第20話 大切にしてほしい気持ち
慌ただしい夜が明けた。
まずムルが渡した分余裕ができた水を使い、体調の悪い住民たちを看病して回る。
ムルは言われた通り人々に狩りを教え、ついでに採集のコツも伝授していた。彼の作った罠には、高確率で美味しくも触感もよくない生物“ヌマクルオオトカゲ”がかかり、住人たちは苦い顔をしていたが。
これも罰の一つだと思って我慢してもらう。
チャッタはと言うと、今度水の遣いに提出する文書を長と共に作成することになった。
なんだかんだとやることがあり、予定の出発時刻はとうに越え、三人はもう一日滞在期間を伸ばすことになったのである。
空が白み始め、遠くの空が紅く染まっている。チャッタは長の住居から出て顔を上げると、砂上の遥か遠くへ目を凝らした。
目指すリペの町はここから後三日ほどの距離、もちろんまだその片鱗すらも見えない。
ふと彼は視線を少し左にズラす。集落と砂漠の境界、とも言える場所。砂から突き出た岩の上に小さな背中が見えた。その子は一人、足を投げ出して岩に腰を掛けている。
「コドル?」
おおよそ確信を持って声をかけると、驚いたように肩を震わせ予想通りの顔がこちらを振り返った。
「あ、お兄ちゃん」
「どうしたんだい? こんな所で。そろそろ日も暮れるし、冷えてくるから早く戻った方が良いよ」
コドルは小さく頷くも、その場から動く素振りを見せない。チャッタは息をついて微笑むと、彼の隣に並んで腰を下ろした。
『ねー、ちゃんと獲れてる?』
『獲れてます! しかも……サバクアシドリです!』
『良し! やっぱ俺の罠の方が良いヤツ獲れるじゃん! ――罠まで触感至上主義とか、どんな執念だよ』
どうやらコドルの視線の先には、アルガンと集落の住人たちが数人居たようである。
離れた距離にいるその姿は親指程度の大きさなのだが、やり取りは明瞭に聞こえてくる。何も遮るものがない砂漠だからこそだろう。
彼らは朝仕掛けた罠にかかった“サバクアシドリ”を回収しているようだ。
飛ぶより走ることに特化した砂色の鳥で、その脚の肉は弾力があり非常に美味しい。滅多に獲れない事と、小脇で一抱えできるほどの体躯しかない事が欠点だ。
「なんだかんだ言って、結局協力しちゃってるんだもんな」
楽しげなアルガンの声を聞き、チャッタは笑い声を漏らした。コドルからは何の反応もない。チャッタは元気のないコドルへ視線を下ろし、少し迷いつつ口を開く。
「――ごめんね。あの時のアルガン、怖かっただろう? なんて言うか、ちょっと……いや、かなり物騒な所があるけど、基本的に良い子だから」
するとコドルは驚いたように目を丸くし、慌てて頭を横に振った。
「だ、大丈夫だよ? 僕がその、考えてたのはそのことじゃなくて」
「お父さん……たちのことかい?」
その問いに、コドルは拳を握って下を向く。
意外にもはっきりとした口調で、彼は話し始めた。
「あれから、お父さんたちに色々きいたんだ。どうしてお兄ちゃんたちから水を盗もうとしたのかとか、お母さんが身体の調子が悪かった理由とか。お父さんたちの旅が、どんな旅だったかとか」
僕は何も知らなかったんだね。コドルは少し大人びた表情で呟く。
「大人たちが僕の知らないうちに、すごく大変だったってことは分かった。でも、それでも、どんな理由があっても、お父さんたちが悪いことをしようとしたのは……すごくイヤだったんだ」
「そっか」
コドルは自分の胸の辺りに片手を置いた。
「それでお父さんたちのことを、嫌いになったってわけでもないんだ。だけど、この辺りが苦しくて、もやもやして……つい、一人で出てきちゃったんだ」
この子は、善い子だ。本当に。
チャッタは彼の名を呼び、その小さな頭に手をそっと乗せた。
「その気持ちはね。できればずっと、大切にして欲しいな」
大きく瞬きをしたコドルは、軽く首を傾げる。そのあどけない表情はどこか彼を思わせて、チャッタは眩しげに目を細めた。
「その気持ちを大切にして、忘れずにいてくれたらきっと――君たちは大丈夫だよ」
「……うん。分かった!」
始めは少し戸惑っていたようだが、やがてコドルは大きく頷く。
全てが伝わった訳ではないだろう。それでも決意を秘めて頷いた瞳が本当に綺麗で、チャッタは彼の頭を宝物のように優しく撫でた。
コドルはくすぐったそうに微笑んでいたが、不意に何かを思い出したように少し目線を上に上げる。
「そうだ。僕、お兄ちゃんに聞きたいことがあるんだ」
「聞きたいこと?」
ホントのこと言ってね。彼はそう付け加えてから、遠慮がちに口を開く。
「お兄ちゃんの旅は、辛い? 苦しい? それとも――楽しい?」
コドルの表情は不安げだったが、何処か期待しているようにも見える。
その期待に応えるように、チャッタは歯を見せて悪戯っぽく笑って見せた。
「とっても、楽しいよ!」
「そっか!」
コドルは初めて会った時と同じく、瞳を明るく輝かせた。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。そして、本当にありがとうございました」
次の日。三人は日が高くならない内に集落を発つことにした。
身体に触れる空気はまだ冷たく、ゾワゾワと肌を粟立たせる。三人の前には、早い時間にも関わらず多くの住人が見送りにと集まっていた。
「えー、大袈裟じゃない?」
「まあまあ、せっかく出てきてくれてるんだし」
チャッタは素直じゃないアルガンを宥めると、集まった人々をぐるりと見回す。皆どこかスッキリとした晴れやかな表情をしている。
「これからも決して楽な日々ではないでしょうが。皆で協力して頑張っていきたいと思います」
もう二度と過ちを犯さないように。そう言った長の瞳には鋭く強い光が宿っていた。
ムルはそれを見て、大きく頷く。
「頑張れ」
「そうですね。貴方達の毎日が健やかであることを願ってます」
彼に続けてチャッタが微笑んだその時、集落の奥から小さな人影が駆け寄ってくるのが見えた。目を凝らしたチャッタが、小さくその名を呟く。
「コドル?」
「よかった、間に合っ、た」
肩で大きく息を吐き、コドルはチャッタたちの目の前で立ち止まった。予想外だったのか、コドルの父親も突然現れた息子を見て目を丸くしている。
「寝ていたんじゃないのか? チャッタさんたちには、父さんからよくお礼を言っておくからと……」
「頑張って起きてきたんだ! やっぱりちゃんとお別れを言いたくて」
頬を紅潮させ、コドルはチャッタたちを見上げた。
「ありがとう、お兄ちゃんたち! 遊んでもらえて、いろんなお話が聞けて、ホントに楽しかった! みんなもありがとうって言ってたよ。モコモコくんも触らせてくれてありがとう」
「にょ!?」
「良かったな」
突然のご指名にニョンが驚きの声を上げる。ムルは腕の中のニョンを撫でながら、どういたしましてと答えた。代弁のつもりのようだ。
「僕の方こそ楽しかったよ。皆にもありがとうって伝えておいてね」
チャッタが笑うとコドルは大きく頷く。そして何故か、モジモジと身を捩ると、チャッタに向かって小さく手招きをした。
不思議に思いながらも彼はコドルの近くへ行き、身を屈める。
「あのね」
コドルは両手で口の回りを覆うと、そっとチャッタに耳打ちをした。
「――コドル」
目を見開きチャッタがコドルの顔を見つめる。コドルはシーッと歯の隙間から音を出し、人差し指を立てた。悪戯が成功したようなその顔に、彼も思わず同じような仕草をして笑い合う。
そんな二人のやり取りに、残りの皆はただただ首をかしげたのだった。
「さっきのアレ、なんだったんだよ」
集落が砂塵に紛れて見えなくなった頃、アルガンがふと思い出したように尋ねた。
チャッタは一瞬考えるような素振りを見せて、ああ、と声を上げる。
大人には秘密と言われたが、あれは集落の大人のことだろう。一瞬迷うが、彼は小さな声でその“秘密”を告げた。
「やっぱり大きくなったら、コドル。旅に出るんだってさ」
「は?」
アルガンは口を大きく開け、前を行くムルもこちらを振り返る。
「旅がどんなに苦しくても辛くても、知らない世界は夢で憧れだから、頑張って追いかけるそうだよ」
「はー、懲りねえな。知らない世界って言っても、基本青い空と砂ばっかりなのに」
アルガンは腕を頭の後ろで組み、空を仰ぐ。
変化のない、と言えばそうなのだろうが。小さな集落から見た空とはきっと、違って見えることだろう。
「コドルが大きくなる頃には、もっと旅がしやすくなってると良いね」
「きっと、なってる」
ムルは確信があるように、大きく頷いた。
アルガンは口の端をひきつらせると、腕を下ろしムルへ声をかける。
「その根拠はどっから来るんだか……。改めて思ったけど、本当にアンタって甘いよな。水の蜂ってみんなこうなの?」
チャッタはその時、胸に棘が刺さったような感覚を覚えた。
ムルが首を傾げるのを見て、アルガンはハイハイとお飾りな相槌を打つ。
「どうせ、覚えてないとか言うんでしょー。分かってるよ」
「そうだな」
「……はっきり肯定されるのも、なんかイヤだな」
「チャッタ」
ずっと黙っているチャッタに気づいたのだろう。ムルがラクダの手綱を取ると、彼のいる位置まで下がってきた。
顔を上げ、チャッタは何でもないと微笑む。しかし思っていたよりもずっと、弱々しい笑みしか作れなかった。
二人の間に気まずそうな空気が流れているのを感じ、チャッタはそれを払うように首を振る。
「ごめん本当に大丈夫だよ。さて、予定よりも遅くなっちゃったけど、次はおまちかねのリペだ。良い情報が得られると良いね!」
「次こそ腹一杯旨いもん食ってやる!」
妙に気合の入っているアルガンを見つめ、チャッタはクスクスと笑う。
心配なこともあるが、今は旅を楽しもう。
彼は胸にそっと手を当て、果てなく広がる砂漠の向こうへと視線を向けたのだった。
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