第33話 傷

「チャッタ。ここを動くな」

 呼ばれた。そう思った瞬間、既にムルは駆け出していた。

 チャッタが慌てて顔を上げると、彼の魔術によって生み出されたナイフが数本、その背を追うように飛んでいく。

 徐々に速度を上げムルを追い越した刃は、迷わずリムガイへ向かって飛来した。


「うわぁ!? 危なっ!?」

 ふざけているのかと思うほど大袈裟な悲鳴を上げ、リムガイは大きく横に跳躍してそれを避ける。

 水の刃は地面に深く突き刺さり、崩れて元の液体へと戻っていった。


 リムガイが立っていた場所まで来ると、ムルはアルガンと向かい合う。


「アルガン」

 ムルは明瞭な声で、その名を呼んだ。

 その声など聞こえていないかのように、アルガンは目を伏せて唇を引き結んでいる。


「ちょっと!? 話の途中に割り込むなんて、失礼じゃないかな」

 飄々ひょうひょうとしていたリムガイが、初めて顔を不快そうに歪めた。駆け寄りながら腰の剣を抜くと、ムルの脳天を狙い切り掛かる。

 広場に金属同士がぶつかる甲高い音が響いた。


「――ん、針?」

 自分の剣を受け止めた物を認識した途端、リムガイの表情が楽しげに輝いた。

 珍しいものを見つけた子どものようである。


「へぇ、まるで蜂さんみたいだね。でも、まさか本物じゃないよねっ!」

 彼は刃を横に滑らせるようにして流し、ムルとの競り合いから抜け出した。

 再び大きく後ろに下がると、剣を真横に構え腰を軽く落とす。


 その手から生まれた緋色の炎が、蛇のようにとぐろを巻き刃へ纏わりついていく。

 まるで兵士たちの命を襲ったのように。


 ムルは焦った様子でリムガイへと向かった。手をかざして水を無数の針へと変え、炎を纏った剣へと一斉に放つ。

 リムガイは、悪戯が成功したような笑みを浮かべた。


「残念。さっきのはやらないよ。だって、兄さんに当たっちゃうだろっ!?」

 リムガイが片手を振るうと、剣の炎が刃から離れ意志を持ったように動き出す。大蛇ように身をくねらせ、一瞬で水の針を消し去った。

 そして炎の蛇は素早くムルの死角に回り込む。彼の注意が一瞬そちらに向いた。


「あ――」

 チャッタは目を見開く。

 やけに遅々として見える動きで、リムガイが両腕を大きく振り被って下ろす。


 白銀の刃はムルの体を容易く切り裂いた。


「――ムル!!」

 声を裏返して叫ぶチャッタの方へ、ムルの体が飛んでくる。

 砂塵を舞い上げ、両足が地に長い直線を引いて止まった。


 どうやら大きく後ろに跳び下がることで、致命傷を避けたようである。


「ああ、倒せなかったか、残念。んー、やっぱり蜂さんな訳ないよね。もしかして元神官とか? え、だったらなんで魔術器官回収してないんだろう? それになんか気配が……」


 ムルの体がぐらりと傾き、地面に片膝を折った。

 チャッタは急いで駆け寄って、恐る恐る傷口を確認する。


 致命傷は避けたとは言え、大きく服が切り裂かれ、肩から胸にかけて赤黒い線が覗いている。

 影になっていてよく見えないが、火傷も負っているかもしれない。


 すぐに治療をしなければ。


「ムル……?」

 アルガンが呆けた様子で小さく呟く。その眼差しは虚ろで、目の前の現実を認識できていないようだった。


 ムルはまだ立ち上がろうとしているのか、足に何度か力を入れている。僅かに膝が地面から浮く。しかし、すぐに体がぐらりと傾き、地に手を付いた。

 表情には変化が見られないが、額には脂汗が滲んでいる。この傷だ。痛みを感じない訳がない。


「ムル、無理しちゃ――」

 声をかけようとした時、チャッタの耳が異質な音を拾う。背後から何かが近づいてくるのだ。

 ニョンだ。

 塀の影に隠れていたはずだが、ムルを心配して出てきてしまったのか。


「ニョン!? 駄目だよ、離れてて‼︎」

 ニョンが傷つけられでもすれば、ムルが悲しむ。

 チャッタは状況も忘れて、怒鳴るように声を張り上げた。


「にょん?」

 リムガイの視線が、跳ねているニョンへ向く。

 訝しげにその毛玉を眺めていたが、やがて瞳を大きく見開き、彼は感嘆の声を上げた。


「え、実験動物までいるの!? うわぁ、とっくに全滅してたと思ってた!」


 でももう魔術器官の力は残ってないか、ツマラナイなぁ。

 リムガイは未だひとりごとのように呟いている。

 実験動物とはまさか、ニョンのことを言っているのだろうか。

「実験、動物……? 一体何を」


「にょ、にょー‼︎」

 再び思考を止めそうになったチャッタを、ニョンの奇声が呼び戻す。

 呼び戻したのは、彼だけではない。


 呆然と立ち尽くしていたアルガンが、その声に応えるようにハッと息を呑み顔を上げた。


「っ、くっそぉ‼︎」

 ほえるように叫んだのと同時に、彼の拳は文字通り発火する。

 震えるほど強く握ったそれを振り被り、アルガンはリムガイへと飛びかかった。

 怒りのためか、精細さを欠いていた一撃はあっさり躱されてしまう。


「怒らないでよ、別に死んでないんだしさぁ! 炎は得意だけど、まともに当たれば熱いし怪我しちゃうだろ――あ」

 突然だった。


 リムガイは何かに気づいた様子で声を発すると、なぜか広場の入り口の方へ駆けていく。

 壁に向かってふわりと跳躍すると、再び塀の上へと飛び乗った。


「ごめんね、兄さん! もっと話したかったけど、僕そろそろ行かないといけないんだ。仕事の集合時間、間に合わなくなっちゃう」

「あぁ!? どこまでも馬鹿にしやがって! 逃すと思って」


 駆け寄ろうとしたアルガンだったが、リムガイがスッと指し示した先を見て動きを止める。

 彼の指先はチャッタたちの方へ向いていた。

 恐らくこのままアルガンが動けば、リムガイは彼らに攻撃を仕掛ける。そう言う意味だ。


 足を止めたアルガンを見て、リムガイは一瞬表情を消した。


「ここから西にあるガンデウ」

「は……?」

 見上げたリムガイの顔は、あの好青年然とした笑みだった。彼はアルガンを見下ろして、まるで握手でも求めるように片手を差し出す。


「こんな中途半端じゃ、兄さんも嫌だろ? 満月の夜にその集落で仕事だから、兄さんもおいでよ。そこでもう一度、話をしよう」

 差し出したその手を下ろし、リムガイが背を向ける。

 肩越しに振り返った横顔が、月明かりで淡く輝く。

 彼は妖しくアルガンに向かって笑いかけた。


「待ってるね。アルガン兄さん」


 彼がマントを翻したのを合図に、広場で燻っていた炎が再び大きく火柱を上げた。

 まるでリムガイとアルガンを隔てる壁を創るように。


 アルガンは大きく舌打ちをして、火柱の前で大きく腕を振るう。リムガイの炎とアルガンの炎は、交わることなくぶつかり、互いにその存在を打ち消し合った。


 火柱は消えた。しかし視界が遮られている間に、リムガイの姿は忽然と消え失せている。


 周囲には肌を焼く熱と鼻を刺す異臭と、兵士たちの体を焼き尽くした後の煙だけが残されていた。

 夜風が広場を吹き抜け、それらを散らしていく。




「――オイ! これは貴様らの仕業か!?」


 訪れた静寂を切り裂き、低い男の怒号が響く。今までここにいた誰のものでもない。

 何故かチャッタだけが、その声に既視感を覚えていた。

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