第26話 宿の主人と先代の案内人

 なぜだろう。あの女王蜂の壁画を見つめていると、懐かしさとも喜びとも違う、無性に泣きたくなるような気持ちになった。


 そして何としても、自分は女王の元へいかなければならないのだと思った。

 彼女が何処にいるのか、それどころか生きているのかすらも分からないのに。


 約束。

 誰と一体、何の約束を――。


 本当に大切な約束だと言うことは解っていた。それが生きる目的と言って良いくらい、重要なモノ。

 だからこそ、忘れたままの自分が悔しくて情けなくて、苦しい。


 けれど今の自分では、その感情ですらことができなかった。




 

 時間はかなり経ったと思っていたが、まだ太陽は遠くの西の空で輝いていた。

 チャッタたちが教会の外に出ると、道の端に座り込んだアルガンと目が合う。彼は不貞腐れたような表情で二人を睨んでいた。

 絶対に何か言われる。

 そう身構えたチャッタだったが、予想に反して彼は無言であさっての方向を向く。


「おかえりなさい。やっぱり、かなり熱中してたみたいね」

「申し訳ありません。いざ目の前にすると自制できなくて」

 両手を合わせ謝罪したチャッタは、横目でアルガンを一瞥する。

 その不思議そうな表情に気づいたのだろう。ネイラは口元に手をやり、含むような笑みを浮かべた。


「ふふ。実はね、二人を待っている間に」

「おい! 言うなよ!?」

 アルガンの静止は間に合わず、彼女はある事実をチャッタ達に告げた。


「迷子になってたのよねー、彼」

「迷子?」

 アルガンは頬を赤くして歯を食いしばると、人差し指をチャッタたちに突きつける。一息に捲し立てたそれは、言い訳にも聞こえた。


「こんなにこの町の道が複雑だとは思わなかったんだよ! 言っとくけどな、ぜったいにアンタらだってあの道に入り込んだら迷子になるからな! ……そこの毛玉も嬉しそうに跳ね回るな!」


 ニョンはアルガンを揶揄うように、その周りをぴょんぴょんと跳ね回っていた。

 アルガンの頭に血が上る前にと、すかさずムルがニョンを抱き上げ回収する。


「彼ね、待っている間暇だからって、あのオアシスを囲む壁の辺りまで散歩してくるって言ったのよ。止めたんだけど、大丈夫だって自信満々に行っちゃって。で、案の定帰って来ないなと思っていたら」

 そこで彼女は言葉を切って、足下のイベーラを抱き上げる。

「この子が連れ帰ってきてくれたの」


 まさかの猫に助けられたのか。

 チャッタは堪らず吹き出してしまう。

 アルガンは怒りと羞恥で顔を赤らめながら、笑うな、と拳を天に突き上げる。子どもっぽい仕草に、チャッタは再び笑みを浮かべた。


「ごめんごめん。それにしても、イベーラも道に詳しいんだね。流石、案内人さんの相棒だ」

「そうね。この子は元々おばあちゃんに良くくっついてたから、もう町全体が庭みたいなものよね」

 ネイラは誇らしげにイベーラの頭を撫でる。イベーラもどこか満足気に鼻を鳴らした。褒められたことを分かっているのだろう。

 愛猫あいびょうの可愛らしい仕草に、彼女は再び笑い声を漏らす。


「あ、ごめんなさい。早くしないと日が沈んじゃうわね。宿へ向かいましょうか」

「では、よろしくお願い致します」

 東の空は紺色に染まり、夜の気配が近づいてきていた。





 ネイラの案内で、チャッタたちは移住区の奥へと進んでいく。

 観光地から住民たちの生活空間へ。時折住居から出てきた住民と顔を合わせたり、開け放たれた窓から意図せず生活の様子が垣間見えることもある。

 他人の家にお邪魔しているような、少し落ち着かない気持ちになる。


 やがて彼女が足を止めたのは、連なる家の一角だった。日干しレンガを積まれて造られたごく一般的な建物で、入り口には慎ましやかに木製の看板がぶら下がっている。

 それがなければ、普通の民家として通り過ぎてしまいそうだ。


「ここよ。商業区からかなり離れているし、民家の余ってる部屋を貸してるだけだから、いわゆる穴場なのよね」

 ネイラはそう言って木製の扉を軽く叩く。返事があったことを確認し、彼女は扉を開いた。


「カジおじいさん! お客様連れてきたわよ」

 正面奥に受付をする為のカウンターがある。そこの向こう側に座っていた老人が、レイラを見とめて破顔した。

「おお、ネイラか。毎回すまんな」

 しゃがれ声で歯を見せて笑うこの男性が、宿の主人なのだろう。


 普通の民家とネイラは言っていたが、広さはかなりある。十人程度の人数なら十分ここで暮らせるのではないだろうか。

 足下には獣の毛で編まれた絨毯が一面に敷かれ、その鮮やかな色彩が目に飛び込んでくる。部屋に置かれた棚やカウンターも細やかな彫刻が施された木製だ。

 客が入る場所だから見栄え良くしているのか、それともリペの住人の生活水準が高いのか。


 ネイラは部屋の奥へ足を踏み入れると、カウンターに両肘を付いた。そしてどこか得意げに笑う。


「そうよ。他ならぬ私の紹介なんだし、おまけしてあげてね!」

「はは! まぁ、できる範囲でな。これでもこの辺じゃ破格の金額だ。毎回安く安くじゃ潰れちまうよ」

 主人は白髪頭をふしくれだった手で撫でた。褐色の肌に刻まれた笑い皺がくっきりとその線を濃くする。


 ネイラの祖母の知り合いと言っていたが、確かに随分と親しげな雰囲気だ。

 彼女は主人の反応に、悪戯っぽい笑顔を見せる。それを見て彼は、何故か困ったように顎をかいた。


「それにしても、言うことから何から益々ミレイナに似てきやがって。あのじゃじゃ馬がもう一人増えたみたいでどうも落ちつかねぇ。頼むからアイツみたいに、壁の隙間からこっそりオアシスを見に行くとか止めてくれよ」


「ええ!? おばあちゃん、そんな事してたの!?」

 ミレイナと言うのがネイラの祖母の名だろう。この発言にはチャッタ達も目を丸くする。


「おうよ。そのネコとも一緒に行ってたみてぇだから、結構最近までな。問い詰めれば『見ているだけで何も悪い事はしてないよ』ときたもんだ。こっそり侵入している時点で十分ヤバいってのに」

 その時の事を思い出したのか、主人は肩をぶるりと震わせる。


 何か思うところがあったのか、イベーラはカウンターの上に飛び乗ると一声鳴き声を上げた。

「そう。イベーラはオアシスを見ているのね! そう思うと少し羨ましいかも」

 絶対にやるなよ。

 真顔で忠告した主人は、そこで入り口に立ったままだったチャッタ達へ視線を向けた。


「おお、すまんな。せっかくのお客様を待たせちまって。この子とはご覧の通りの関係でな、ばあさんの事もあってつい気が緩んじまう。こんな場所で良ければゆっくり休んでくれ。……あまり洒落たもてなしはできんがな」

「いえ! 屋根があれば十分ですから」

 屋根ならいくらでも貸すぞ。チャッタの言葉を受け、主人は豪快に笑う。


 そこで彼はふと真顔になると、チャッタの容貌を凝視した。

 少し後ろに立つアルガン、ムル、その肩に乗る謎の毛玉へ視線を移動させて行く。

 最後に眉を潜めて、困惑の表情を浮かべた。


「ところで、部屋は何部屋だ? その毛玉は、一緒で良いんだよな? そこの姉ちゃんは……さすがに一人部屋か」

「まとめて一部屋で大丈夫です! ちなみにこの性別不明なニョンを除いて、あとは全員男ですので!」


 力強く返答したチャッタの声を聞いて、

「全員男性……あら、そうだったの?」

 ネイラも目を丸くして、口元に手を当てたのだった。

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