第27話 綺麗にしているのは?
宿の外へ出ると、空はすっかり紅く染まっていた。冷えてきた空気が日中熱せられていた身体に心地よさを感じさせる。
空を見上げてネイラは軽く息を吐き、両手を腰に当てた。
「さて。私とイベーラは一旦家に帰るわね。また
「今日はありがとうございました。良い宿も見つかりましたし、リペのお話も大変興味深かったです」
チャッタは彼女にお礼を渡し、深々と一礼した。この町の相場に詳しくはないが、宿も
「また何かあればよろしくお願いします。もう何日かはこの町に滞在する予定ですので」
「私も楽しかったわ。こちらこそありがとう! 極上の手触りにも出会えたし」
そう言うとネイラはムルと目を合わせ、同時に深く頷いた。
気が合ったようで何より。チャッタは曖昧な笑みを浮かべる。
彼女は足下のイベーラを抱き上げると、三人と一匹に向かって一礼して踵を返す。
「待った」
ネイラを呼び止めたのはアルガンだった。
「帰る前にもう一つ、頼みたいことがある」
「え、一体どうしたの?」
ネイラと共に、チャッタも目を丸くする。彼がこんなふうに頼み事だなんて珍しい。
アルガンは一歩前に出ると、口を尖らせて不貞腐れたような顔で言う。
「まだ名物料理の店、教えてもらってないんだけど」
「ああ、なるほど」
チャッタはため息混じりに呟き、ネイラは大きく口を開いて可笑しそうに笑った。
その夜。
彼女が教えてくれた店は、三人の腹と心を大いに満たしたのだった。
チャッタとムルが部屋に戻ると、満腹になって寝ていたアルガンがその身を起こした。彼は鼻腔を何度か動かし、指で鼻の下を擦っている。
チャッタは、ああ、と納得したような声を上げた。
「外の小屋で
試しに腕を鼻に近づけて匂いを嗅ぐが、身に纏った本人には分かりづらいらしい。
しかし煙浴はどこでもできる訳ではない。材料や道具も必要でそれを持ち運ぶ余裕もない為、普段のチャッタは薬草の粉末を油で練って
宿の主人に聞けば、リペの町には煙浴用の香草が安価で売られており、場所も道具も提供できると言うこと。流石大きな町だ。
彼は早速ムルを伴って煙浴を行い、戻ってきた所だったのである。
「アルガンも行けば良かったのに……。もし砂漠の真ん中で病でも患ったら、死活問題だよ」
「えー、だってそれの匂い嫌いだし」
「じゃあせめて、いつもの軟膏くらい塗りなよね」
彼はそう言いつつ、寝台に腰を下ろして荷物から人差し指くらいの小瓶を取り出す。頭に巻いたターバンを取ると、緩く波打つ髪が柔らかく背中に広がった。
チャッタは片手で髪をひとまとめに掴み、前屈みになって胸元に流す。
先程の小瓶の中身を手のひらに乗せると、もう片方の手のひらで伸ばして髪の毛に塗り込んでいく。
これは彼が髪の手入れに使う香油である。瑞々しく官能的な香りが漂い、絹色の髪がその艶を増していく。
「相変わらず熱心だよな」
アルガンが感心したような呆れたような言葉を発した。
「アンタって、そんなに気をつかって綺麗にしてるクセに……女に間違われたり口説かれたりすると嫌がるよな。もう、ある程度は仕方ないんじゃね?」
どことなく小馬鹿にしたような言い方に、チャッタは片方の眉を跳ね上げて振り返る。
「あのねぇ! 僕はそういう目的で、見た目に気を遣ってる訳じゃない。前にも言ったけど」
「はいはい。『外見が好ましい方が、旅先で様々な交渉をする時に有利に働く』。要するにみんな見た目に弱いよねって話だろ」
身も蓋もない言い方にチャッタは引っかかりを覚えたが、強ち間違っている訳でもない。彼は黙って髪の手入れを再開する。
そこまで極端でなくとも、初対面の旅人がする頼み事に対して、外見が少しでも好ましい方が助けてあげようと言う気になるだろう。
使えるものは何でも使う。これも、チャッタが師匠と旅をしていた時代に教わった事の一つだ。
ムルはニョンの身体に軟膏を塗ってやっている。毛艶保持の意味も兼ねてだ。ニョンの手触りはムルにとっての死活問題である。
部屋に様々な香りが充満し、ついにアルガンは鼻を手で摘みながら言う。
「あのさぁ、せめて窓は開けてからやってくれねぇ? 色々混ざって凄い匂いになってるんですけど」
「そうだね。ごめん、気がつかなくて」
主張はもっともだと思い、チャッタは素直に謝り立ち上がった。木製の窓の蝶番を外し開け放つ。
三人に充てがわれた部屋は三階。非常に見通しが良いと言うほどではないが、周囲の建物よりも少し高い位置にあった。
民家の入り口や窓から灯りが漏れ、ぼんやりと町全体が発光しているようにも見える。東側の空などまるで日が昇る直前のような明るさだ。あの辺りは商業区なので、まだ飲食店などは営業を続けているのかもしれない。
チャッタが窓枠に手をかけ白い息を吐き出した時、住居区の中を移動する灯りを見つけた。ランタンの灯りだろうか。跳ねるように動いている事から、持ち主が走って移動していることが分かる。
その光はやがて宿の真下までやってきて、その人物の輪郭を
「え、ネイラさん?」
予想以上に大きな声が出てしまい、思わず口を押さえた。
ネイラは立ち止まり、不思議そうに周囲を何度か見回している。引き止めてしまったことを申し訳なく思いつつもう一度声をかけると、彼女は視線をこちらへ向けた。
「チャッタさん? そうか、ここおじいちゃんの……」
「すみません。偶然窓を開けたらネイラさんを見つけて、思わず声を出してしまって。何かあったんですか?」
普通の声量でも会話はできそうである。チャッタの謝罪と問いかけに対して、彼女は軽い調子で言った。
「あー、実は、イベーラがいなくなっちゃってね」
「え!? それは、大変なんじゃないんですか?」
チャッタは目を丸くするが、彼女は良くあることなの、と笑う。
「今夜は多分、オアシスを囲う壁の前じゃないかと思うのよね。カジおじいちゃんから思い出話を聞いたから。放っておいていても帰ってくるんだけど、今日は夕飯も食べずに行っちゃったからね」
それで迎えに行くことにしたそうだ。
なるほど、とチャッタは納得した後で、少し声を大きくしてネイラへ声をかける。
「良かったら僕がお付き合いしますよ。夜は兵士様たちもお休みでしょう? 一人歩きは危ないですし」
「あら、それを言うなら、うんと綺麗な貴方の方が危ない目に遭いそうに見えるけど?」
彼女が揶揄うように首を傾げたのが分かった。
確かにチャッタは腕っ節に覚えがある訳ではないが、仮にも男である。
それとも下心に気づかれただろうか。
彼が悩むような表情で固まっていると、背後から深いため息を吐く音が聞こえてきた。
「違う違う。あのな……」
アルガンが窓枠とチャッタの間に身体を割り込ませてくる。
チャッタを指差し、彼はネイラにこう告げた。
「コイツ。多分オアシスに行きたいだけだと思う」
「まあ、そう、かな……」
オアシスを見ることは目的の一つだったのだ。壁に囲われているのだろうが、ネイラの祖母も隙間からこっそりオアシスを見ていたとも聞く。だったら自分も見られるのでは。
そんなことを期待して出た言葉だった。
気まずそうに苦笑するチャッタに対し、ネイラは戯けた口調で笑う。
「ああ、そう言うことなら、ご案内させていただきますね。お客様」
「はは、どうぞよろしくお願いします」
チャッタは窓枠から顔を引っ込めると、髪をターバンの中へまとめ最低限の荷物を身に付け、そして最後にマントを羽織った。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね!」
弾んだ声でそう言って、彼は軽い足取りで部屋を飛び出した。
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