴落としたように色味を深めていった。

 少女に見える少年は、肩まで伸びた絹の髪を揺らし、首を傾げる。


『それが、水の蜂……?』

『ええ、そうよ。水を司り、皆に分け与え、人々を癒し寄り添う。とっても美しい者たちでしょう?』


 師匠は卓上に置かれた石版から顔を上げ、柔和に微笑む。少年は再び、水の蜂に対する知識が刻まれたそれへと視線を落とした。

 石板は、今まで何人もの学者たちが膨大な時間をかけて記録し、まとめたものであると言う。


 水の蜂と言う種族の特性、扱う魔術の効果、そしてその生命の在り方。

 少年は感嘆の息を漏らす。瞳を輝かせ、師匠と呼ぶ彼女を見上げた。


『すごいね! 本当に、とってもきれい……』

 ぜんぜん違う。見た目じゃなく、なによりもその心が在り方が本当に美しい。


 母や伯父や集落の人たちに、どんなに持てはやされたとしても、自分は決して彼女らに近づくことはできない。少年は素直にそう思った。


『すごいなぁ、この国にこんな、きれいな人たちがいたんだね!』

 少年の胸中を満たしていたのは、自分がこんな美しい者になれないことへの絶望ではなかった。

 砂漠の中でオアシスを見つけたような、暗い闇の中で一際光る星を見つけたような。


 あの時生まれた感情は、少年だったチャッタにとって何よりも大切な、だった。




 朦朧とした意識の中で、いつの間にか懐かしい場面を思い出していた。

 喘ぎながら鉛のような足を一本ずつ動かす。頭が酷く重い。足がもつれ、チャッタは前のめりに倒れ込んだ。

 舞い散った砂塵が風に飛ばされ、またどこかの砂と混じり合う。


 手足に力を入れようとするが、自分の体なのかを疑うほど自由が効かない。僅かに眼球を動かすが、それでも視界に入るのは砂ばかり。


 地図が違ったのか自分が道に迷ったのか、目的としていた町はどこにもない。直前の町で水や食料と引き換えに、ラクダを手放したのもいけなかった。

 視界がぼやける。もう目線一つも動かせそうになかった。


 ここで終わってしまうのか。やっと、やりたいことを見つけたのに。何も成せないまま、砂埃にまみれて消えていくのか。

 まぁ、そうだ。姿形をどんなに賞賛されようと、自分は所詮、こんなものなのだろう。


 嘲笑のような笑みが、彼の乾いた唇からこぼれる。枯れた瞳では、悔し涙すら流すことができなかった。



 

 不意に意識が浮上する。刺すようだった日の光が、幾分か淡く和らいでいるように感じた。

 チャッタはゆっくりと目を開く。霞む視界は、瞬きを繰り返す度少しずつ鮮明になっていく。


 目に入ったのは、星空だった。

 身を凍えさせるほど冷えた砂漠の夜。しかしその夜空は、無数の星が輝く夢のような光景だ。

 身を焼く日の光から逃れられるその時間に、彼は安心感を覚えることも多かった。


 二つの星空がパチパチと見え隠れする。星空だと思ったのは、夜空のように澄んだ誰かの双眸だった。

 自分より年下の青年のようだ。黒々とした髪に作り物のような容貌。

 そして、夜空に星屑を散らしたような瞳。


「起きた。よかった」

「っ、あ……」

 淡々とした口調で告げられ、チャッタは驚きと共に声を出す。酷く掠れていて、まともな言葉は紡げそうになかった。


 そんな彼に青年は水袋を差し出す。中身が大きく揺れて、液体がぶつかる音がした。


「もう、自分で飲めるか?」

 一瞬戸惑って、チャッタは僅かに顎を下に動かす。声は掠れるものの、身体は随分と楽に感じる。

 青年はチャッタの背中に手を差し入れ、そっと上半身を起こすのを手伝ってくれた。


 慌てたように水を口に含むと、乾いた喉に冷たい液体が突き刺さり咽せてしまう。苦しげなチャッタの背を、青年が労るような仕草でさすってくれる。

 落ち着いた後でチャッタは、ゆっくりとそれを口に含み飲み下していく。

 夢中で飲んでいると、いつの間にか水袋は空になってしまっていた。

 

「あ、ごめんなさい。全部飲んでしまって……」

 チャッタは罰の悪い顔をして、隣の青年へ声をかける。彼は声を出さず、首を大きく横に振った。

 気にするなと言うことだろうか。


 チャッタは改めて自分の周りを見回す。自分と青年が入っているのは簡易の天幕の中のようだ。

 野営をする時などに使う、杭を砂に埋めてロープを張り、厚い布を被せたものである。


 青年の横には水の入ったわんさじ、そして湿らせた布が置かれていた。恐らくそれで倒れた自分の体を冷やし、少しずつ水を飲ませてくれていたのだろう。


 助けてもらっておいて何だが、見ず知らずの他人に何故ここまで。

 水や食料が目的なら、そのまま奪って行けば良い。しかもそれすら持っていなかった自分を、わざわざ生かしたのは何か考えがあるのだろうか。


 疑念が首をもたげてくるが、チャッタは大きく首を振る。警戒するのは後で良い。

 チャッタは青年へ向き直ると、深く頭を下げた。


「この度は本当にありがとうございました。貴方が僕を見つけて下さったのですか?」

「違う」


「――え!?」

 予想外の答えに、思わずチャッタは弾かれたように顔を上げる。

 青年は視線をチャッタの後ろに向けて、そっと片手を差し出した。


「そっちにいるニョンが、あなたを見つけたんだ」


 ニョン。

 聞き慣れない単語に、チャッタが振り返る。


「にょ」

 奇声が聞こえたと同時に、ふわふわの毛玉と目が合った。


 ヒツジの毛を丸めたような体に、申し訳程度に耳らしきものと手足らしきものがくっついている。

 その中の、黒胡椒のような瞳としばし見つめ合う。

 チャッタは瞳を輝かせ、背後の青年を振り返った。


「なにこれ!? 今までこんな生き物、見たことがないよ!? ひょっとして、新種の生物かい!?」


 黒髪の青年は何度か大きく瞬きをして、軽く首を傾げた。

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