第12話 遺されたもの

 大きな音と飛沫を上げ、残りの檻が崩れていく。イミオンが意識を失った為、同時に魔術の効果も切れたのだろう。

 ティナ達三人の上に、冷たい粒が降り注ぐ。

「私、こんな風に水に濡れたの初めてです」

「うん、僕も」

「……ちょっと嬉しそうに言わないでくれる」

 はしゃいだ様子のチャッタとティナを眺めて、アルガンは溜息混じりに呟いた。



 ムルは三人の様子を確認し、軽く息を吐く。そして倒れて動かないイミオンの服に手を伸ばし、その中を無遠慮に漁り始めた。

 戦いの余韻など微塵も感じさせない、淡々とした雰囲気である。

 やがて彼はイミオンの懐の中から、指先で摘める程の小さな球体を取り出した。


「これ、皆の水」

「これが?」

 ティナとチャッタが駆け寄り、彼の手のひらの上を覗き込む。深い青色に輝いており、正に“命の水”と言うべき美しい球だった。

「無事に取り返せたんだね。良かった」

 チャッタは安堵の息を吐き、ティナに向かって微笑みかける。釣られてティナも笑みを浮かべた。

「でもこれだけじゃ足りない、と思う」

「そう、なんですか……!?」

「そう言えば、やけに小さいね」

 取り返せたのはあくまで一部、なのだろう。他の水は既に使われてしまったか、もしくはもう何処かへ運ばれてしまったか。


「水、あると言えば、あるけど……」

「さすがに戦った後の水はマズイだろ。って言うか、無理。ほら、やっぱり無駄遣いじゃんか」

 床に散った水を眺め、アルガンの苛立つ声が聞こえてくる。

「まあ、それだけでも持って、上に戻った方が良いんじゃないの? ここに怪我人も居るし」

 続けて発せられた言葉に、ティナ達は慌てて彼の元へ戻った。いち早く駆けつけたムルは、アルガンの傷口を凝視している。心配しているようだ。



 そんなムルの姿を見ていたティナは、パッと表情を明るくして両手を合わせる。

「そうだ! ムルさんが水の蜂なら、アルガンさんも町の人も治せますよね!?」

 しかし、チャッタとアルガンは苦い顔をして、ムルは首を横に振った。

「無理」

「え? どうして……」

「ムルは自分が水の蜂だと言うこと以外の、記憶がないんだ」

 ティナは驚き、彼に視線を向けた。ムルの表情には何の変化も見られない。

 チャッタが言葉を続ける。


「しかもその影響なのかどうなのか、ムルは『水の形状変化』以外の魔術は使えなくてね。水を生み出したりも怪我を治したりもできないそうだよ。……ああ、毒は元々水の蜂の針が持っているものだから。殺生を好まない彼女達の、自衛手段の一つなんだろうね」

「魔術は俺の方が上だからな!」

 アルガンの言葉に、ムルは素直に頷く。

「だから僕らと一緒に記憶を取り戻す旅の途中なんだ。もしムルが水の蜂としての記憶があったら、僕は旅なんてせずに連日彼を質問責めだよ!」

 チャッタは片目をつぶって少しおどけて見せた。そう言われると妙に納得してしまい、ティナは深々と頷く。



「さて、とにかく早く戻ろうか。町の人が心配——あれ、ムル?」

 チャッタの声に視線を向けると、ムルがいつの間にかアルガンの傍を離れ、一人壁際に立っていた。

 ただ黙って目の前の壁を凝視している。

「む、ムルさん?」

「ここ」

 よく見るとムルが凝視していたのは壁ではない。

 そこには、閉ざされた一枚の扉があった。敵が入ってきた入り口とも違う。

「ティナ、ペンダント」

「え? な、どうしたんですか?」

 疑問に思いながらも、ティナはムルの元に駆け寄る。

 すると扉の横に小さな穴があった。それはちょうど、彼女のペンダントが収まりそうな大きさである。まさかここが、イミオンの言っていた隠し部屋だろうか。

 ティナは首のペンダントを外し、それについた石を恐る恐る穴に合わせた。

 ぴったりだ。


 重々しい音と共に扉が開かれる。地上に出たのかと思うほど眩い光に包まれ、ティナは思わず目を伏せた。

 ムルは全く動じる事なく、扉の中へ入っていく。

 

「えっと、行っちゃったけど、アルガン、大丈夫?」

「今更だろ。俺だけ除け者も気分悪いから行く」

 そう言うとアルガンは小走りに駆け出し、ムルの後に続く。元気そうな姿に安堵し、チャッタとティナも部屋に入った。



 そこは、薄く蒼色に光る空間だった。左右に立った四本の柱、壁も床も天井も全て、青色の半透明な石を組み合わせてできている。空の色みたいだとティナは思った。外の空間よりは格段に狭く、全員入ると殆どいっぱいになってしまう。

 柱に触れてみるとひんやりと冷たく、どこか水に触れている感覚に似ていた。

「きれい……」

 ティナは思わず感嘆の声を上げた。


「この部屋……オアシスの歴史が刻まれている!?」

 チャッタが興奮した様子で呟く。彼は部屋の壁を食い入る様に見つめていた。

「ほらここ! ここに文字が彫ってある! 所々筆跡が違うし、書かれた文字も文体も次第に新しくなってる。ここに出入りしていた人が、順に記録を残していったんだろうか!?」

 ティナやアルガンも彼の傍に行き、壁を見上げた。何となく意味の分かる単語もあるが、ほとんど不思議な記号の羅列にしか見えない。

 チャッタがその文字を、淀みなく読み取っていく。

「昔はこの空間全てに水が満ちていて、人々の生活を潤していたみたいだ。でも水の蜂が居なくなって、次第に水が減っていって……ここで記録が途切れてる。やはり水は枯れてしまったのか」


「枯れてない」

 強い声を発したのは、ムルだった。ティナ達が振り返ると、彼は部屋の一番奥にいた。そこは祭壇のように、他の場所よりも数段高い位置にある。彼は足下に視線を注いでいた。

「ムル? どうして……」

 ムルは首だけで振り返ると手を振って、三人を手招く。顔を見合わせ、ティナ達はムルの元へ近寄った。


 段差を登りそれが見えてくると、ティナは大きく息を呑む。


 そこには、教会にあったようながあった。ティナの寝台を二つ並べたくらいの広さと深さである。

 そこが見たこともないほど純度の高い水で満たされていた。周囲の光を反射し、星のように輝いている。

 ムルが呟く。

「まだ枯れてない。ずっと、守られていたんだ」

 水を眺めていたチャッタが顔を上げ、小さく声を発する。彼が引き寄せられる様に近づいたのは、窪みの奥にある壁。


「――ティナちゃん」

 彼女の名を呼ぶその顔には、優しげな笑みが浮かんでいた。

「見てごらん。これは、君が見るべきものだ」

 ティナは首を傾げ、ゆっくりと壁に近寄る。

 そこには彼女にでも読める文字で、こう刻まれていた。


『歴代の守り人が守ってきた水も とうとうこれだけになってしまった ここはもうとっくにオアシスとしての意味は失っている それでも絶やす訳にはいかない これは長い歴史の中で守り続けてきた 彼女たちとの絆の証 渇きに打ち勝つ希望なのだから』


 ティナは刻まれた文字に指を添わせた。何処か懐かしい感じがする。指先が最後の一文に触れた時、彼女は息を詰まらせた。


『私の大切な人々が渇きに苦しむことがありませんように 愛する娘 ティナが幸せでありますように』


「おかあさん……」

 そうか。

 お母さんはここで、一人でこのオアシスを守り続けていたのか。

 ティナは胸に両手を置いた。唇が震えて呼吸がしづらい。けれど不思議と温かく、心地よい感覚で満たされている。


「良かったな」

 ムルがその一言だけを口にした。チャッタが目を優しく細めながら、ムルの言葉に続くように言う。

「ティナちゃんのお母さん、すごく素敵なものを遺してくれたんだね」


「——はいっ」

 ティナは滲んだ視界の中、笑顔でそう言った。

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