第4話 母の事
チャッタは不満の声を上げているが、無視だ。ティナは怒り半分、呆れ半分で前へ進む。
ムルやアルガンは別として、チャッタは普通だと思っていたのに。いや、思い返せば初対面の時から、水の蜂について語る時は暴走気味であったか。
足早に歩を進めていると、何かがティナの胸元から零れ落ちた。軽い音を立て、道の上に落下する。
ムルが彼女の手からするりと逃れて、それを拾い上げた。
振り返ったティナが見たのは、自分のペンダントを持ったムルの姿だ。
「あ――」
彼女は小さな声を上げて、異常とも言える速さでそれを奪い取る。
「一体どうしたの? ティナちゃん」
相変わらず無反応であるムルの代わりに、チャッタが目を丸くして尋ねた。
「えっあ、あの……すみません」
問われて初めて、ティナは自分の行動に戸惑う。拾ってくれたムルにも失礼な態度をとってしまった。
ティナは顔を伏せ少し間を空けて呟く。
「これ、死んだあの人――母が遺した物なんです」
息を呑むチャッタとただ彼女を見つめているムルに向かい、独り言のように話を続けた。
「私が小さい頃、このペンダントだけを遺して。……せめてもっと良い物遺してくれれば良かったのに」
そのペンダントは細かい鉄色の鎖に、くすんだ翡翠色の石がついているシンプルな物。恐らく宝石でも何でもない、ただの石ころだ。
ティナはその石を指で軽く擦りながら、そう吐き捨てた。
チャッタは何かを堪えるように視線を落としている。空気が重くなっているのに気がついて、彼女は慌てて顔を上げた。
「気にしないで下さい。あんな人のこと、もうどうでも良いんです! 行きましょ!」
ティナは努めて明るく笑うと、再び二人の手を引いて歩き出した。
いつの間にか町の空気が冷たくなっている。ティナは視線を上げた。
「あ、もうこんな時間。……そう言えば、皆さんは今夜どこにお泊りですか?」
紅く沈みゆく太陽に目を止めて、彼女は羽織ったマントを体に軽く巻きつけた。日が沈めばこの辺りは一気に冷える。
「とりあえずアルガンと合流して、どこかに宿を取ろうかなって。まだこの町で集められる情報がありそうだしね」
チャッタの言葉に、ムルは同意するように小さく頷いた。
「あの、この町には宿、ないんですよ。何年か前にはあったんですけど」
「えっ……そうか、そういう町増えてるんだよね」
この砂漠で旅をするのは命懸けだ。特に近年益々水が減り、砂漠が広がってきている。
砂漠を行き来するのは一部の商人や中央から水を運んでいる者、後はたまにやってくる神官くらいで、個人的に旅をしている者などほとんどいない。
彼女は思考を巡らせながら、チャッタたちに視線を向けた。彼らはこれからどうしようかと相談しているようだ。
ティナは軽く頷いた。
「あの、私がお世話になってるおじさんの家で良ければ。私もお願いしますし、おじさんたちならきっと快く泊めてくれると思いますよ」
「そんな、良いの? お邪魔しても」
申し訳なさそうに問いかけてくるチャッタの横で、ムルも少し首を傾げた。
ティナは二人を安心させるように、にっこりと微笑んで見せる。
「大丈夫ですよ。三人とも何か旅のお話でも聞かせて下さい。おじさんたちもきっと喜びます」
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
チャッタはムルと顔を見合わせる。ティナはそんな二人を見て再び微笑む。
「さあ、そうと決まれば! アルガンさんも待ってますし行きましょう!」
ペンダントのことを必死で頭の隅に追いやり、彼女は二人を連れて歩き出した。
営業を終えたはずの店内を、ランプの灯りと陽気な笑い声が明るく照らしている。
「そうですか。水の蜂の痕跡を追って、ここまで……お若いのに学者様とは素晴らしい」
「いえいえ。僕の知識などまだまだですよ」
おじさんとチャッタがそう言って笑い合う。
案の定、おじさん達はチャッタ達の宿泊を快く承諾してくれた。今は三人を交えて食事会の最中だ。
「アンタ! 久しぶりのお客さまだからって、はしゃいで明日の仕事に差し支えたら承知しないよ!」
おばさんも口ではそう言っているが、同じくはしゃいでいるのは明白だ。おじさんの横に腰かけ、普段よりも浮かれた様子で料理を取り分けている。
おじさんおばさんも楽しそうで良かった、ティナは顔を綻ばせた。
「それで、その二人も学者様ですか? また貴方以上にお若いですが」
おじさんが視線をムルとアルガンに向ける。
「アルガン! 君、まだ食べるのか? 僕たちが合流した時も、散々飲み食いしていただろう!?」
この店の食材を全て食べ尽くすつもりか、チャッタは料理を頬張っているアルガンに焦ったような声をかけた。彼は大きな口を開け、口一杯にパンを頬張っている。
何故か室内でも彼はマントのフードを取っていない。
ちなみにムルは食事を終えた後、目についた物に触れてはお気に入りを探していた。チャッタはともかく、この二人が学者だとは思えない。
「そうですね。この二人は、何というか……」
「戦闘員だよ。護衛的な? 旅は危険が付き物だろ」
アルガンは口の中の食べ物を綺麗に咀嚼し、飲み込んだ。
「チャッタはこの通りこんな風だからさぁ。何かとトラブルに巻き込まれて大変なんだよ。よく今まで無事だったよな、アンタ」
アルガンの指摘に、チャッタは視線を彷徨わせる。
「いや、まぁ、うん。言われてみればそんな気も……。でもアルガンとムルだって、よく厄介事を持ち込んでくるだろ?」
ティナの目にはチャッタが一番保護者的な位置付けに見えたので、少し驚く。
そこでふと、ティナはチャッタに尋ねた。
「そう言えば、チャッタさんが水の蜂の謎を追うようになったきっかけって何だったんですか?」
すると彼の表情から笑みが消えた。アルガンとムルがチャッタを一瞥する。
張り詰めた空気に、ティナはサッと顔色を変えた。
しかし次の瞬間には、チャッタが綺麗な笑みを浮かべて口を開く。
「そうだなぁ、最初ちょっと楽しくない話になっちゃうんだけど」
話しづらい内容なのだろう。慌ててティナは静止しようとするが、それよりも早く彼は話し始めた。
「僕は幼い頃、自分の母親に水の蜂の女王を演じるように強要されてきたんだ」
チャッタは少し顔を背けて目を伏せ、淡々と話をする。
「水の蜂の女王が生きていた! ってね、信仰の対象にして、村の人達から金品やら何やら献上させて……まあ、詐欺だよね。その時の僕は母親に言われるがまま、知りもしない水の蜂の女王を演じてた。そもそも男なのにね」
ランプの中の炎がゆらりと揺れ、彼の横顔を照らす。彼は彫刻のような、綺麗な笑みを浮かべていた。
「ある日、母親が一人の旅人、水の蜂の学者を連れてきたんだ。『彼女から水の蜂について学んでもっと完璧な女王を演じるように』、と言ってね。もっと多くの人を騙そうと欲が出たんだろうね」
自分も恐らく、こんな顔をして母の事を語ったのだろう。チャッタの表情が、ティナには自分が母親を語る時と被って見えた。
「僕は彼女から水の蜂についての知識を学んだ。歴史や特徴、文化、分かっている範囲のことは全て教わったと思う。それで、思ったんだ」
チャッタは顔を上げた。先程と変わって瞳は輝き、頬に赤みが差している。
まるで謳うように彼は言葉を紡ぐ。
「僕は、こんな美しいものには絶対になれない、って」
ティナは息を呑んだ。
「それで僕はもう嘘はつけないと母親と大喧嘩。家を飛び出して、水の蜂の学者——後の師匠に無理矢理同行させてもらうことになったんだ。で、結果水の蜂にすっかり魅せられた一人の若者が誕生したと」
最後だけチャッタは、少しおどけたように言葉尻を上げて見せた。
彼は自分とムル以外顔を伏せているのを見て、焦ったように両手を合わせる。
「ごめんね、やっぱり言わない方が良かったかな?」
「そうだよ、聞かれたからって何素直に喋ってんの? もう俺はその話慣れっこだけどな、周りの空気が重くなるんだよ! メシが不味くなる!」
アルガンはそう言いながらも、皿の上の料理に手を伸ばす。彼の食欲はどうなっているのだろうか。
その姿にティナは漸く、肩の力が抜けた気がした。
「すみません、チャッタさん。話しづらい事を言わせてしまって」
「いや、今までも訊かれることがなかった訳じゃないんだ。そう言う時は、もう隠さず喋っちゃう事にしてて。結果的に僕は水の蜂の謎を追うという目的を見つけられた訳だし」
「そうですか、だったら……良かったです」
「さあ、仕切り直しと行くよ! まだまだ料理はあるから、たんと食べておくれよ!」
おばさんがパンッと両手を合わせて言った言葉に、アルガンは瞳を輝かせる。
再び明るい食卓に戻り、店内の明かりは夜がすっかり更けてしまうまで消えることはなかった
ティナは自室へ戻り扉を後ろ手に閉めた。その音と同時に、口から重い溜息が洩れる。
楽しい時間を過ごしたはずなのに、何故か心は晴れてくれなかった。ティナは胸元のペンダントに視線を落とす。
母親が亡くなったのは、もう十年も前だった。死ぬ前にこのペンダントをティナに握らせて、何事か言おうとして事切れた。
母は隠し事が多い人だったらしい。裏で何か良からぬ事をやっているのではないか、そんな根も歯もない噂も立っていたそうだ。ティナの耳にもそうした声はよく届いた。その中には、娘の自分に関する事も含まれていた。
これ以上あの人のことを考えていても何も変わらない。彼女はそう思って、ベッドに寝転がり瞼を閉じた。
もうあの人のことを考えないで済むようにきつく。
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