第10話 真

「アルガン、大丈夫だったか!?」

 チャッタが声を張り上げると、アルガンはすぐにこちらを振り返った。

 まるで寝起きのような虚ろさで、暫し視線を彷徨わせる。チャッタ達と目が合うと、彼は一瞬気が緩んだような表情を浮かべて頭を掻いた。


「あー、久々に戦ったから、腹減った……」

「お疲れ様。とにかく、無事で良かった。色々な意味で」

 チャッタは肩の力を抜くと、アルガンに柔らかい視線を向けた。

 ティナも彼の変わらない調子に、安堵で深く息を吐く。

「お子様もいるのに、ヤバいもん見せる訳ないじゃん」

「多分同じくらいの年だと思いますけど……」

 不貞腐れたようなティナを、チャッタが宥める。

 その姿がなんとなくおかしくて、アルガンはもう少し揶揄ってやろうと口を開いた。


 それに気がついたのはアルガンだけだった。

 床には先程の戦いで散った水が溜まっている。それが気がつかないくらいの速度で徐々に集まり、形を成していく。

 その凶刃の矛先は、絹の髪を持つ美丈夫。

「――チャッタ!」

 アルガンが駆け付け、咄嗟にチャッタと刃の間に割って入る。


 小柄な身体から、鮮血が溢れた。


「アルガン……!?」

 チャッタの喉元を狙った水の刃は、代わりにアルガンの右肩を深く貫いた。赤い雫が床に落ち、水と混ざり合っていく。

 血染めの刃は、すぐに飛沫を上げて崩れた。


「アルガンさん!!」

 ティナの声にも悲鳴が混じる。

「あのさ、馬鹿なの? 簡単に油断してんじゃねぇよ。それに、どうしてアンタの方が狙われてんの? 一般人より狙われるって、もう笑うしかないんだけど」

 痛みのためか、口数はヤケに多い。チャッタは血が滲むかと思うほど唇を強く噛み締める。

「チャッタさん、アルガンさんは……」

 問われた彼は、指先でそっとアルガンの傷口近くに指を添わせた。



「大丈夫。傷は深いけど——」

「致命傷は避けたはずだが? 貴重な検体だからな」

 ティナの心臓が大きく跳ねる。

 チャッタの言葉を遮って、低い男の声が響いたのは頭上からだった。

 チャッタはそちらを確認することなく、アルガンを抱えてその場から跳躍する。

 彼らがいた後に、何者かがフワリと降り立った。白地に黄金の刺繍が映えるその衣は、誰が現れたのかを一瞬で悟らせる。


「い、イミオンさま……?」

「ふむ、上からの潜入と言うのも、これでなかなか趣向が変わって愉快なものだな」

 頭上を眺めて悠々と呟くのは、神官のイミオンだ。あの時感じたいかにも“神職者”と言った雰囲気が、今や全く別の物に感じられる。

「ど、どうして……」

「——もう演技は止めたのか」

 チャッタがアルガンを左腕で抱え、イミオンを睨みながら問う。


「演技、ねぇ。私はちゃんとやるべき事をやっただけだが」

「ふうん。あの治療と称してやった事も、やるべき事?」

 チャッタの問いに、イミオンは少しだけ眉を動かす。

「仲間が調べてくれたよ。倒れた人々にはある共通点があった。前日に君のを受けていたってね。恐らく怪我人や病人に針を刺した時、人から——水を奪い取っていたんじゃないか?」

「っ、そんな……!?」

 ティナは息を呑み、イミオンを見つめた。信用できるのはどちらかなんて、分かりきっている。怒りの感情が沸き上がってくる。

 アルガンを襲った魔術も恐らく彼のもの、彼は敵だ。



 沈黙していたイミオンの口元に笑みが浮かぶ。それは次第に妖しく、歪んでいく。とても愉快そうに、彼は口を開いた。

「治療代だよ、アレは。人の身体の七割は水分だ。ほんの少しいただいた所で、致命傷にはならないさ」


 悪びれもせずそう言って、彼は饒舌に語り始めた。

「この時代、水を持っている者が勝者だ。出世するには、聖人君子や水の蜂の称号よりも水そのもの、そして魔術の力だ! その赤毛の少年、『悪魔の魔術』だと? ハハッ、まさか本当にいるとはな……!」

 アルガンは歯を食い縛り、精一杯イミオンを睨みつけている。その顔色は酷く青白い。


「驚くべき事に、この少年は自らの身体から炎を生み出している! それはまさしく水の蜂が使っていた魔術、『水を生み出す力』と同質の魔術ではないか!? 長年どんな者が手を尽くしても創り出せなかった力だ! 一体どんな擬似魔術器官をその身に宿している? そして、それが国の手に渡っていないのは何故だ!? この少年を調べ、その謎が解ければ——きっと私はもっと高い地位を、名誉を、力を手にする事ができる!!」


 まるで演説だった。ティナは吸い寄せられた様に、イミオンから視線が逸らせない。襲われた時とも違う、別の恐ろしさが彼女の身体を震わせる。



「まさかこんな小さく貧しい町で、このような幸運に恵まれるとは……私もつくづく運が良い!」

 そこでイミオンは、何故かティナに視線を向けた。纏わりつくような視線に、ティナはグッと息を詰まらせる。


 彼は目を細めると指先を上げ、彼女の胸元を指差す。

「それと、女、貴様だ。そのペンダントを渡して貰おうか」

「な、何であなたまでこれを……?」

「奇妙なことを言うな? 貴様らもここが水の蜂が遺したオアシスだと知って、ここに来たのだろう?」

 イミオンは少し意外そうな顔をして言う。


「だったら、何?」

 チャッタはアルガンを気に掛けながらも、イミオンから決して視線を逸らさない。

「こう言ったオアシスはいくつか発見されているが、決して数は多くない。そして、そのオアシスには必ずの存在が不可欠だ」


「鍵って——彼女のそれが、そうだと?」

「これが……そんな、まさか……?」

 ただの石のはずだ。母の形見だが、何の価値もない。しかし敵は何度もこのペンダントを求めている。

 本当にこれが、水の蜂に関する重要なモノなのか。

 イミオンは薄く嗤っているだけだ。それ以上話すつもりはないのだろう。



「どうした? 貴様が持っていても宝の持ち腐れだろう。安心しろ、この私が責任を持って、この国と人の存続の為に有効活用してやるさ」

 言葉とは裏腹、悪意に満ちた笑みを浮かべ、イミオンはティナに近寄った。

 ティナは俯いて胸元のペンダントを見つめる。


 煩わしかった。こんなもの、どうでも良い、いらないと思っていた。

 思っていたつもりだった。


 ティナは顔を上げると、強い決意を持って声を発した。


「嫌っ!!」

「何故だ? 貴様が持っていても仕方がないと言っただろう? ……価値を知って、惜しくなったか。あさましいな」

「違う!」

 彼女は叫ぶ。もう自分の本当の気持ちを隠すのは止めだ。

「本当は、始めから『いらない』なんて思ってない!」


 ムルの言う通り、嘘だ。本当は母親を嫌いになってなどいない。

 他人が母親を悪く言うたび胸が痛んだ。お母さんはそんな人じゃないと叫びたかった。

 しかし幼い自分はそれができず、自ら母親を恨むことでその苦しさから逃れようとしていただけだ。

「これは、どうでもいいものなんかじゃない。これにどんな秘密があっても、どんな価値があっても関係ない!」


 そう、これは自分にとって本当に、大切な、

「これはお母さんが、私に遺してくれた大事なペンダントなんだから!」

 声が、反響する。


 本当に自分の声なのかと思うほど、力強い響きだった。

 肩で大きく息をしていると、温かい物が彼女の頭に触れた。


「よく言った」


「ムルさん……!?」

「ムル!?」

 いつの間にそこに居たのか。ムルがティナの横に立ち、彼女の頭に優しく手を置いていた。


 アルガンが小さく舌打ちをして口を開く。

「アンタさ、どんだけタイミング良いんだよ」

「話の途中だったから、遮って良いのか迷ってて」

「マジで見計らってたのかよ……」

 彼は呆れて脱力するが、その表情には確かな安堵が見える。


「何だ、貴様は?」

 イミオンがそんなムルに嘲笑を送る。しかしムルは気にした素振りも見せず、視線を下げた。

「ここ、水があるのか」

 彼の言葉の意味が分からず、イミオンは怪訝そうに眉を顰める。

 確かに今、この空間には先程からの戦いで、水がそこら中に散っていた。

「どうした、水が珍しいか」

「いや」

 再び嘲笑混じりの言葉を浴びても、ムルは平然としている。

 彼は片膝をついてその場にしゃがみ込むと、足下の水にそっと触れた。

「助かる」


 そして指先で水を掬うと、それを天に向けて放った。


 揺らめき、僅かな光を反射して、一粒の滴がちらちらと輝いている。

 刹那、宙に浮いて。真っ直ぐ真っ直ぐ、ムルの手の中めがけ、落ちて行く。


 ムルはそれを、


 手のひらが一瞬、蒼く眩い光を発したかと思うと、その手の中で何かが形作られていく。彼は勢いをつけ、腕を真横に伸ばした。


「な――」

 イミオンとティナは目を見開く。


 ムルは泰然として、そこに立っていた。手に一本のを携えて。

 二の腕ほどの長さもある針は、彼の手の中で透き通った輝きを放っている。


 ムルは腕を上げると、針をイミオンへと向けた。

「おい、髪がカチカチなお前」

 ムルの声が、凛と強く響く。


「本物の蜂、見せてやる」

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