第13話 約束
あの日から数日。
ムルが取り返してくれた水と、オアシスの水を使い、町の人々は瞬く間に元気を取り戻した。事態を知った国から追加の水の供給もあり、町は元の活気を取り戻すことができた。
しかしアルガンの怪我のことや、チャッタのオアシスを調べたいという希望もあり、彼らはもう暫くこの町に滞在することになったのである。
そしてアルガンの怪我も完治し、今日はいよいよ彼らの旅立ちの時。
「本当に、いろいろとありがとうございました」
「いや、こちらこそ。すっかりお世話になってしまって……有難いけど本当に良かったのかな、ラクダ。ムルは幸せそうだけど」
町の人からお礼に、とラクダを三頭譲ってもらったのである。砂漠の旅が少しでも楽になるようにとの配慮だ。
決してムルの癒しの為ではない、はずだ。
「もう出発できるって何度も言ってんのに」
「ちゃんと治しておかないと、旅先で悪化したらどうするんだ! むしろ数日で完治したことが驚きだよ」
拗ねたようなアルガンを、チャッタが母親のように
ティナは可笑そうに笑って言った。
「私、お母さんみたいに、あのオアシスを守っていこうと思ってます。大変だけどきっと大丈夫です! だって、一人じゃないですから」
母は一人であのオアシスを守っていた。ティナはチャッタたちとも相談し、おじさんやおばさんを始め信頼できる人には話そうと決めたのだ。
あのオアシスは、この町みんなのモノなのだから。
「そっか。ティナちゃんたちなら、きっとオアシスを守れるよ」
チャッタの微笑みに、ティナも笑顔を返す。
穏やかな雰囲気の中、ふとムルが俯きがちに呟いた。
「俺の、探し物」
「ああ!?」
思い出した。ティナはムルがなくした大切なものを探す約束をしていたのだ。
「ご、ごめんなさい! うっかりと言うか、すっかりと言うか……。い、今からでも間に合いますか!?」
「えー、もう良いだろ。忘れてたってことは、それほど大事じゃないってことじゃん。行こうぜー」
「……大切なんだ」
アルガンに反論するムルは、少しムッとしている様に見える。
とにかく約束をしていたのに、忘れていたのはこちらの落ち度だ。ティナは慌てて口を開く。
「にょっ!?」
「あれ?」
もちろんその奇妙な声は、彼女の口から出てきたものではない。どこか聞き覚えがあるような。
「あっ、あの時の不思議な生き物……」
「にゅにょにょにょにょお!」
ティナの後ろには、いつかの毛玉がいた。それは激しく跳びはねながら、立ち尽くしているムルの下へ。風変わりな奇声は何故か、歓喜に満ちているように思えた。
ティナはゆっくりとムル達に視線を向ける。
ムルはその奇妙な生物を食い入るように見つめていた。やがてその場に座り込み、体毛をかき混ぜるようにして撫でる。
ピタリと動きを止めた。
「――ニョン」
「にょおおおーっ!!」
無表情で思いきり、その毛玉を抱きしめる。不思議な生物も一際大きく喜びの声を発した。
「まさかムルさんの、大切な探し物って……」
ティナが目を丸くしながら尋ねると、ムルは毛玉を彼女の目の前に突き出した。
「迷子になっていた。名はニョン、と言う」
「やっぱりっ!!」
思わず同情してしまうほど切なげに呟かれた『大切』が、まさかこの生物の事とは。
「あー、確かに最近姿を見てないと思ったよ。ティナちゃんと初めて会った時に、それっぽい鳴き声が聞こえた気がしたけど……ついに幻聴かと」
そうか。痛みに悶えるチャッタの目には、毛玉の姿は映っていなかったのか。
「えっと、この子、何なんですか?」
ティナの問いに、チャッタとアルガンの二人は顔を見合わせる。同時に深く首を捻った。
「んー、僕と出会った頃には既にいたんだけど、飼ってるわけでもないし、部下でもないし、友達……?」
「ムルの恋人だろ」
確かに。あれは、相思相愛だ。ティナは未だ抱き合う一人と一匹に視線を向ける。
二人の背後にオアシスが見えた。
「あはは、完全否定できない所が恐ろしい。えっと、とにかく良かった。ムルの探し物って、ニョンのことだったんだね――ってアレ」
チャッタはそこで言葉を切り、勢い良く振り返った。彼の後ろには白々しく口笛を吹くアルガンの姿。
「アルガン!? キミ、ムルの探し物の正体知ってただろ!?」
「えーなんのことー?」
「知ってたんなら早く言ってくれよ! お陰でややこしいことになっただろ」
チャッタの指摘にアルガンは口を尖らせる。
「そっちが勝手に勘違いしたんだろ。それに俺、あの毛玉好きじゃないし! アレはずっと、ムルのこと探してたみたいだけどな」
あ、とティナは口に出して叫んだ。ひょっとしたら、自分が襲われたあの夜もこの生物はムルを探していたのだろうか。
だとすると。あの舌打ちは、ムルがいない事への当てつけか。
「ティナ」
そんな事を考えていると、急に間近で声が降ってきた。
驚いて意識を戻すと、ムルが目の前に迫っている。彼の接近は音もなく心臓に悪い。
「あ、えっと、ムルさん。何ですか?」
「頼みがあるんだ」
「私に、ですか?」
彼は大きく頷き、そして、とんでもない事を言い出した。
「行こう。町の入り口で、ラクダが待ってる」
未だ言い争っていた二人を他所に、ムルは荷物とニョンを担いでさっさと歩き出す。暫し遅れて、チャッタとアルガンはハッと我に返る。
「はっ! え、ちょっ、待ってよムル」
「置いて行く気!? 置いて行くなら、その毛玉にしろ!」
ムルは少しだけ振り返ると、ティナと目を合わせた。その瞳は出会った頃のように、澄み切っている。チャッタとアルガンもこちらを振り返った。
「じゃあね、ティナちゃん。いつかまた会いに来るよ! 元気でね」
「……じゃあ」
チャッタが手を大きく振った。アルガンも軽く手を上げて応えてくれる。
「はい! またいつか」
彼らの姿が見えなくなるまで、ティナは大きく手を振った。彼らは振り返ることはなかったけれど。
「慌ただしい別れになっちゃったな」
彼女はそう苦笑して天を仰いだ。
今日も太陽は憎らしいほど輝いている。しばらくするとまた暑さで、外を歩くことすら困難になるのだろう。
それにしても、ムルの言った事は本当なのだろうか。
そんな、奇跡のような事。
「でもきっと、ムルさん達なら」
ティナは頷くと、胸元のペンダントにそっと優しく触れた。
いつか来るその時を楽しみに思いながら。
「色々大変だったし、アルガンには怪我させて申し訳なかったけど、思わぬ収穫があったよね! あー僕に絵の才能があれば、あの素晴らしい空間を余すことなく描き残すことができたのに!」
「文章に残すだけでも丸一日かかったじゃん。やめてくれよ」
三人はラクダの背に揺られ、太陽の下でのんびりと会話する。
一歩先を行くムルは、ラクダとニョンに挟まれすっかりご満悦だ。相変わらず表情には出ていないが。
「でもこれから大変そうだよね。イミオン、僕らのこと喋りそうだし、ムルの事は冗談だと思われそうだけど……アルガンがなぁ」
チャッタは中央の役人に引き渡したイミオンを思い出し、苦い顔をする。アルガンもフードの中で舌を出して唸った。
「うげ。俺、どんなにご馳走出されても、絶対にフード取らないようにしよ」
「取らないのか?」
珍しく反応したムルが、弾かれたように振り返る。
「当たり前だろ? 俺の髪目立つもん。全部片っ端から燃やして良いなら自由にするけど」
「とぅるとぅるが……」
どうやらアルガンの髪の毛目当てだったようだ。精神的打撃を受けた様子のムルを見て、チャッタは苦笑する。
そこでふと思い出したことがあり、彼はムルに問いかけた。
「そう言えば……ムル、別れ際にティナちゃんと何を話していたの?」
ムルは再び前方へと視線を戻し、短く答える。
「頼み事をしてた」
「『頼み事』?」
暫しの沈黙。ラクダが砂を踏み締める音だけが響く。
「いつか、この国に雨が降る。その時にもう一度、あのオアシスの扉を開けて欲しいって」
「雨!?」
「はぁ? 雨なんて、生まれてこの方見たことないけど!?」
チャッタとアルガンは思わず空を見上げる。雨どころか、雲すらこの国では珍しい。
それなのに、雨とは。
「それはもしかして——水の蜂に関すること、君の記憶に関すること、かい?」
「はぁ!? 何か思い出したわけ!?」
ムルはラクダの足を止め、振り返る。俯いたまま、首を横に振った。
「思い出した、と言えるほどのことじゃない。ただ」
彼は言葉を濁し、天を仰いだ。
乾いた風が砂を巻き上げ、何処までも青い空に舞う。
「俺は、何か大切な約束をしていた気がするんだ」
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